<5000ピースのジグソーパズル 13>





467

円堂はすごい。豪炎寺もすごい。だが鬼道へ対する感情は、そういった嫉妬と羨望の混じった尊敬と、そこへ更にすこし違う種類のものが入っている。部屋を片付けたくらいでは何ともなりはしないが、彼に負けたくない、彼より強くなりたいという願望を少しでも納得させたかった。
しかし、いくら頑張っても追い付けない。ある地点へやっと辿り着いたと思えば、もう既に別の方へ歩き出している。ひらひらとはためくマントの端を追えば追 うほど、かえって差が開いてしまうような感覚がまとわりつく。料理、洗濯、掃除、勉強、ゲームメイク、技術力、体力、全ては難しくてもどれか一つだけでも 上回りたいのに、追いかけるだけでやっとだ。
ビジネスニュースで毎日のように耳にする鬼道グループの御曹司だから、元が違う。言い訳は簡単だ。鬼道は見られること、嫉妬や羨望の眼差しを浴びることに慣れているので、不動なんかの視線にはビクともしない。ちょっと睨んだくらいで彼の心を動かすことはできないのだ。
FFIで過ごしたわずかな時間に、彼の口から出るのは円堂と豪炎寺のことばかり。
「あいつは熱い心だけで人を動かしてしまうんだ。まるで革命家みたいに」
「あいつのボールには心を癒やす力がある。癒やすだけじゃなく、もう一度立ち上がる力を沸き起こさせてくれるんだ」
文字通り血のにじむ努力をしても、彼にそんな評価をしてもらうにはある種の風格が必要で、そのカリスマ性はいくら頑張っても身に付くものではない。
だから、考え方を変えた。同じ道を競い合うのではなく、別の道から同じゴールへ辿り着けばいい。自分は自分なのだ。
(天才ゲームメーカー鬼道有人。思ってた通りの奴だったぜ)
まだ出会う前、影山にもらったデータを見て、ほくそ笑んだのを覚えている。成績優秀、冷静沈着で的確な判断力を持ち、何をやらせても器用にこなし、常に トップに君臨する優等生。生真面目で正義感が強く、繊細な面もあるが自信に満ち溢れた熱い心を持っている。人々が惹かれるのも無理はない。彼も円堂や豪炎 寺と同じ格付けで並ぶことのできる人物であり、伝説のために選ばれし者なのだ。
だがこれは、とんだ思い違いだった。




3280

準々決勝を通過した時点で、得点は二番手だった。準決勝を終え、残るはあと一戦。
「父さん、チケットは届きましたか?」
午後の陽光が照らす石でできた幅広の階段を、ひとつひとつ上がっていく。
『ああ……届いたよ』
「決勝です。ぜひ来てください」
『そうだな――仕事が無ければ行く』
胸が圧迫され、足に余分な重力が生じる。
「待っています。――相変わらず忙しそうですね。何よりです」
快晴の喜びも薄れていく。皮肉っぽい言い方は同居人の癖が移ったのだろうか。しかし電話の向こうは嬉しそうだ。
『それが終わったら帰ってくるんだろう? 私も待っているよ』
「はい」
二言三言交わして、携帯電話を耳から離す。簡単に操作して、もう一度電話をかけた。
「今どこだ? ――わかった。五分で行く」
携帯電話をポケットにしまい、踵を返して階段を早足で降りていく。
きっと義父も衛星生中継で観てくれたと思うが、昨夜の準決勝は素晴らしかった。事前に綿密に打ち合わせておいたはずの不動が勝手な動きを始めた時は驚いた し焦ったが、何かあるはずだと落ち着いて全体を見渡した途端ボールを操る彼の意図に気付いた。四つの作戦は全部読まれているということを、不動は少々危険 だが確実な方法で探り、暴いたのだ。鬼道はチームの特性を活かした戦略を一から練り直さねばならなかったが、土壇場の変更は相手に驚愕と焦燥を起こすこと ができた。敵は百八十度変化したゲームスタイルについてこれず、後半十分でフィディオが二点めを決めて勝利した。
白い流星は決勝戦を前に、褒めちぎり労うチームメイトたちに対して「僕は君らがつないだボールに最後のひと蹴りをしてるだけさ」と答え、二人の司令塔に微笑んだ。
賑わう市場の大通りにあるカフェで、暇そうに頬杖をついて携帯電話をいじっているのを見つけ、鬼道は立ち止まった。夜中に届いていた円堂からのメールに、 『お前たちの絆の力はとんでもなくスゲーレベルだな!』や、『来週が待ちきれないし、早く一緒に試合したいぜ!』などと書かれていたことを思い出す。
あと五日で、決着がつく。
遅いと文句を言われるだろうから景気づけだと言っていつもより良い店へ連れて行ってやろう。空を仰ぎ長い夜へ向かう淡いグラデーションを脳裏に焼き付け、足を踏み出した。




3217

一年近くも一緒に過ごしていれば、距離感も麻痺してきて当然だとオレは思う。いつまでもこのままっていうのはありえないし、レンタル期間が終了したら大人しくスペインに戻るつもりでいたからそれ程でもないが、一緒にいることが当たり前のことになりつつあった。
うんざりするほど行動を共にしてうんざりしない相手は、オレにとっては珍しい。頂点の先にある別れの時を前に将来のことを考え、オレは少し自分勝手な妄想に浸っていた。
だから奴が「これが終わったら日本へ戻る」と言ったのも、そんなには驚かなかった。理由は答えてくれなかったが、円堂に協力するためとだけ教えてくれた。 オレにも後々協力を頼むかもしれないと連絡が来たが、オレたちのキャプテンは相変わらずで、どんな理由でとか誰ととかそういう具体的なことは何一つ教えて くれなかった。なんかヤバそうだったから、盗聴を警戒していたのかもしれないが。
それとは別に、オレはさっきの件で迷っていた。この八ヶ月で随分と多くの成長を遂げられたのは、人生最大のライバルと協力して戦ってきたおかげだ。敵と一 時和解するなんてバカげていると、昔のオレなら一蹴しただろうが、この話を持ちかけられた時すでに、断るなんて選択肢は欠片も存在しなかった。その理由 が、八ヶ月経ってやっとわかった。別れるとか離れるとか諦めるとか、出会った時からずっと、そんなこと考えてもみなかったのだ。




3286

リビングの明かりをつけて時計を見ると、二時を過ぎていた。不動が風呂に湯を溜め始めた音がする。勝利のもたらす歓喜の魔法はすっかり解けてしまっていたが、それは酒のせいではなかった。
「不動、話がある」
浮かれた雰囲気の中で、自分でもいつもより二~三杯多かったように記憶しているが、足取りはしっかりしているし思考も働いている。それは不動も同じだと踏んで、話しかけた。
「なーに、どうしたよ。歴史的大勝利を納めた天才殿にしては、ずいぶんシリアスじゃねーか」
カウンターの横に立って手を差し出した不動に水を汲んだコップを渡す。一口飲んで、呟くように言うのが聞こえた。
「オレも話したいことあったんだ」
珍しい言い方が気になった。しかしその心を読んだのか、不動はカウンターに肘をついてもたれる。
「大したことじゃねぇよ、そっちからどーぞ」
この時、話す順番が逆だったならどうなっていただろうか、そう考えるのは無意味なのでやめておく。鬼道は静かに深呼吸し、ゆっくり瞬きした。
「おれはワールドカップが終わったら、プロにはもう出ない。日本代表に選ばれても選ばれなくても、次が最後だ」
一瞬遅れて全てを理解し見開かれた不動の目を見て、視線を落とす。コップが二つ、佇んでいる。
「おれは、いつまでもフィールドに立っていることはできないからな。次がどうあれ、この大会を最高にできてよかった」
「ハッ」と不動が口元を歪め、水を少し飲んだ。
「辞める前に、お前とプレーできてよかったと思う」
コップがカウンターに置かれた小さな音がやけに響く。
「おまえ、引っ張り凧だぜ。世界中からオファーが来る。この世界じゃ三十まで現役やってられる奴なんてほんの一握りだって言うけど、お前は――」
目線も穏やかな表情も変えず黙っている鬼道の姿に、不動は言葉を失った。
(そうだ。お前なら分かってくれるだろう。約一年、一緒に暮らしたのだから)
だが不動は、開かないくす玉の紐を引っ張り続けた。
「なんでだよ? 一番良い時にやめるとか、臆病風に吹かれたか」
「帝国学園総帥は、二足の草鞋では務まらない。中途半端は嫌なんだ」
「お前の尋常じゃない脳ミソなら両立できるんじゃねェ? いつも会社に居ないで世界中の支社に指示出してるCEOとか、いっぱいいるじゃん」
なおも食い下がる獰猛な犬のような彼に、とどめを刺さなければならないと知る。
「それほど甘くないんだ。それに、父さんと約束した。鬼道有人としての務めを果たすと」
「――どういう意味だよ」
案の定、不動の逆鱗に触れた気がした。嘘をつき誤魔化し皮肉ばかり言うくせに、この男は諦めて引きこもることを嫌う。その命尽きるまで闘うべきだと信じている。
「そのままの意味だ。鬼道の名を継ぎ、その名に恥じないよう生きることだ」
「そのままって……額面通りに受けとるのか? 恥じない生き方をするために嘘つくのかよ!」
痛いほど分かっているからこそ、ここで言わなければいけなかった。
「お前には分からないさ! どんなに苦労してきたか……おれの気持ちなど、分からない!」
きっと不動は、この時点でほとんど分かっていた。鬼道がなぜ突き放すような言い方をするのか、状況も感情も少し先の未来も、鬼道が考えていることを読めていたはずだ。
「他人の気持ちなんか誰も分からねェんだよ。よく皆、分かる分かる言ってっけど、自分じゃねーんだから分かるはずないんだ。だから人は話すんだろ」
急に優しくなった声を、聞きたくないと耳が閉じようとする。鬼道はもう口を開かないと決めていた。
「こんなんじゃ言葉もガッカリしてるぜ、間違った使い方ばっかされてさぁ」
不動は部屋へ引き上げ、ほんの少し水の入ったコップだけが残されていた。急に今まで忘れていた試合による肉体的疲労を思い出し、鬼道は椅子に座る。サングラスを外し眉間を揉んで、深く息を吐いた。





ほとんど眠れなかった。朝の光も、今は冷酷に照らしだす明るさに思える。着替えて廊下へ出ると、不動が郵便物を持って玄関から戻ってくるところだった。
「おはよう」
立ち止まり、緑の目が鬼道を見る。まるで機械の故障を点検しているかのようだ。
「……はよ」
行間を感じて、蒸し返したくなかったのに言わずにはいられなかった。
「昨日は、すまなかったな。……せっかくお前は、絶好調だったのに」
自嘲に微笑んで話を終わらせようとリビングへ向かったが、不動は笑いだした。
「とんだ茶番だな。ああ、なかなか楽しかったぜ」
分かってはいたが、横をすり抜けて先へ行く彼に腹が立った。不動はふざけた調子で続ける。
「どうせ、親父さんから何か言われて、最初から決めてあったんだろ。何にせよ、オレは天才坊っちゃんの遊び相手に相応しかったってわけだ。光栄だねぇ」
「お前もスペインへ戻るんだ、ちょうどいいだろう」
皮肉を無視して続けた言葉は、話が噛み合っていない。振り向いた不動は腕を組んで苦々しく笑う。
「おまえのことだから、そうやって区切りつけたつもりでもズルズルやってくんだろ。帝国のこともあるしな。でもオレはもう面倒見ないぜ。お遊びは終わりだ」
怒りと喪失への焦燥で余程平静を欠いていたのだろう、立ち去ろうとするその背に、思わず叫んでしまった。
「遊びなんかじゃなかった――!」
口にした瞬間、言ってはいけなかったと悟った。振り向かずに廊下の手前で足を止めた不動は、低い声で言う。
「へえ。残念だな。オレは――」
「やめろ。言うな」
本能的に青ざめた鬼道が止めてもなお、不動は小さく笑って口を開いた。
「オレは、本気だったことなんかないぜ」
ちらと見えた横顔からは何の感情も読み取れず、そのことが鬼道の殆ど確かな推測を裏付ける。
(おれはお前に、最低の嘘をつかせた)
自分ではなく、相手に壊させた。なんと卑怯な手だろう。この名を背負った時、妹と別れた時に、このくらいの覚悟――何を失っても負ける理由にはならないと、覚悟してここまで生きてきたはず。最初から求めなければ良かったのだろうか。
何が辛いのか理解した途端、涙が抑えられなかった。慌ててシャツの袖で擦ろうとして、思いとどまりハンカチを探す。そっと顔に当て深呼吸すると、鏡を見に行って普段と変わらないことを確認した。
壊させたのではない。彼がそう仕向けたのだ。憤りと悲しみを、冷たい水で洗い流す。
「鬼道」
バスルームから出たところで不動が来た。身構えてしまったが、彼はいつもより沈んだ声で静かに尋ねただけだった。
「朝メシ食う?」
正直、それほど空腹だと感じていなかったが、頷いた。病人じゃあるまいし、不動の作ったものなら食べているうちに食欲も湧くだろう。
「ああ。お前も食べるなら」
「じゃあ作る」
それだけ言って、不動はキッチンへ向かった。その背にかけたい言葉が山のように心の中で降り積もる。ずっと追いかけ、求めてきた背中。
やっと並んだと思ったのは、大喧嘩して仲直りした後だ。対等に、肩を組んで同じ土俵へ上がり、良いところも悪いところも全部、人間として受け止め、認め合うことができたと感じた。そしてその瞬間は、人生で一番輝いていた。




3289

聞き取りやすい女性の声で、アナウンスが流れる。
"十五時三十分発バルセロナ行き直行便をご利用のお客様は三番ゲートまでお越しください"
イタリア語、英語、日本語、中国語……
快晴の陽光が大きなガラス窓から差し込み、空港内は温かい色が満ちている。
約一年、共に成長してきたフィディオとチームの全員、マネージャー、フェルディナンド監督まで見送りに来ていた。ハグの嵐を受け流し、冗談半分で「大好きだよ。戻っておいでよ」と頬擦りするフィディオを引き剥がして、最後に鬼道の前で立ち止まる。不動は鬼道に握手を求め、掴んだその腕を引っ張って一瞬だけ肩を抱き合った。
「それじゃ」
短く、不動が言ってスーツケースの持ち手を掴んだ。どこかで安売りしていたのか、彼に似合わない黄緑色。
「ああ」
元気で、頑張れよ、連絡くれ、また会おう。
言いたいことは幾らもあったが、どれも言葉にならなかった。代わりに皆が口々に言ってくれた。
今は赤みのある光に照らされた、青みがかった深い緑が、物言いたげに鬼道を見たが、彼もそれ以上何も言わず一同に向かって片手を上げ、そして背を向けた。
遠ざかっていく背を追いかけて、そのまま世界中を一緒に旅することができたら、どんなに良いだろう。チームの皆が不動の離脱を惜しむのを聞きながら、彼が手に残した温もりを掴もうとした。





家へ帰ると、妙に広々としていた。映画みたいに、感傷に浸って泣き叫びたい気分だが、そうはならない。
(こういうものを乗り越えて、おれは強くなる。成功者たちは皆、驚くほどの苦難を乗り越えてきたんだ)
冷えきったソファへ腰を下ろし、喉が渇いていることを思い出した。あとで後悔しても構わない、やらぬ悔いよりやった悔いだなどと、誰が言ったのだろう。
なぜこんな思いをしなくてはいけないのか?
言い出したのはフィディオだが、彼は鬼道の心情を読んでいただけで悪くない。
鬼道はポケットから携帯電話を取り出した。誰からも、メールも着信もない。きっと彼は向こうへ着いても明日になっても連絡はしないだろう。かといってこちらからメールの一通でも送ろうものなら、感情を煽るだけだ。恐らく、お互いの心を傷つける、両刃の剣。
(これが、おれの宿命か)
愛した人は、皆去っていく。自分から去らせているのだ。
この因果は、同性しか受け入れられないという己の性質が、宇宙法則に反した罪深いものだということに起因していると思っていた。




2475

サポーター達と同じ応援ユニフォームを着た若い日本人の女性アナウンサーが、マイクを手にして興奮した様子でテレビカメラに向かっている。
「さて、それでは昨年からプレスタンテで素晴らしい活躍を見せていらっしゃいます、鬼道有人選手にお話を伺いたいと思います! 鬼道選手、よろしくお願いします!」
カメラが動き、肩まで伸ばした見事な造形のドレッドヘアに丸い緑色のレンズのサングラスをかけた青年が、アナウンサーと同じ色の正式なユニフォーム姿で隣に映し出された。端正と思われる顔は半分ほどサングラスに隠れてしまっているが、眉と口元は穏やかで落ち着いた微笑を浮かべている。
「よろしくお願いします」
軽く会釈をして、ややハスキーとも言える中低音が滑舌の良い日本語を紡いだ。
「決勝進出、おめでとうございます! イギリス戦、本当にお見事でした!」
「ありがとうございます」
微笑にすこし、照れが混じる。これもファンサービスのうち、計算された笑みなのだろうか。
「エドガー選手とはFFI、そして高校時代の世界大会でも戦われていますよね。場所は違いますが同じ時代を駆け抜けるライバルとして三度目の対峙だったわけですが、どのような試合でしたか?」
サングラスの下の口元が、自信に満ちた微笑へ変化した。
「そうですね……彼は非凡な選手です。FFIの頃から、悪戦苦闘させられてきました。しかし僕には三連敗ということになりますから、栄誉を与えてくれたと感謝するべきでしょう」
「本当に接戦でしたね。素晴らしい試合でした。次のスペイン戦では、不動選手とぶつかります。期待も強いと思いますが、意気込みはどうでしょうか?」
彼は少し考えてから答えた。
「彼も、非常に優秀な選手です。誰よりも頂点を目指して、どん底から這い上がって来ました。ちょっとやそっとでは折ることができません」
「お二人は元イナズマジャパンの一員ですが、高校も一緒だったんですよね? その頃から衝突を繰り返していたそうですが?」
軽い笑いにあげた声は温かい。
「彼とは似ている部分が多いんです。僕のことも知り尽くされているので、それなりの作戦を練りに練っておかなければなりません」
「勝算はありますか?」
再び、少しの間。
「こちらには白い流星がいますからね。僕と不動だけの話なら、五分五分だと思います。敵同士で戦えることを待ち望んでいました。良い試合になると思っています」
その余裕のある微笑は、彼の心の広さと器の大きさ、自信の強さから構成されているもので、見る者を感服させた。
アナウンサーが恍惚のうちに、満足げに頷いた。
「ありがとうございます。鬼道有人選手でした! CMの後は、フェルディナンド監督にお話を伺いたいと思います」
爛々と目を輝かせるアナウンサーが消え、家電のコマーシャルが始まった。




3336

イタリアへ移る時にアパートは引き払ってしまったのだが、不動が使っていた部屋は空いたままだった。監督とチームから歓迎を受け、おかえりパーティーを開いてもらった。メンバーは変わらず、国内リーグ戦も順調だったらしい、不動がいなくても一位を勝ち取った。
イタリアでの活躍は皆も見てくれていたようで、成長を認められ期待が高まったことが手に取るように分かった。
しかし、不動はどこか喜びに身を委ねきれていない節がある。ご褒美のプリンを一緒に食べたいがために、時にはぶつかり時には協力しながらやってきたのに、 やっとご褒美にありつけるという段階で「おれは要らない」と譲られ、断る隙も与えず行ってしまったのを見送ったような気分だ。そう、彼は行ってしまった。 残酷に、行き場のない想いだけを残して。
スペインへ戻って一ヶ月、不動明王は二十三歳の誕生日を苦々しく迎えた。今頃までまだ一緒にいれば、同居生活も一年だったというのに。しかし彼は惜しんだり悲しんだりせず、絶望を押しとどめながら、思い出を思い出にしないようにしていた。
諦めないことを教えてくれたのは、全員の太陽たる円堂守である。




3184

控え室でミーティングを始めた時のことだ。鬼道はMF二人とキーパー、そしてフィディオの話に耳を傾けていた。メンバーは全員控え室にいたが、五人以外は 部屋のあちこちに散らばり、話半分に聞いているようだ。ミーティングと言っても、方向確認のような軽いものだし、彼らに任せておけばチームは機能すると信 じているのだ。
(そういえば、不動はどこだ?)
昨日の練習でのミスを反省していたはずなのに、いつの間にか新しいクーラーボックスの話になっていて、今は聞いているだけの鬼道は部屋を見渡す。ちょうど不動が戸口に現れたのが見え、安心して目線を前に戻した。
「ユウト、それ……」
横にいたマルコが突然笑いだし、鬼道は途方に暮れた。ニノやフィディオもすぐに気づく。
「ああ、なんてことだ。似合ってるよ!」
「まさに、ぴったりだ!」
「なんて可愛いんだ」
「ああ、ユウト、君ってやつは……」
次々に気付いた仲間たちが笑いだし、さらに謎が深まる。からかっているのではなく、面白おかしいが愛くるしいもの――例えば赤ん坊の小さな失敗とか、仔猫ゆえのバカな行動とか、そういった微笑ましいものを見るような目に囲まれて鬼道は困惑した。
何か付いているのかと思い顔を触っていると、フィディオが携帯電話で写真を撮り、それを見せてくれた。写っていたのは、小鳥の巣を頭に乗せた自分。
「なんだこれ!?」
正確に言うと、肩まで伸ばしてハーフアップにしているドレッドのうち一本で頭の上に輪っかを作り、真ん中に園芸店などで売っている紙と羽根でできたカラフルなワイヤー付きの小鳥が刺さっているのだった。慌てて取りはずし、皆の笑顔の理由を握りしめる。
「笑うな……おい、不動っ!」
振り向くと、容疑者は腹を抱えてロバートに寄りかかっていた。
「ぜんっぜん気付かねーでやんの……鳥さんが頭に巣こしらえてんのに」
日本語で話しかけているのに、わざわざイタリア語で言う。理解した周囲からまた笑い声が上がった。部屋の半分は犯人の味方かもしれない。
「やはりお前じゃないか。自分から白状したな? 遊んでないで、ちゃんと、ミーティングに――」
笑ったら負けのような気がしていたのだが、周りの皆につられたのと、不動の顔を見ていたらとうとう吹き出してしまった。彼のふざけた言い方が好きで仕方ないのだ。
「マンマ! マンマ!」
「何!? マンマじゃない!」
「うわあ! 凶暴なマンマ」
両手でひらひらと鳥の真似を始め、逃げようとする雛鳥を演じる不動を追いかけて肘鉄を食らわせる。マルコが頭を直してくれた。
このあとのチームプレー練習は驚く程うまく行き、新しい発見まであったのだが、不動は果たして、どこまで計算していたのだろうか。




3622

暖かい午後の日差しが差し込み、室内は電気を付けなくても十分明るい。大きな窓からは四十五階の景色が一望できるが、鬼道はコンクリートジャングルを見下ろしながら虚しさに浸るのを嫌った。
「専務、お電話です」
きちんと身なりを整えた女性が、開いたままのドアをノックして顔を出した。鬼道はボールペンを走らせる手を止め、顔を上げる。
「誰からだ」
神谷美菜子はやや狼狽した。
「それが……ソウイチロウという男の子からなんですが」
鬼道の眉間がサングラスの中へ少し吸い込まれた。
「分かった。繋いでくれ」
「はい」
自分のデスクへ引っ込んだ彼女を見て、ドアを閉めてから立ったまま内線電話を取る。今は私用の携帯電話を切っているため、名刺の表にかけたのだろう。
「おれだ、宗一朗、どうした?」
慌てた様子より安心させるように意識して話しかけたが電話の向こうは静かで、少年がゆっくりと物陰から出てきてくれるのを待つ。
「何かあったのか?」
音をたてないように書類を移動し、次にやることを整理する。宗一朗は少し鼻を啜った。
『ママが来てるの』
その声は掠れていて、とてもひそめられていた。くぐもった感じもしたから、受話器ごと縮こまっているか、どこかに隠れているのかもしれない。
「そうか、それは――大変だな。大丈夫か?」
『うん』
「よし。お前は強い子だな。今、どこにいるんだ?」
安心させるように一音一音丁寧にゆっくり喋ったが、返事はない。施設の中では、電話ができる場所も条件も限られているはずだ。しかしそんなことより、彼が何を求めて電話してきたのかは分かった。
「おれが味方になってやる。どうだ? じっと待っていられるか?」
『うん』
「じゃあ、すぐに行くよ。もう少し頑張るんだ。電話は一旦切るぞ、じゃあな」
しばらく様子を見てから電話を切り、まとめた書類をファイルに入れて鞄へ突っ込む。神谷のデスクの前を通ると、怪訝な顔をされた。
「よく分かっている。だがこれも、大事なことなんだ。できるだけ早く戻る」
「分かりました。お気をつけて」
困ったような微笑を受けて、早足でエレベーターへ向かう。地下の駐車場まで、タブレット端末でメールをチェックした。五百六十七件のうち、五百件が迷惑メールと必要のないダイレクトメールだった。





とりあえずオフィスへ戻るしかなかった。宗一朗を連れてタワーの四十五階へ戻り、神谷に簡潔に説明したあと、夕陽に染まる部屋の応接ソファへ座らせる。
宗一朗の母親は、安いクラブのホステスといった印象だった。きつい化粧も太陽の下では滑稽なピエロのように見える。
「宗ちゃん、ママのことが嫌いなの? 良い子だから出てきて。ママに顔を見せて」
そんな調子で喚き続け一向に帰らないものだから、頼み込んだら廣川さんが電話をさせてくれたらしい。裏口から入った鬼道が、母親のいる正面玄関へ行こうとした時、ジャケットの裾を掴んで引き留められた。
「ああなると……酔っぱらってる時は、何も聞いてくれないんだ」
小さな目がやけに大人びて見えた。
「一緒にいて」
途方に暮れて、鬼道は彼の頭に手を軽く置いた。
「ここにいることはできないが……つまらない場所でもよければ、おれと一緒に来るか?」
宗一朗はすぐに頷いた。それで今、鬼道のオフィスにある応接ソファで大人しくしている。キョロキョロと自分のいる場所を観察しているから、思ったより元気なようだ。神谷が気を利かせて、オレンジジュースを持ってきてくれた。
「神谷さん、すまないが二階のコンビニで色鉛筆を売っていたと思う。買ってきてくれないか?」
「あと、紙ですね。分かりました」
「コピー用紙でいい」
携帯電話が鳴って、宗一朗に向かって唇に人差し指を当てて見せながら応答する。宗一朗は頷いた。
「はい、鬼道です」
鬼道財閥の一人息子が主要会社である鬼道貿易の専務に就任したのがつい一ヶ月前。義父は形だけでいいからと言っていたが、放置するわけにもいかない。帝国 学園総帥と兼任するなんて無理があると皆に言われ、自分でも無理をする気はなかったのだが、首を突っ込み始めるとついつい深入りしてしまう性質のおかげで 経営の穴を見つけ、佐久間に頼み込んで帝国のコーチを任せて、自分はその穴を塞ぎにかかった。
「分からない? どういう事ですか?」
中には、ずっとこのやり方でやってきて失敗しなかったから間違いないと言い、明らかにこんがらかっているところを解せばよりシステムが円滑になるのにその まま直さないでいる支店長や部長がいる。直し方も分からないし、そもそもこれはこういうものだと最初から決めつけてしまっているのだ。
どこかに違和感があることに気付いても、「気のせいだろう」で済ませてしまう。
「いえ、分かりました。私が直接行った方が早そうですね。来週の月曜、午後一時はいかがですか?」
手帳を開いて書き込む。宗一朗は大人しく座って、その姿を眺めていた。
「はい。よろしくお願いします。それでは失礼します」
電話を切り、やれやれと息を吐く。
「すまないな。ここじゃ、つまらないだろう」
三ヶ月前に出会ったばかりの幼い少年は、左右に首を振る。隣に座って、頭に軽く手を置いた。やわらかい髪と体温を手のひらに感じる。
「いま、お姉さんが色鉛筆と紙を持ってきてくれるからな。お絵かきは好きか?」
両足をぶらぶらさせながらこくりと頷いたが、宗一朗は不安げな瞳で鬼道を見上げた。ゆっくり頭を撫でてやり、口元をゆるませて安心させようと試みる。小さな肩は強ばっていたが、震えることはなかった。





施設からもう大丈夫だという連絡があったが、宗一朗はすっかり鬼道と一緒にいられるイレギュラーな状況を気に入ってしまい、帰りたくないと言うので仕方なく一晩だけの約束で泊めてやることにした。
「うわあ、広ーい!」
玄関から上がるなり走ってリビングへ向かうのを慌てて追いかける。
「こら、走るんじゃない」
窘めても迫力に欠けるため、効果はあまり無いが、とりあえず走るのはやめてくれた。
電気をつけて、途中で買ってきた着替えなどの入った紙袋を床に置く。
「宗一朗は、オムライス好きか?」
ジャケットを脱いで腕まくりすると、宗一朗はそばへやってきて鬼道を見上げた。
「おむらいすってなに?」
「ああ……トマト味のごはんに、とろとろに焼いた卵が乗ってるんだ。うまいぞ」
鬼道家で初めて食事した時、母の味が恋しくなった。しかしあの母親では、ろくに料理も作らなかったのだろう。ぽんぽんと軽く少年の頭を叩き、鬼道は哀しみを隠して微笑んだ。
「よし、じゃあとびっきりの美味しいものを作ってやる。火を使ったり刃物を使ったりして危ないからな。そこに座って待っててくれ」
大人しく言われた通りにカウンターのスツールへよじ登る宗一朗は、鬼道がひとつひとつ説明しながら料理するのを真剣に眺めていた。他愛無い会話を混ぜ、子供の戯言に付き合いながら、自己満足に浸れるほど完璧なオムライスを作ってやった。




3210

カウンター越しにテーブルへ鍋敷きを置き、品のかけらもなく声を張り上げる。
「できたぞー!」
いそいそとやって来た不動は、テーブルの真ん中に置かれたパエリアを見て微笑んだ。
「あ。懐かしいねぇ」
何も言わなくても、差し出したスープカップを待っていて受け取り、テーブルに並べてくれる。木のボウルに入ったサラダを持ってテーブルの方へ回り、不動の少しあとに椅子へ腰を下ろす。
「いただきます」
最初の一週間くらいはもじもじしていたが、今は鬼道と一緒に手を合わせるようになった。サラダを皿に取り分けながら、地中海定番の米料理を口に運ぶ不動をさりげなく観察する。
「明日九時?」
「ああ、そうだ。セルジオは休み」
「何で? 風邪?」
「さあな、親戚の用事としか聞いていないが」
やれやれと肩を竦め、不動は空になったスプーンをくるりと回した。
鍋が半分くらいになった頃を見計らって、独り言のように言う。
「パエリアは作ったことがなかったんだが、うまくできたな」
「ああ、意外と簡単だよな」
視線を寄越したので、礼代わりに微笑む。自分の皿に取り分けながら、鬼道は言った。
「お前、火が通ってるのなら食べられるんだな、トマト」
不動の目が僅かに見開かれ、今レタスを口へ持っていこうとした手が止まり、四分の一ほどになった鍋の中身を見下ろし、また鬼道を見た。違和感には何となく気付いていたが、美味しいので気にしなかったといったところか。
「ああ、まあね」
フォークに刺さったままだったレタスを食べた後、「はあ?」と大声が上がる。
「真面目に? お前、くそっ……食えないわけじゃないから入れたかったら相談しろって最初に言ったよな?」
細やかな裏切りに驚きつつも喜んでいる自分を面白がっているようなトーンに、微笑が拡がる。
「うまいだろう」
フォークを置いて腕組みし、すぐに解いて、不動は不服そうに椅子に座り直した。
「お前、ホンットやな奴」
はあーっと長いため息を吐き、鍋の残りを自分の皿へ移す。笑いがこらえきれなくなった。
「ぜってー許さねえ」
強がりの笑み、それ以上笑うのを堪えているような表情に、鬼道は声を上げて笑いだした。
「おい、本気だぜ? 食べ物の恨みは怖いって言うだろ」
そう言いながらスプーンを口に運ぶ不動は嬉しそうで、鬼道は目尻に滲んだ涙を指で拭うまでくつくつと笑った。







つづく
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