<5000ピースのジグソーパズル 18>







4392

染岡からまた一時帰国しているとメールが来て、それなら久しぶりに飲もうということになった。不動は彼を一流ストライカーとしても子供たちのヒーローとし ても豪炎寺のライバルとしても認めていたが、それよりも染岡の持つ無骨で粗雑な優しさと真っ直ぐな性格を気に入っていた。
「そういやお前、まだ吹雪と続いてんの?」
酔いも回って気分が良くなった頃、然り気無く尋ねる。染岡はやや火照った顔をさらに赤くした。
「なんかなー。腐れ縁って、こういうことを言うのかもしれねぇな」
「なんだよ。本気じゃねぇの?」
「本気ってなんだよ?」
「だって十年も同じ相手とヤってんだろ、不思議に思うじゃん。テイソーとか守っちゃってるワケ?」
そう言うと、染岡は口ごもった。
「本気っつうか……。本気ってどういうことだ? 考えたことねーよ」
「まぁな。結婚してガキ作る訳じゃねーし。吹雪なら産みそうだけど」
笑って焼酎を口に含み、二人の座るカウンターの中をバーテンダーが通ったので黙る。再び行ってしまうまで待ち、不動は言った。
「ホラ、よく言うじゃん。この世には一人だけ運命の相手がいて、ヤってみれば分かるって」
「ああ? そりゃ、女の迷信だろ」
「知らねぇけど。大体ヤってる時なんて、相手が誰だか気にもしねぇよ」
「そうそう、他のことなんか考えねぇ。つか、考えることができねぇ」
そう言いながら、染岡は少し考え込んだ。
「でも、うーん……まあ当たってるのかもな」
「はあー? んだよ、リア充じゃねーか」
笑って肘で小突くと、笑い返したあと染岡は真剣な表情になった。
「俺の場合さ、ボールで分かるんだよな。円堂じゃねーけど、どんな球返してくるかで、分かる。あいつがどれだけ俺とのサッカーを楽しんでるか」
「ふうん?」
らっきょう漬けを一個口の中に放り込んで、不動はテーブルに肘をついた。染岡は続ける。
「なんつーか、こう……ホラ、お前も分かんだろ? ボールが会話みてぇになる時さぁ。あれの延長に、セックスがあんだよ、多分」
「分かんねーし」
笑い飛ばしておいた。染岡は自分の世界に入ってしまったらしく、腕を組んで唸っている。言葉を苦手とする彼がこんなに語るのは珍しい。
「俺はさぁ……あいつのこと受け入れてやれたの、すげー時間かかったんだよな」
もう戻って来ないところまで行ってしまったかと思ったが、染岡は腕を組んだ姿勢のままそんなことを呟いた。不動は目線で先を促すが、染岡は見ていない。
「最初、男同士でとかって、ねーだろって思っててよ。けど、綱海が言ってたんだよ、愛と海は似てる。境界も限界も無いんだ、って」
「ふん」
鼻の奥で相槌を打つ。染岡はやっと自分の世界から戻ってきたらしく、腕組を解いて不動を見た。
「まあ、難しいことは分かんねーけどよ、とにかくココにガツンと来たらそいつだってことだよ、な?」
ココと言う時に胸に拳骨を当てて笑うのを見て、不動は目を細めた。
「で? お前は吹雪にガツンと来たわけ?」
「だから男同士でも女相手でも、関係ないって! 俺のことはよく分かんねぇけどよ」
「吹雪が闇堕ちから更正するの手伝ってくれたから、依存してるだけじゃね?」
神経を逆撫でして関係がこじれたらそれはそれで面白いなと思い、ちょっかいを出してみたのだが、染岡は気に留めもしなかった。
「俺もそれずっと考えてたけど、多分違うんだわ。なんかもう、そういうの、超えちまってんだよ」
「フーン。いいんじゃねぇの?」
急に緩んだ不動の反応に、染岡はやや呆気に取られていた。
「んなの、本人たちが良けりゃいいんだし」
「あ、ああ……まあな」
染岡は少ししてふっと笑った。
「不動、変わったな」
「あ? そう?」
「他人の話、聞けるようになったじゃねーか」
不動は驚いた後、一緒に笑った。
「テメェが言うかよ」
似た者同士、気が合うのだと思っていたが、少しのズレを感じて僅かに寂しくなる。彼はいつでも幸福を手に入れられるが、自分は届かない。それでも感謝したいと思うようになって、確かに変化を認めた。






1044

おれは目を閉じ、帝国学園高等部のサッカー部のミーティングルームにひとり座っていた。情報を自在に操作できるタッチパネル内蔵テーブルにはポジション配置図が表示され、指で動かせば好きなように変更することができる。
絶対的かつ圧倒的に、誰も思い付かないような方法で相手を翻弄し、勝利すること。それがここのところ掴んだサッカーの総てだ。
(――完璧だ)
堪らず期待に笑みを浮かべたところで、自動ドアが静かに開き誰かが入ってきた。
「何してんの」
顔だけで振り向くと、不動が近付いてくるところだった。おれの肩越しにポジション配置図を数秒間見つめ、そのまま通り過ぎてテーブルの端に積んである資料の下を覗く。何かを探しているらしく、それはここには無いようだった。
考え込むふりをして横目で不動の行動を観察していると、去り際、細く器用な指を全部使ってDFを全員動かした。
「あっ」
「完璧な戦略なんて、もう古いぜ」
怒りと驚きで思考が一時停止したおれの横をさっさと通り抜けていく。何を言ってやろうかと考えたが、怒りを越した呆れの中で、完璧であることを認めた上でしか出来なかったことだと理解する。
「確かにそれも一つの方法だが、これでは不十分だ」
不動が開いた自動ドアの前で立ち止まった。
「いや、待てよ――」
指先で軽やかにテーブルの上を踊る。名前を並べ替えていると、気になったのだろう不動が戻ってきた。
「こうすれば……」
まだ納得できない。それを不動も分かっていて、わざと笑みを浮かべて見せる。
「やっと分かったか。でもまだ足りねぇな」
挑発的に目を合わせ、微量の電流が生じる。革新的で有効的なシナプスが新しい回答を導きだす。
「そして、こうだ」
裏をかいたからといって得意気な鼻をへし折り、たまには驚かせてやるのも悪くない。不動は呆気に取られて固まっていた――と思いきや、全く別の視点から攻めてきた。
「こうなったらどうすんの」
おれは脳が完全に集中した状態になっているのを感じた。
「ならば、こうしておけばいい」
「それなら、最初からこうしとけば?」
「そうか、――そして、こうだ!」
最後の点を線で結び、浮かび上がった図を眺めおれと不動は顔を見合わせた。
「こういうのを完璧って言うんだよ」
不動はにやりと口元を歪めた。こいつはいつも、おれを出し抜こうとする。頭に来るが、それが意外に役に立つと分かってからは泳がせるようにしていた。
こいつだけはおれを臆せずに否定し、ミスを指摘しようと隙あらば槍で突いてくる。そのうち、それすらも受けないように先読みすると今度は、本当にそれで正しいのかどうか混乱させて確かめさせ、場合によってはそこからより良いアイデアをひねり出す助けをする。そうしておれが捻出したアイデアを、不動が自己流にアレンジする。
楽しくて仕方なかった。






3213

市の中心地を跨いで少し北の方に行くと、公園の中に巨大なサーキットがある。マルコとフィディオに案内され、鬼道は不動と共にF1グランプリを観戦にやって来た。
「すげぇ人……」
「サッカーとパスタと、フェラーリの国だからな」
げんなりする不動に苦笑しつつコメントすると、前を歩くフィディオが顔だけ振り向いて言った。
「あと、ジェラートとオペラと恋ね!」
「素晴らしいね」
皮肉が伝わったかどうかも気にしない不動は、そのまま横を向いて欠伸を拳骨で隠す。マルコの友人が入院したために行けなくなってしまい、余ったチケットが鬼道のところへ回ってきて、二つ返事で買い取ったものの同居人はさほど乗り気ではなかったようだ。かといって他人の家で留守番というのも居心地が悪い、文句も言わずについてきた。

人混みが好きではないのは鬼道も同じだが、一度間近でレースを観戦してみたかったので、好奇心と期待の方が勝っていた。

「レースなんか、目の前で見てたって一瞬しか通りすぎねぇじゃん。テレビで観てた方が良くね?」
などとぼやく不動を半ば引きずるようにして、客席へ向かった。スタンドはフェラーリファンで埋め尽くされ、真っ赤に染まっている。十万人以上の歓声に包まれるサーキットは、サッカーと同じくらいの熱気が溢れていて、日常のささいな問題は忘れ、命を懸けて走るドライバーたちの魂が作り出す誇り高き情熱に圧倒され夢中になるのもよく分かった。







公園の入り口近くにジェラートのトラックが停まっていたので、四人はそれぞれ違う味を購入した。
不動はサーキットを出てからずっとフィディオに、レーサーの訓練法やどのくらいの金が回っているのかや音速で走ることについて自分の推測が正しいかどうか確認していた。その顔が少年のようにとまではいかないがあどけない純粋さで彩られていて、思わずつられて微笑んだ。
「そう言えば、二人はいつから付き合ってるんだ?」
「何?」
マルコがごく自然にとんでもないことを質問してきたので、危うく買ったばかりのジェラートを落としそうになった。
「アキオと付き合い始めてから、どのくらい?」
「ただの同級生だぞ。知り合ったのは、中学の時だ」
ごく自然に受け流して何を言いたいのかと待っていると、マルコは驚いて茶色い目を丸くした。
「えっ! 君たちてっきり恋人同士なのかと思ってたよ。遠距離恋愛に耐えられなくなったアキオが、ユウトを追いかけて来たんじゃないの?」
「何だって? 誰が言ったんだ、そんなデタラメ」
「みんな言ってるよ」
期待が外れてがっくりと肩を落としたマルコは、寂しげに答えた。
「本当に違うの? 隠さなくていいんだよ?」
「違う。何度も言うが、ただの同級生だ。あいつにも聞いてみればいい」
そう言った後で、不動がどう回答するか完全には分からないことに気付いた。
諦め始めたがまだ納得しきれていない様子のマルコに、全体を把握するため理由を尋ねる。
「なぜ恋人だと思ったんだ? フィディオが言ったのか?」
マルコは、当たり前だろうとでも言いたげに鬼道を見た。
「だって、いつもぴったり息が合ってるじゃないか。お互いに脳の一部を共有しているかのようだよ」
その感想は鬼道には衝撃だった。他人から見た自分と不動の印象について、直接聞く機会なんて滅多にない。その現象は普通じゃないのかと聞こうとして、少し先を歩いていた不動とフィディオが待っているところへ追い付いた。
「さて、どうする? 空いてるバルへ入るか、いつもの店が開くまで待つか?」
どうやら会話は聞こえていなかったらしいが、フィディオは侮れない。
「おれはどちらでも構わないが」
「じゃあ行ってないとこがいいんじゃね? マルコ、おすすめの店があるとか言ってたよな」
「うん、ピッツァのうまいとこな。案内するよ」
フィディオが「どこそれ?」とマルコに言うのを見ていたら、いつの間にか不動が隣にいた。再び歩き出しながら、先ほどの話を忘れようと試みる。
「一口ちょーだい」
ジェラートを交換して、不動はカップを鬼道に返し、自分のカップを受け取ってしかめ面をした。
「あー、オレもチョコチップにするんだった」
木のさじをくわえ空いた手で携帯電話を操作する不動に、鬼道は尋ねる。
「じゃあ、なぜラムにしたんだ?」
不動は携帯電話をポケットに戻し、スプーンを口からはずして答える。
「ラムも好きなんだよ」
不動が他人と同じ選択をしているところはほとんど見たことがない。つい違うものを選んでしまうのだろう。タオルの柄も、靴下の色も、どこで見つけてくるのか疑問に思う物が多々あった。そんな彼がフィディオの提案に素直に従ってレンタルを引き受けたのは、利便性と利益だけではない。
「三分の一になったらまた交換しよう」
「鬼道クン優しー」
嬉しそうな横顔を眺めながら、口の中でほろ苦い甘さがひんやりと溶けていく。マルコが不思議そうに少し肩を竦めた。






4134

私服で近所のスーパーに行った帰り、住宅街の隙間にある休憩所のような小さな公園で遊ぶ幼い子供たち二人を見かけ、鬼道は立ち止まった。
彼らのようにまだ何の知識もなく、ボールを一緒に追いかけ奪い合うことが楽しくて仕方なかった頃が、自分にもあった。影山の闇を拒絶し道を違えたとき、その頃の自分に戻れると思った。
不動は影山の闇も知った上で、道を選んだ。新参者で一匹狼のくせに、誰よりも他人を理解し、円堂を敬い考えを改めた。同じ笑顔に導かれ、共にそれぞれ自分 のサッカーを追求してきたつもりだった。だが今は、僅かばかり培った経験と技術を次の世代に伝えているだけに過ぎず、本や過去の録画映像となんら変わらない。
ポストに定期講読しているサッカー雑誌が届いていた。封筒から出てきた最新号の表紙には、よく知っている顔が澄まして載っている。それを見て、安堵と嫉妬 と憤りと喜びが一度に出てきてぶつかり合ったが、最終的に喜びが勝った。精神安定剤とでも言うのだろうか? 冗談じゃない。どこで何をしているか知らないが、あんな奴は早くリーグに復帰して散々な結果を歴史に残せばいいのだ。






2080

成人式もあったので、試合の合間、正月に一週間だけ帰国した。
懐かしい帝国学園の面々が市庁舎の講堂に整列し、それぞれ頼もしい晴れ着姿で並んでいる。一つ空席を認めてから、鬼道は壇上にあがり、用意してきたアンチョコを畳んで内ポケットにしまった。
「本日は成人を迎える帝国学園卒業生のために、このように盛大な式典を開いていただき、感謝申し上げます。また市長を始めご来賓の方々、更には多数ご臨席頂きました皆様に、新成人を代表して心よりお礼申し上げます」
豪華に飾り付けられた講堂は静かに、首席で卒業した彼への敬意と母校への愛情が満ちている。途中で謀反を起こし転校したにも関わらず、何故居ないのだ何故帰って来ないのだと喚く輩はおれど、彼の行動を批難した者はいなかった。
「我々が今日、この日を迎えることができたのは、我々を二十年間見守り支え、時には叱り時には褒め、励ましてくれた家族の存在があってこそです。そして、 親愛なる友人たち。私はサッカーを通して、多くの失いがたい絆を得ることができました。悩み、行き詰まり、戸惑う時、一緒に考え正しい道を歩めるよう助け てくれたのは、かけがえのない友でした」
少し口元を緩め、鬼道は深呼吸をした。
「二十歳になり、これから社会人として何をすべきか、皆さんは既に形にしつつあることと思います。しかしここで今一度、その目標を見直して欲しいと思いま す。それは本当に自分が目指すものなのか? 人生は一度きりしかありません。我々が最後に辿り着くところは、肉体の死です」
鬼道は自嘲するかのような微笑を浮かべた。
「二十歳になったことを祝う場で死を語るのは不釣り合いかもしれませんが、敢えて聞いて頂きたい。人生の最終目的は、どう死ぬかということに尽きるのです から。それはつまり、どう生きるのか?ということでもあるわけです。今日から更なる困難が我々の前に立ちはだかり、今までより高い壁に次々と当たることで しょう。しかし、素晴らしい家族、かけがえのない友人たちに恵まれ、我々に不可能なことはありません」
講堂の中は尊敬の眼差しが並び、感嘆に溜め息が漏れたが、鬼道にとっては確認でしかなかった。
「誇り高き帝国学園卒業生の諸君の成功を祈り、新成人代表の挨拶と替えさせて頂きます。ここまで見守り私たちを育ててくれた家族、偉大なる先生方に心より感謝を申し上げます。ご静聴ありがとうございました」
一礼し、盛大に拍手が沸き起こった。壇を降りて席へ戻る途中、ななめ後ろの通路を挟んだ反対側の列にある空席を見た。成人式なんて眠くなるだけだなどと彼 が言いそうな台詞を想像しながら、小さく息を吐く。フィールドで顔を合わせるのは二ヶ月後。必ず決勝で当たりたいと、強く思った。







式の後はパーティーが行われ、夜は義父と老舗の料亭へ食事をしに行った。純和風で染み入るような味に、飲んでみろと日本酒を少しだけ。既に上機嫌な義父が笑った。
「意外に、有人はザルかもしれんな。平気な顔じゃないか」
「そうでしょうか」
昔から二口飲ませれば酔うが、上機嫌になってしまえば後はいつもより口数が多いだけで、怒鳴ったり絡んだりと悪酔いをすることはない。話を聞きたい時には好都合だ。
「おまえは本当によくやってくれているよ。小さい頃は他人行儀で、子供など預かったこともなかったから、どうしたものかと思っていたが……色々と苦労をかけたな」
「いいえ、そんなことは。おれも分からないことばかりでしたし、父さんに教わったことは全て役に立っていますから」
微笑むと、義父は安堵したのち少し溜め息のようなものをついた。
「私もずっと迷っていた。利用されただけなのかもしれないとな。しかしそんなことはどうでもよくなるほど、立派に育ってくれた。まったく誇らしいよ」
静かに、琴の音色が各個室の窓の下を流れる水音と相まって、上品な都料理を引き立てている。義父は箸を置き、鬼道は猪口を傾け少しだけ口に含んだ。
「そうだ、おまえに渡すものがあった」
義父は車内から持っていた正方形の箱を鬼道に渡した。蓋にブランドロゴの箔押しがされている時点で中身は判るが、箱を開けて現物を目にするとやはり驚いた。
「こんな高価なものを……」
「おまえに相応しい品だよ。男は時計と靴である程度の階級が決まるんだ。いつも着けているといい」
「……ありがとうございます」
俯いたことを気にするような義父ではないと知っていたが、鬼道は記念日の浮き足だった空気も手伝って、いつも以上のことを言葉にした。
「おれは、あの時父さんに引き取ってもらえなかったら、もっと苦労していたと思います。今では恵まれ過ぎている程で……妹も元気に暮らしています。ですから、父さんが気に病む必要は一つも無いんです」
義父は黙っていたが照れ臭いだけで、嬉しく安堵しているようだった。
「なかなか旨かったな」
しばらく無言で食べ、水物と茶を持ってきた仲居が去った後少しして、穏やかな声が言った。
「ここは、麗香と初めて二人きりで出掛けた時に来た店なんだ。あれからもう随分経つが、店主が元気なうちはこの味は変わらんだろう」
窓の外に見える庭園は下からライトが当てられ、松や楓や灯籠が暗闇に浮かび上がっている。
「彼女は生まれつき肺が一つしかなかった。だから死んだわけじゃない、肺が一つでも問題なく生きている人も沢山いる。結婚して全て上手く行っているように思えたが、彼女はとても子どもを産めるような体ではなかった」
義父が妻の話をするのは珍しい。若くして亡くなり、その後再婚する気が起きず、この家には母親がいないからメイドの晴海を頼るようにと言われた。それだけ彼女を愛していたのだと、子供ながらに理解したのを覚えている。鬼道は黙って耳を傾けた。
「病の床で跡継ぎの心配をしていた。代理母をとまで言ってくれたが、私はどうしても気が進まなかった。父上に急かされ、迷っているうちに、麗香は逝ってしまった」
義父は顔を上げ、鬼道を見た。穏やかな表情の奥には深い悲しみと鋭い光が見えるような気がした。
「いいか、有人。この世にただ一人、彼女しかいないと思った時に、男は胆を決める。生涯をかけて守ろうとする。そういう女性を探して来なさい」
「もし――居なかったら。見つからなかったら、どうするんですか?」
「二十五歳までに見つからなかったら、また考えよう」
義父は少しだけ笑って徳利を傾け、空であることを思い出した。
「私はどうしても、後妻をとる気になれなくてな。しばらくして、養子をとってはどうかと影山さんに提案されたんだ。今思えば私も……」
それきり義父は、何を言っても虚しさが募るだけだと思ったのか、黙ってしまった。
「父さん、もう二十時です。そろそろ帰りましょう」
「ん、ああ……そうだな」
支払いをするくらいの脳は働いているが、足元が頼りない義父を見守り、外へ出る。入り口の前に黒いセダンが待っていて、仲居長が案内してくれた。
「ありがとうございました」
見送られ、一緒に乗り込もうとして、義父が言う。
「今日は遅くなるのか?」
「え? いえ、一緒に帰りますよ」
「なに? 友達と祝杯もあげないのか?」
「もう飲みましたし……」
運転手は待機している。鬼道は少し迷った。義父と夕食をとるからと、昨日のうちに会の誘いを断ったのだ。
「私が二十歳になった時は、友達と明け方までばか騒ぎをしたものだ。初めて二日酔いになったのも良い思い出だな」
「それは――」
苦笑すると、義父も笑った。
「有人は真面目だな。今日くらい遊んで、羽根をのばすのもいいだろう。佐久間くんも源田くんも、来ているんだろう?」
「はい」
頷くと、義父は満足そうにシートに体を埋めた。
「それから、そろそろ一人暮らし用の部屋を持っていてもいいんじゃないか? 色々と不便だろう」
「いえ……十分です」
「まあいい、明日また話そう。じゃあ気をつけてな」
鬼道は身を引いてドアを閉め、静かに去っていくテールランプを見送った。携帯電話を取り出して、豪炎寺にかける。夜はサッカー部の面々で集まるからと聞いていたのだ。
久しぶりに聴く、やや高揚した親友の声に微笑み、地下鉄の駅へ向かう。スペインから帰国しない奴のことは考えないようにした。






4436

宗一朗もここへ通うのだろうか。帝国学園サッカー部の屋内グラウンドで、ベンチに腕と脚を組んで座り中学生たちの尊敬と畏怖の混じった視線を浴びていると、佐久間が休憩を命じてから肩を怒らせて目の前へやってきた。
「ここで何をしてる?」
「見学。モフモフ野郎は何してんの?」
「源田なら高等部の顧問だ」
コーチ兼総帥代行の額には青筋が浮かび上がっているが、喧嘩を買ってやる理由はない。不動はふてぶてしく座ったままのため、佐久間は何かを諦めたのか、練 習を再開させに行った後また戻ってきた。統率が取れ洗練された動きを監視しながら、腕組みをして隣に立つ佐久間の表情をちらりと窺う。
「ここで何をしてるって聞いたんだ」
佐久間の言わんとすることは理解できる。答えない不動に、彼の憤りは募った。
「どこの国も二流役者は願い下げか? 先輩ヅラなんかしてないで、引っ込んでろ。無能がウロウロするのは目障りだ」
「言いたいことはそれか?」
鼻で笑うと、振り向いた佐久間の顔から嘲るような笑みが無くなった。やや声が低くなる。
「おまえ、いい加減にしろよ。鬼道につきまとって、迷惑かけてるだけだろう」
不動はほとんど見抜かれていたことに驚かなかったし、それでも自分を否定する佐久間に不思議と腹は立たなかった。
「迷惑? よく言うぜ。それ言うならオレの方が迷惑してんだけど。テメェこそ、ここで何してんだよ」
佐久間は反論にひどく憤慨したようだったが、怒りを抑えて挑発に応じた。
「俺は自分のできることをしてるだけだ。相手の為になることを精一杯やるのと、気まぐれにやったりやらなかったりっていうのは違うだろ。そんなの、自分勝手に都合の良い時だけ利用してるようにしか見えない」
「そうだねェ」
一方通行に嫌気が差した佐久間が、抑えた声で強く叫んだ。
「影山の呪縛にとらわれたままだとか言ってたけど、おまえだって鬼道にとらわれてるんじゃないか!」
不動は立ち上がり、佐久間を見た後、ちらちらと変化するグラウンドを眺めながら言った。
「勝手に言ってろよ。オレはオレの人生を生きてる」
そのまま去っていった不動と、悲しげな顔で残った佐久間を、球蹴りにいそしむ中学生たちがどう捉えたかは分からない。






4455

帝国学園、サッカー部。初等部から教育されてきた者もいれば、他校から転入してきた者もいる。基礎をしっかりと叩き込まれ礼儀正しく一致団結し、次の全国 大会へ向けて練習へ励む中学生たちを眺めていると、いつまでも自分がその中に混じっているような気と、二度とそこへは戻れない気とがごっちゃになって、一 歩引いたよく分からない困惑したままの幻想が鬼道を包む。
ベンチに吐息を残して立ち上がった時、ふと些細な異変に気づいた。
「長谷川!」
呼ばれたFWの一年生は長谷川勇司といい、顔を上げて自分に用があると分かると小走りで駆け寄ってきた。
「はい」
編入生でまだ二軍だが、身体能力が高く柔軟性に優れているため、すぐにスタメンに適用されるようになり、ストライカーとして活躍できる見込みのある好印象だ。加えて、練習態度、性格、容姿も良い。マイナス点をつけるとすれば、やや大人しすぎるところだろうか。
「練習が終わったら、執務室へ来るように。何、ちょっと話したいだけだ」
「は、はい。分かりました、総帥」
軽く頭を下げて、元の位置へ駆けていく。数人が彼を見たが、すぐに何事もなかったかのようにいつもの空気が戻った。







執務室のドアがノックされ、机に付いているボタンを押すと自動ドアが静かに開き、長谷川が入ってきた。
「失礼します、総帥」
「ああ、長谷川。まあ座って、楽にしてくれ」
ソファにピンと背筋を伸ばして座った長谷川の向かいに腰掛け、鬼道は微笑んだ。
「どうだ? 入部して半年だが、来月からは全国大会地区予選が始まるな」
「はいっ。とても楽しみです」
目を輝かせて言うそれは本心なのだろうが、先程監視カメラ越しに見ていたロッカールームで、誰とも話さずにここへ来たことを鬼道は知っている。偶然ではなく、これは以前から見られることで、誰が悪いとも言えなかった。
小学校6年の時に彼は恋をしていたが、その相手の男子が拒絶した上に彼の性癖を触れ回り全校生徒に侮辱させたことで、近隣にすぎない帝国学園にまで広まる程度には噂になってしまった。
それでも前向きな思考を心がける姿勢に、鬼道は感心した。
「君には、私の期待に応えるだけの力がある。自分を見失うな」
「はい。善処します」
「それから、たまには肩の力を抜くといい。周りを気にしすぎているんじゃないか?」
「自分を大切にするということですね」
「そうだ。まず自分が自分を大切にしていれば、周りも自然についてくる」
「はい……!」
最も尊敬する相手から的確で理解しやすい助言をもらい、長谷川は顔を輝かせた。長谷川は心優しく、爛漫な性格だ。やや大人しいのが欠点で、他人に合わせすぎてしまう傾向がある。
しかし、帝国イレブンに悪心を持つ者はいない。もう少し時間がかかりそうだが、確実に改善されるという手応えは感じた。
「以上だ」
「ありがとうございます。俺、頑張ります!」
最敬礼して素早くだが静かに退室する姿を見送り、鬼道は息をつく。
世界のチームと戦い、今は会社の関係で様々な人を見てきて、性格や傾向、微妙な表情から、誰にどのような言葉をかければどうなるかということが少しずつ分 かってきた。自分の影響で周囲に変化が起こるのは責任がかかるが、興味深くもある。ちょっと手を入れて詰まりを取るだけで、流れが良くなるのを見るのは気分が良い。
しかし、何かを失念している気がした。






2030

イタリアの街を歩いていると、しょっちゅうどこかから鐘が聞こえてくる。誰かのための祈りや祝福に、神に聞こえるようにと鳴らすのだ。教会の前を通り、鬼道は人だかりに目を留めた。
重い木の扉が開き拍手と歓声の中、石段を男女が腕を組んで降りてくる。純白のヴェールが優しい風に揺れ、ライスシャワーが四方八方から振りかけられた。その光景を、しばらく立って眺めていた。
(いつか、あいつも、あんな風に――)
淡いグレーの礼服を身に付けた黒髪の青年は、くせ毛を首の後ろで一つに結い、日に焼けた顔を輝かせて微笑んでいた。
世界中の幸福が凝縮されているかのような二人は、用意されていた装飾付きの白いオープンカーに乗り込み、家族や友人たちに見送られて新しい道へ旅立って行った。
エドワード八世は、愛する女性のために王位を辞退した。
後継者としての務めを果たし、どこかでこの想いに折り合いをつけなければいけなくなる日が来る。その時どうすればいいか、まだ答えは出せずにいた。






3241

明日はオフだからと言って皆で飲みに行こうと誘われていたのだが、鬼道は今日はやめておくと断った。不動と微妙な距離を取り続けているせいもあるのか、どうにもプレーがしっくりいかない。はまるべきところに歯車がかみ合っておらず、一応動いてはいるが何かが足りない感じがあった。
それを見つけるまで、練習場に残って一人でボールをこね回していたところ。
「居ねぇと思ったら……なにやってんの」
暗がりから現れた不動はTシャツとカーゴパンツに着替えている。鬼道はボールを軽く蹴り飛ばし、ベンチへ腰を下ろした。
「っぶねー。今、当てる気だったろ?」
不動がボールを拾って隣に座る。
「何か、まだ分かっていないことがある気がするんだ」
水を飲みつつ呟くように言うと、鼻で笑う声がした。
「んなの、いつだって分からねぇことだらけじゃん」
「それはそうなんだが――」
自分の考えを伝えようと不動の方を向いた時、サングラスを外されて目が合った。
不動は唇を一瞬で奪い、次第にベンチに押し倒さんばかりにしてのし掛かってくる。最初のうちはすぐ離れるものと思い軽く応じていたが、舌が絡み付くようになって危機感を覚え、慌ててもがいた。
抵抗も気にせず、ユニフォームの腰から尻へ手が滑っていき、鬼道は思わず彼の胸を押し返す。
「おい! 何を考えている? ここはグラウンドだぞ!」
だが、弱い。
「だから?」
悪びれもせず、不動は口元を歪ませて笑う。その手が尻を揉んだ時に、体の反応を隠しそびれたのが敗因だった。
「おいっ。おれたちの神聖な場所を、けがすような、真似は――」
「おやおや、呼吸が乱れてるぜ。有人クン?」
身を寄せてきた不動はユニフォームの前側からスパッツの中に手を入れる。その手首を掴んで止めようとしたが一歩遅く、握り込まれてしまって力が抜けた。
「貴様……やめないと、一生許さんぞ」
「何言ってんの、鬼道クンだって考えたことあるだろ。ここでヤったら、どんな感じなんだろうってさ」
足を開きたくてウズウズしてくるが何とか堪える。スパイクがコンクリートに微かな音を立てた。
「やめろっ、こんな――こんなところで、誰か来たら、どうする」
「来るかも、ねぇ?」
不動の肩に強く指を立てて、歯を食い縛る。
「くそっ……!」
背徳感が助長する快楽に震え、仕方なく身を預けた。手が濡れて、悪戯は止んだ。ゆっくりと、濃密なキスを交わす。ほとんど無意識だった。
「あ――やばい、マジで誰か来る」
「何っ!?」
慌てて立ち上がりユニフォームの激しい乱れを整えていると、恰幅のいい丸顔の警備員がドアから顔を出して挨拶した。
「あれ、まだいらっしゃったんですか。目指せイタリア一! 応援してますよ!」
「ああ、どうも」
「がんばります」
警備員はよく流れる応援歌を口ずさみながら客席へ上っていく。笑いをこらえながら「やっべえ」と呟く不動を肘で小突いたが、つられて笑ってしまった。
「おーし、飲み行ってくだらねぇ事はパーッと忘れて、さっきの続きしようぜ」
「正気か? まったく……お前のせいで酷い有り様だ。シャワーを浴びる間、鉄壁を崩す方法でも考えておけ」
「まーた命令かよ」
クスクス笑う不動から離れて、シャワールームへ向かう。
変な時に変な場所で達してしまったので体が変な感じだったしどこかふわふわしていたが、気を取り直してシャワーを浴びた後、急に良いアイディアを思い付いた。これが不動のおかげとは思いたくなかったが、一度頭を空っぽにしたことは効果があったのだろう。







つづく





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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki