<5000ピースのジグソーパズル 16>







4011

帝国学園の執務室は殺風景だ。机と椅子、優勝トロフィーの並ぶキャビネット、本棚が一つずつあり、常に窓は閉じられブラインドが下ろされているため、電気を消すとほぼ真っ暗になる。
帰るはずだったが机に寄りかかり、しばらく薄闇にじっとしていた。ブラインドの隙間から入ってくる夕陽が、光の筋を作り出している。
(疲れているな……あいつがいたら、文句を言いながらあれこれ世話を焼いてくれるのだろうか)
サングラスを外し、眉間を指で揉みほぐしたせいだ、微かに涙が滲んで、それも指で拭った。
「鬼道――あれ、」
ノックしながらドアを開けた佐久間が、電気の消えている部屋に居る鬼道に驚く。
ふっと顔を向け彼を見た鬼道の目は、この十年見たことがない程弱々しく、また美しかっただろう。そのために佐久間は苦虫を噛み潰した。
「例の雑誌の取材、来週の月曜でいいか?」
「ああ。そうしてくれ」
「鬼道、少し……休んだ方がいいぞ。戻ってきてから働きづめだ」
喉の奥で短く応え、鞄を持ち彼の隣をすり抜けて廊下へ出る。腕に遠慮がちに触れられて、立ち止まった。
「なあ鬼道、なにも一人で抱え込まなくたっていいんだぞ。俺に手伝えることはないか?」
こういうときの、心配そうな顔が一番苦手だ。なぜそれ程心配するのだろうかと、憤りさえ覚える。自分は一人で何でもできるし、いくつかのことに脳を使い分けることなど雑作もないことを、佐久間は知っているはずだ。だから、サングラスをかけて振り返らずに言った。
「お前はもう、十分やってくれているよ。今日は早く寝る」
足音を長い廊下に響かせひとり駐車場へ向かう鬼道を見送り、佐久間はそれ以上何も言わなかった。






3291

豪炎寺と円堂のやり取りは、普通の友情から発生しているものではない。
日本サッカー協会会長を務める傍ら、特例で、炎のストライカーはジャパンリーグにスタメンで復帰した。ライオコット島の件が落ち着いて久しぶりに三人で会 おうと、円堂の家へ集まった。夏未は実家へ用事があるらしく、男三人好き放題できると一緒になって笑ったのがついさっき。楽しい会話のうちにもその違和感を端々で捉え、不快ではないが不可解な糸に捕らわれたまま身動きができないでいる。
「こうしてると、あの頃に戻ったみたいだな」
豪炎寺が切れ長の目を細めて笑う。
「本当だな! もう俺、お前が復帰してくれて本当に嬉しいよ」
円堂が、泣くんじゃないかという昂りようで言った。
「それ、何回目だ?」
鬼道と一緒に笑う豪炎寺に、円堂はキスをした。テーブルを挟んでそれを目の当たりにした鬼道は、思わず目を逸らす。
「円堂……酔ったのか?」
いつでも冗談にできるよう笑いながら、親友相手にどこまで説教するべきか迷って口ごもった鬼道の心情を察し、豪炎寺が言った。
「いいんだ。夏未も知ってる」
さらに驚いて言葉を失った。冗談どころではない。円堂が困ったように笑う。
「あーうん、なんか、豪炎寺くんなら仕方ないわねって。色々あったけど、今は落ち着いたよ」
何故かいつも、この男の言葉には説得力がある。木野秋も久遠冬花も身を引いたが、雷門夏未は最後まで諦めなかったということだ。強欲な彼女ならありえる話、鬼道は深く追及するのをやめた。
「そうか……複雑な気分だが、良かったなと言うべきなんだろうな?」
「うん、あんま気にしないで大丈夫だって。俺たちはうまくやってるからさ。お前も混ざるか? なんてな!」
どこからそういう発想になるのか、円堂は笑顔を向けてくる。乱交パーティーに憧れたこともあったが、柄じゃない。
「ああ、今まで通り、サッカーがおれたちを繋いでいるからな。大丈夫だ」
冗談と決め付け、かわしつつうまく返したが、自分で言った言葉に疑問が生じた。サッカーが繋いでくれているはずなのに、まだ足りないと、もう一つの繋がりを求める自分がいる。
「円堂、こいつには先客がいるからダメだ。そっとしておいてやれ」
うまく返したはずが、豪炎寺が台無しにしてしまった。まさか本当に酔いが回ってきたかと思ったが、まだビールを数缶空けただけでそれはない。
「なっ……おい、豪炎寺」
「やっぱりそうか! 誰、誰? 俺の知ってる奴?」
目を輝かせる円堂は、恐らく随分前から気付いていて、黙って見守ってきてくれたのだろう。豪炎寺にすら話したことはない。イタリアへ行くまで自分が気付いてすらいなかったのだから、誰にも話せるわけがなかった。
「ちがうんだ。おれは――分かるだろう。お前たちに対する気持ちは、出会ってから一度も揺らがず、むしろ強く固まって増幅していった。二人はかけがえのない人で、心から尊敬しているし、短絡的に言えば愛している。代わりのいない兄弟みたいに思っているんだ」
豪炎寺が優しい視線を送ってよこし、円堂は頷いて破顔した。
「飲もうぜ!」
「結局、それか」
彼らは彼らの答えを見つけ、その先の未来を編んで行く。背徳者はやはり同じように、ルールに反した生き方しかできないのかと、鬼道は二人のやり取りに笑いながら考えた。






1131

円堂は鉄塔広場の端でフェンスにもたれ、稲妻町のささやかな夜明かりを眺めていた。
「円堂」
思ったほど事態が危機迫っていないらしいことに、少しだけ安堵する。
「鬼道! ごめんな、急に呼び出したりして」
だが、それは表面上の話だ。円堂の困り笑顔はいつもより強張っていて、彼は携帯電話を握りしめていた。
「かまわないさ。それより、豪炎寺は?」
円堂は首を振る。鬼道は自分の携帯電話を見て何のメッセージも来ていないことを確認しながら、小さく溜め息を吐いた。
円堂から電話をもらってここへ来る途中、豪炎寺からも電話があった。応答するなり、彼は言った。
『円堂のスランプが長引いてるのは俺のせいだ。しばらく距離を置くから、あとは頼む』
鬼道でさえ一瞬、思考が停止した。
「何を言っている? そんなわけないだろう! それに、スランプなんてもう脱したじゃないか?」
二人の親友がお互いに特別な相手であると気付いたのはつい最近だ。思えば二人はいつも一緒にいたし、常に支えあってきた。鬼道が加わりトライアングルになることでより一層絆の力は強さを増すが、それにしても元から基盤が強いのだ。
円堂は誰とでも打ち解けどんなボールも受け止めるが、鬼道が知る限り男で体の方でも繋がりを持ったのは豪炎寺だけだった。それを伝えたところで、今の豪炎寺への慰めにはならない。
『円堂のそばに、ずっといることはできない。お前なら分かるだろ、鬼道……』
返す言葉を迷っているうちに、不安を煽って、電話は切れた。それから急ぎ足で円堂のいる鉄塔広場へ来たが、彼が今どこにいるのか不明のままだ。円堂は心当たりのある場所全部と、家にも行き、何度も電話をかけたが、音信不通になってしまった。
「俺さあ、欲張りなのかな」
フェンスにもたれたまま、円堂は呟くように言った。
「誰の手も離したくないんだ」
眺める手のひらはマメだらけで、数々のシュートを受け止めてきた大きな手だ。その中で一番受け止めた回数が多いのが、炎を纏う彼のボールだった。一撃ごとに心を焦がし、見る者の魂を焼き尽くす。
「おれだって欲張りだぞ。みんな同じじゃないか? ――選択肢が違うだけで」
心の中にずる賢い自分が現れる。今、隣で肩を落とし傷ついている円堂を丸め込み、こちらへ意識を向けさせることは容易だ。人心掌握術は心得ている。
そもそも円堂は、高校に入ってから雷門夏未と付き合っている。かたわら、豪炎寺のことを断ち切れずにいた。後から間が差したのとは違うから、浮気とは呼べない。アダルトな状況になっているとはつゆ知らず、鬼道はいつまでも三人一緒だと信じていた。
「俺、もっぺん見てくる。家に帰ってるかもしれないし」
「おれも探してみる。――気を付けてな」
円堂の姿が見えなくなって、電話をかけると豪炎寺は出た。
『すまない』
「豪炎寺……! 大丈夫か? 今、どこにいる?」
とりあえず豪炎寺を落ち着かせるべきだと判断した鬼道は、努めてやわらかい声音を意識する。
『ここにいる」
街灯の明かりを受けて、しなやかな銀色の髪が仄かに輝いていた。
「豪炎寺! いつからそこにいたんだ?」
「最初からだ」
全部聞いていたのか?とか、なぜ出てこなかったんだ?といった無意味な質問ばかりが浮かんでは消えていく。
豪炎寺は鬼道の隣へ歩いてきて、さっきまで円堂がもたれていたフェンスを片手で掴んだ。
「鬼道、お前なら分かるだろう。俺の気持ちが」
鬼道は拳に力を籠め、首を小さく横に振る。
「いいや。いくらお前でも、おれには分からない。なぜ円堂を傷つける?」
彼の切れ長の黒い目が、苦しげに細められた。
「結果、豪炎寺だって傷ついて苦しんでるじゃないか。二つで一つのものを無理矢理引き剥がすなんて、どうかしていると思うぞ」
豪炎寺はポケットに両手を突っ込み、俯いた。顎まで伸びたストレートの銀髪が整った顔に影を作る。
「俺はいないほうがいいんだ。最初から……雷門に来るべきではなかった」
その言葉を聞いて、鬼道は眉を顰め考えを巡らせた。同じ痛みを、自分は理解できる。
豪炎寺と鬼道は共通点が多い。妹を人質に取られているのに、円堂とのサッカーをやめられなかった。鬼道は影山の呪縛に気付かせてくれたことから円堂について行くことを決めたが、豪炎寺は最初に体で、心で、感じていた。だからあの時、鬼道を誘い最後の一押しをしに来れた。
円堂と豪炎寺には、強い絆があった。それは何が起きても壊れない特別なもので、しかし今目の前で豪炎寺本人がそれを断ち切ろうとしている。
(円堂を慰めても、豪炎寺を慰めても、おれはきっと後悔する)
鬼道は二人が羨ましかったが、それ以上に二人を愛していた。
「誰よりも、円堂のことが好きなんだろう?」
はっと彼は俯いていた顔を上げた。過去にそう告白した豪炎寺の言葉だ。その時の笑顔が脳裏に蘇り、鬼道は思う。
(これでいい)
自分に嘘はつけないし、大切な二人が辛そうにしているのも見ていられない。
「好きなんてもんじゃない……!」
囁きのような小さな叫びをあげて泣きそうに顔を歪ませた豪炎寺の肩に片手を置く。
「だったら、傍にいてやれ。お前は特別なんだ」
その時、少し離れた場所から声がした。
「豪炎寺!」
駆け寄ってきた円堂は、豪炎寺の目の前で立ち止まる。逃げようとしかけた彼の腕をしっかりと掴み、円堂は言った。
「そうだよ、お前は特別なんだ! どこへも行かないでくれよ」
「円堂……」
どんな時もしっかりと相手の目を捉えてまっすぐに見つめる円堂は、誰に対しても平等に接してきた。だが、ここまで心の奥底を打ち明ける相手はただ一人だと、鬼道は知っている。
「豪炎寺がつらいのは全部俺のせいだ。でも、そばに居てくれないともっとつらい」
不安で、苦しくて、恐らくゴールを守っている時よりも、つよい恐怖に耐えながら、相手を少しでも安堵させるため微笑もうとして、できないでいる。彼のそんな顔は初めてではないが、どれだけ限定された時に見せるものか鬼道には分かる。
心の葛藤を打ち払い、苦悩の末に愛を選んだ。豪炎寺は静かに涙を流し、円堂の肩に額を乗せる。
「ごめんな」
抱き合う二人を見て、鬼道は思った。彼らの絆は何があっても切れることはない。
目をごしごしと袖で拭う豪炎寺を円堂が笑って止め、親指でそっと拭ってやった。後は何とかなるだろう。
帰ろうと通り過ぎざまに豪炎寺の肩をぽんぽんと叩くと、円堂に捕まった。肩を組んで、微笑に挟まれる。
「ありがとう、鬼道」
「いいさ。お前たちが幸せなら、おれも嬉しい」
潤んだ目はゴーグルに隠れていた。






2087

スペインサッカーは年々レベルが高くなっている。一流の選手が国中から集結して死と隣り合わせに戦うマタドール軍団。闘牛場のような土のグラウンドで揉まれ血だらけになって、レギュラーの座を獲得してもなお、不動は立ち止まらなかった。
タックルに負けじと自分から突っ込み、足を血と泥で黒く染めるまでスライディングの練習をする不動に、見かねたキャプテンが言った。
「お前、明日はベンチだ」
「何でですか!」
トーナメント二回戦を控え士気が高まっている状況で、不動は抗議しようと身構えたが、ロドリゲスは笑った。
「そんな足で走れるか、バカ」
彼の後ろからチームメイトたちが、ちらちらと視線を送ってくる。不動がチームに完全に認められた瞬間だった。
このロドリゲスという男は名前に反して繊細で冷静、並外れた頭脳を持つFWで、どんな球も自在に操りゴールへ叩き込んでしまう凄腕闘牛士という印象だ。







しかし圧勝した後のロッカールーム、ベンチから引き上げてきた不動は、スペイン国内一位を目指して盛り上がるチームのど真ん中で熱烈なキスを交わすキャプテンとキーパーを見てしまった。いや、見せつけられたと言ったほうが正しいか。
「優勝したら結婚するんだとさ」
囃し立ててからかう周囲は二人の関係を知っているのだろう、日常茶飯事に気付かなかったのは自分だけだったらしい。
つながった唇の造形に己の内にあった記憶が呼び起こされ、不動は思わず目を逸らした。
「おい、どうした?」
「なんだアキオ、童貞だったのか」
口々に今度は不動をからかい出すが、逆らっても無駄である。
「オラ、セニョリータ!」
己の落ち度に内心悪態をつきながら、騒がしいロッカールームを後にする。
(オレもまだまだってことか……)
ずっと睨み続けていた名前も、肩の力を抜いて見たら違う印象になった。盲目的な敵対ではなく、愛情が引き起こす一種の守護目的を纏う忠誠。荒廃した地に再び芽が出ると信じて水を撒いた者によって培われた。
その中に鬼道有人がいた、それだけで十分な理由だった。






398

太陽と共に無理やり布団から体を剥がし、顔を洗って歯を磨く。まだ少しぼーっとしている頭に喝を入れなくてはと考えていると、突然真後ろで声がした。
「おはようございます、不動さん! 昨日のボローニャ風ソース、すっごく美味しかったです! オレガノは分かったんですけど、他に何のハーブを入れたんですか?」
さすがに心臓が跳ねた。振り向くと宇都宮虎丸が瞳をらんらんと輝かせて立っている。もうジャージをきっちり着込んでいるということは、中にユニフォームも身につけているのだろう。厄介そうな奴に捕まってしまった。
「あー……知らねーよ」
タオルを物干しにかけて歩き出すと、虎丸は当然のように横について来た。
「残り物をどうしようって悩んでたら、つまみ食いに来た不動さんが絶妙な感じにリメイクしてくれたって、おばちゃん言ってましたよ! さあ、白状してください!」
虎丸が話し続けている間に、宿舎の裏側にある空き地に着いた。今頃、他のメンバーたちは朝食のために食堂へ向かっているだろう。しかし全員集まるにはある 程度時間がかかるし、朝食が食堂のテーブルに並ぶまではあと15分ある。この15分を使って、不動はいつも一人で軽く体を動かしていたのだが、今日は思わ ぬ邪魔が入った上、先客までいた。
「豪炎寺さん! おはようございます!」
意気揚々と駆け寄る虎丸は、まるでよく飼い慣らされた犬のようだ。あまり驚いていないということは、前の晩に示し合わせていたのだろう。
豪炎寺は眠そうな顔でポケットに手を突っ込み真っ直ぐに立っていたが、不動を見るとやや顔を引き締めた。
「おはよう。何の用だ」
愛娘についた悪い虫を見るような視線を受け、不動は鼻の奥で笑う。
「朝っぱらからご機嫌だねェ。何の用かはこっちが聞きたいぜ」
豪炎寺の眉間の皺が深くなったところで、虎丸が不動を引っ張った。
「違うんです、豪炎寺さん! 俺が不動さんに協力してもらおうと思って、呼んできたんです。いつもここで練習してるみたいだったし」
「何……?」
今度は不動への説明の番だ。
「新しい必殺技を編み出そうとしてるんですけど、どうもうまくいかなくって。何がいけないか見ててもらえませんか? 不動さんなら、俺たちと違う角度から見てくれると思って!」
「虎丸、勝手な真似をするな」
豪炎寺はさらに不機嫌そうである。
腕を頭の後ろで組んで片足の力を抜いて立つ不動は傍観を決め込んでいたが、自分が必要とされるのは悪い気がしない。
「そんなの今初めて聞いたぜ」
「今言いました!」
こんなに悪びれない無邪気さも珍しい。
「それに、歓迎されてねーみてぇだけど?」
背を向けた豪炎寺を指すと、彼は帰るのかと思いきや転がっていたボールをいきなり蹴ってきた。炎を纏い一直線に向かってくるボールをすんでのところで避け、冷や汗が出る。
「っぶねー……」
「ほう、止めるでも返すでもなく、避けたか」
確かに止めようと思えば蹴り返す反対の力をもって止められたと思うが、不動は体をひねって避けた。ボールが向かってきたら受け止めるのが普通だが、それだ けの反射神経を持っていながら無駄な労力を使わないために回避を選択した、それだけの思考が瞬時にできたということだ。
「よし、明日から朝食までの間、ここで練習するぞ。お前も必ず来い」
「命令かよ……」
ギロリと睨まれて肩を竦める。元々この時間のこの場所は自分のものと思っていたのだが、とっくにバレているようだし仕方ない。
「オレは構わないぜ」
言葉を残して食堂へ歩き出すと、やや遅れて二人もついてきた。
上機嫌に話し続ける虎丸と、それを聞いているのかいないのか無言のままの豪炎寺。リトルギガントとの決勝戦は二日後だ。結果が全てのこの時期に、チームは一つにまとまっていく。






443

雷門中の賑やかさにも大分、肌が馴染んできた。いくら単位や学問のレベルがどうのと言っても、サッカーのレベルは世界一である。ここにいることに不自然はない。
ここの空気が自分に合っている気がするし、二人の親友と妹がいて、後にも先にもこんなに満たされた毎日は送れないのではと思う。
帝国へ転入した不動とはほとんど連絡を取らないし会わないが、佐久間とは毎日何通もメールでやり取りするので、彼らの様子は手に取るように分かった。
携帯電話を見ていると、豪炎寺が言った。
「お前がまだ帝国生だった時のことを思い出すな」
土門と連絡を取り、サッカーと影山に板挟みになっていた頃に重ねられ、鬼道は困ったように微笑した。
「不動もだいぶ、馴染んだんじゃないか?」
豪炎寺は他の野次馬と違って画面を覗いたりはしないが、鬼道の様子で何もかも感じ取っているような節はある。
「ああ、そうだな……珍しいな、お前の口から奴の名が出るとは」
少しドキリとしたが、ああそんな奴も居たなと今思い出したような口ぶりで言う。
「あいつは俺に対して、相容れない、嫌われてると思っているようだが。俺はわりと高く評価しているんだ」
「そうなのか? 一体どのあたりが評価できるんだか、興味があるな」
わざと怪訝そうに、興味無さげに聞いておく。豪炎寺は小さく笑った。
「覚えているか? リトルギガントとの決勝で、行き詰まった俺たちに突破口を作ったのは不動だ。あいつがいなくてもお前は三人技という切り札に気付いただろうが、あいつはベンチから考えてた。チームや司令塔にとって欠かせないジョーカー、まさにそうだと思ったよ」
「あれは監督が、今までと違うことをしろと指示をしたからだろう。第一、失敗だったじゃないか?」
「今までと違うことをしろと言われて、そうすぐにできるものじゃないぞ。不動は最初からその意図を理解してベンチにいたってことだろう。失敗することは俺も分かってたが、あいつが失敗にも使い道があるって、分かっててやったんだ」
豪炎寺の言いたいことが分かって、妙にこそばゆい感覚に包まれた。まだ何か言い返して、豪炎寺の中の不動に対する評価を少しでも下げてやろうと思ったのに、結局鼻の奥で渋々相槌を打つといった反応しかできなかった。






1553

高校世界大会、準決勝の相手はイギリスのナイツオブクイーン。伝統と歴史を重んじる騎士道精神の国だが、どんな場所にも悪性腫瘍みたいな奴がいる。
試合前の顔合わせ、彼らのうち三名がこちらのエースである豪炎寺に対して挑発を行った。豪炎寺の繊細な一面を取り上げ、侮辱してきた。
「ジャパンのエースは女か。時代も変わったねぇ」
ちょっと顔がいいからと、女に囲まれて有頂天になる奴。どうせ学校でも持て囃されて、女を侍らせて我が物顔で闊歩しているんだろう。キャプテンと言うよりは彼氏の堪忍袋の緒が切れる前に、真っ先にやり返してやった。
「そっちは相変わらず尊敬すべき忠犬ぶりだな。弱い犬ほどよく吠えるってね」
喧嘩の買い方なら慣れたものだ。案の定と言うべきか、チーム割れしながらの試合中、真っ先に不動が狙われ、強すぎるタックルを受けて右足を傷めた。挑発してきた奴は失格となり、不動はベンチへ下がった。計算通りだが、囲まれた時に逃げ切れると思っていたのは甘かったらしい、この足を二日後の決勝までに治すのは難しい。
ハーフタイム、眉を下げた鬼道が、ドリンクボトルを差し出しながら言った。
「大丈夫か」
「別に。一週間ありゃ治んだろ」
やけに落ち着いた不動に、ゴーグルの奥の目は怪訝な表情をする。
「オレが居なくても大丈夫だって? そんじゃ、お手並み拝見といこうかね」
鬼道は黙っていた。
決勝まで勝ち進み世界の目に触れれば、四方八方から声がかかる。彼らはベンチには目もくれない。
「仇は取る」
別の方向から突然声がしたので横を向くと、豪炎寺が立っていた。不動を見、鬼道と目を合わせて、ピッチへ戻っていく。
「つか、オレ死んでねーし」
彼を追いかけて、鬼道もポジションへ戻った。
お互いフェアになった後半戦、仲間と見事な連携を見せ、繋いだボールを豪炎寺に渡し二点を叩き込んだ。
ホイッスルがベンチの向こうで響き渡る。
(これで、決勝で注目されて各国からオファー殺到ってシナリオはパアになっちまったな)
きっかけはただ、偉くなるための手段だった。不動はその手段に、サッカーを選んだ。得意だったことには理由がある。
偉くなるためには円堂や豪炎寺、鬼道といった類い稀な能力を持った優秀な選手たちと拮抗する程の力を得なければならず、彼らと並んで評されるようになるまでは文字通り血の滲む努力が必要だった。
その機会をどうして、くだらないことで棒に振ってしまったのだろう?
(チームの勝利より個人の評価ってか?)
善人になりたいわけじゃない。誰も考え付かないようなことを、気付かれる前にやって驚かせること。注目を集め、尊敬されること。その先にある自由が、一番欲しいものだった。
(どっか、味方のいねぇ強いチームに入りたい)
欲望に依存すればするほど、ゴールは遠のいていく。資質は買いたくても買えないものだ。生まれつきの天才には死ぬほど努力してもあと一歩敵わない。
真イナズマジャパンの決勝進出を祝う歓声を聞き、喜びと悲しみに分断されたフィールドを眺めながら、不動はスペインへ乗り込む算段をした。






3833

飛行機で数時間、島国のさらに島へ降り立つ。名湯が潤わせる町は江戸時代の雰囲気を残し、観光地として栄える中心地からさらに町外れへ向かってタクシーに身を収める。
背の低い家々のささやかな庭には松や蜜柑の木が見え、飾り穴の空いたブロック塀が土地を分けていて、山間の扇形の平野をそういった住宅群があちこち固まって建っている。そういう中に、みすぼらしいアパートがあった。三階建ての社宅は古く、立て付けのよろしくない2DKがぎっちり並んでいる。薄汚れた屋根と剥がれかけた壁、錆びたポスト、滑り止めがずれたままの階段、雑草がアスファルトを突き破り続けている駐車場。何もかも記憶と変わっていない。
子供の頃は一人で留守番にしていることが多く、じっとしていられなかったので、近所を歩き回って空き地でボールを蹴っていた。ブロック塀の上を渡り歩いて、住宅の迷路を自分の庭にした。
リフティングし続けボールを地面に落とさずにどこまで行けるかとか、適当に蹴ったボールに何秒で追い付けるかとか、一人遊びならいくらでもできた。何しろこの辺りは人通りが少なく、国道に出なければ車も滅多に来ない。陽が沈み腹が減ると、家へ帰って好きなものを作った。洗い物も洗濯も、嫌いで仕方なかった。
なんで自分ばかりこんな目に遇うのか、憎しみしか生まない場所から一日でも早く出て行きたかった。影山に拾われてチャンスだと思ったが、ここさえクリアすればという時に鬼道と出会ってしまった。二転三転する運命が引き合わせたのは何の因果か、それ以来鬼道の存在はずっと、見たくなくても見える場所にある。恐らくこの先一生、何があっても完全に消えることはないだろう、そう思わせた。
帝国学園を卒業して以来足を踏み入れていない場所に、不動は一歩進んだ。特に何の感慨も沸かないまま、呼び鈴を押す。鍵は持っていたが、帰郷もしなかった人間が突然我が物顔で入っていくには抵抗があった。
中で足音がする。ドアが開いて、白髪の混じった栗色のくせ毛の女が現れる。母は驚いた後すぐに満面の笑みになって、少し目を潤ませた。
「お帰りなさい、明王」
「――ただいま」
色々あった後でつられて視界が滲みそうになるのを堪え、素っ気なく応えた。すぐに玄関へ入ったから、無愛想に映ったことだろう。
不動は五年ぶりに、かつて暮らしていた家へ上がった。実家と呼ぶにはお粗末すぎるが、物心ついてから思春期を迎えるまでの彼を支えていたのはこのアパートの一室である。
「どうしたの? うちに寄ってくれるなんて。何かあったの?」
台所から、上機嫌な母の声がする。元からほとんど連絡は取っていないが、四畳半の卓袱台に乗っているサッカー情報誌は不動の帰国記事があるものだったので、おおよその行動は把握しているのだろう。
「別に」
どうしてここへ来たのかと考えてみても、分からないというのが本音だった。様子を知りたいなら電話一本で済む。スペイン行きに猛反対していた母に、実績を持ち帰って見せびらかしたかったのだろうか。人生初の大失恋後に、傷を癒やす場所が欲しかったのだろうか。適当な理由はいくらでもこじつけられるが、どれも本当の理由ではない。
「オヤジは?」
「お父さん? 相変わらずよ。ずーっと、同じ」
夫のことになると見下した言い方になるのも相変わらずだ。だが、どうにも居心地が悪い。やっぱり帰ろうかと腰を浮かした時、畳の上に積まれた雑誌の山やアイロン台の横にある小物入れに、白い紙袋を見つけて止まった。病院でもらう内服薬の袋だ。青い枠に母の名が書いてある。
「どっか悪いの?」
湯飲みを持ってきた母に尋ねると、彼女は笑って答えた。
「大丈夫よ、大丈夫。あんたは何も心配しなくていいから」
「だって、何だよこの量。一回に三種類、毎食後とか、普通じゃねーぞ。何の薬?」
中を覗く不動から優しく紙袋を取り上げ、母は卓を挟んで向かいに腰を下ろした。
「大丈夫よ。ちゃんとお薬もらってるから」
「だから病名を言えっての、医者に言われただろ?」
「何だったかな。子宮頸がんだっけ、でも大丈夫よ。まだ深刻じゃないから」
不動は自分が粘膜に絡め取られ、酸素が薄くなり外界の音が遠のくような気がした。
「お母さん平気なのに、病院行けってうるさいから。明王のお金、少し使っちゃったの。でも少しだけよ、許してね」
「は?」
別の方向から意識をかき混ぜられ、不動は一瞬混乱した。
「あんたが頑張って貯めたお金、まだこんなにあるのよ。」
ホラと言って広げて見せた通帳には、ヨキンキとゼロがいくつか並んだ残高がびっしり記録されている。
「これ……」
「ずっと忙しかったものね。ゆっくりしていきなさいね。足は大丈夫なの?」
「ああ、怪我じゃない……」
言いたい言葉が溢れすぎて、簡単な応答しかできなくなっている。口も開けない不動の前髪をよけて目を覗き、母は嬉しくてたまらないこの瞬間を永遠のものにしようと、じっくりと息子の顔を眺めた。
「あんたは丈夫な体してるもんね。ちっちゃい頃、熱出しても駆け回ってサッカーしてたもんね」
この空間に居ること、母親に何も言えない自分に嫌気がさして、飛び出したくなる。母は身を捩って、後ろにある雑誌の山の天辺に乗っていた本を取り出した。よく見ればそれはスクラップブックで、中を開いて見せてくれたページには不動の名前が載った雑誌や新聞の切り抜きがびっしり貼られていた。FFI少年サッカー世界大会から、高校、スペイン、イタリアまで、不動明王の通ってきた道筋全てがそこに詰まっていた。
「一人でよく頑張ったね。お母さんの自慢は明王だけなのよ。あんたが映ってるテレビも、全部とってあるんだから。ここらの人は皆あんたのファンなのよ。後で挨拶しに行ったら? 皆大喜びするわよ。安藤さんなんか倒れちゃうかもしれないね」
色々な感情が昂りすぎて、不動はすこし泣いた。
「アンタ、バカだろ。こんなんやってる暇あったらちゃんと治療してもらえよ。オレの金なんか取っといてんじゃねーよ。いつまでもこんなボロ家に住んでねぇで、借金返してとっとと引っ越せよ」
母には彼の涙が思いやりから溢れたものにしか見えなかったが、不動は理解されない来るしみと今まで培ってきたものを壊してきた痛みに改めて向き合わなければならず、両側から激しく圧されていた。そこには確かに両親への思いやりも、すこしはあっただろう。
「お母さんたちはいいのよ。もう先も長くないしね。お金はいくらあったって困らないんだから、ちゃんとしときなさいね」
「自分のことぐらい考えてるよ。その上で送ってんだから、使うべき時に使わねーでどうすんだよ! 先が長くないったってまだ五十にもなってねーじゃねぇか! これ全部ドブに捨てたって構わねーくれぇ稼いでんだよオレは!」
終いには、ほとんど怒鳴るような言い方だった。母は顔色ひとつ変えず、しかしやや考え直したようで、そっと息子の髪の端を撫でた。少々見栄を張ったことにも気付いただろう。
「そうね、明王は本当に立派になったわね」
もう一度撫でようと伸びてきた手を、今度は避ける。ここへ寄ったことを後悔する自分もいたが、これで良かったと思った。






つづく





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