<5000ピースのジグソーパズル 20>







3492

 鬼道と過ごした日々の事ばかり思い出している自分がいて嫌気が差したが、どうにもできない。ボールを蹴っても気晴らしにはならず、集中もできない時は早めに切り上げて街へ出た。
 スペインは夕方から長い夜にかけて活気づく。車も通れないような細い路地を、商人と客が埋め尽くす。バルは飲んだくれで賑わい、足踏みの音が外まで聞こえる。街角でギターを鳴らし恋を唄う男は、とても寂しそうには見えない。
 オレはあいつに何かしてやれただろうか?円堂はともかく、影山をも超えられず、それについてはむしろオレのせいで傷を深めてきたような気さえする。救おうなんて傲慢な考えは持ち合わせちゃいないが、いつまでも頭の中から消せない未解決事項があるというのは問題だ。「考えすぎ」で片付けられればそれほど楽なことはない。
 人間は一人で生まれ一人で死んでいく。だが、その間も誰とも関わらず一人で過ごすことはあり得ない。
 あいつの意識を向けさせて、心を奪って、髪の毛一本から足の先まで全部を独占したかった。どんな理由でもいいからあいつにとっての一番になりたかった。なぜならオレにとっての一番だったからだ。
 わざと突き飛ばして、円堂に掴まらせ、おちょくって嘘をついて自尊心を引っ掻き煽った、それを見破って、残りカスみたいになってた良心を信じた。快楽物資より面白くて強烈な刺激を与えてくれ、理解し合い高め合って、やっと同じ台に立てたと思ったらあいつはもう一段先へ行こうとしている。
 あいつの隣に立つことができないのも分かっている。オレはそんなに魅力的な人間じゃない。自分のことで精一杯で、何度も女に愛想を尽かされ、親だってまともじゃない。孤立した人生を送ってきたオレには、精々イタズラや憎まれ口で気を引くので精一杯だ。ボールの先にあいつがいてもいなくても、サッカーを続けていた。誰よりも上に行きたくて、他人と違う未開の道を行きたくて、とにかくボールを蹴った。騙され見捨てられ身も心もボロボロになった時、努力も虚しく諦めそうになった時、少し稼いで金に惑わされそうになった時、あいつの存在がオレを冷静にした。あいつに勝つためにはどうしたらいいかということだけを考えて生きてきた。
 その鬼道がフィールドから消えた今、オレは棒のように突っ立っている。
 自分がバカだとは自覚しているつもりだ。だが、本当に全部無駄だったのだろうか?あいつのことばかり気にして考えてこだわってきたのは、間違いだったのか?
《多分、多分、多分 君は時間を無駄にしてるよ、考えてみろよ、考えてみろよ それが君の一番の答えなの いつも、どんなときでも》
 見上げた空が真っ赤に燃えていて、オレの心まで焦がしたかのようだった。
 オレは認めることができないでいたが、それよりも諦められなかった。あいつがオレを信じたように、オレはあいつが戻ってくると信じることにした。一向に叶わない幻想だとしても、諦めるよりマシだ。詩人のギターケースに重いコインを放って、オレは歩き出した。






387

 就寝前の自由時間にわざわざ呼び出したうえ、既にジャパンエリアまで来ていると言うのだから断れない。おれはフィディオの姿を薄闇の中に見つけ、悟られないよう静かにため息を吐きながら、近づいた。
「やあ、良い夜だね。調子はどう?」
「……まずまずだ」
 ゴーグルの中を覗き込み、フィディオは苦笑した。
「時間はかかるよね。だけど君の周りにはたくさんの仲間と大切な絆があるじゃないか。良かったね、恵まれてるよ」
「恵まれてる……?」
 眉をひそめあからさまに嫌悪感を表したおれに、フィディオは動じなかった。
「うん。恵まれてると思うよ。マモルとかサクマとか。特にフドウなんか、君のことしか見てないじゃないか。別にフドウのことが好きなわけじゃないけど、羨ましくなっちゃうよ」
 おれは眉間の皺を深め、固く組んだ腕に力を込めた。
「フィディオ、お前だって素晴らしい仲間がたくさんついているじゃないか。何が言いたい?」
「分かってないなあ。フドウなんか、イタズラも皮肉も言わないで、君が闇へ堕ちないかどうか神経を張り詰めてるっていうのに」
「ハッ……そんな心配は無用だ」
 もちろんおれは気付いていた。だが、できるだけ関わらないように、余計な事は考えず、まずはこの大会で優勝してから少しずつ気持ちを整理しようと思っていた。すぐにどうこうできるよな、簡単な問題ではなかったからだ。
「おれは今は試合に集中したいんだ。それに、不動がどうしようとおれには関係ない」
 フィディオはやはり動じなかった。
「君はそんなに柔な男だったのかい?」
 宿舎へ戻ろうとしたおれの背に問いかけられたそれは、おれの足を引き留めた。
「フドウがどうなろうと、僕だって知らないよ。君が片っ端から愛情を切って捨てるような残酷な人間だったとしても気にしない。だけど、僕は君とサッカーをしたい」
 蒸し暑い夏の空気に、海から涼しい夜風が通り抜けていく。
「あの人のサッカーは、残念だけどここまでだ。ここからは君だけのサッカーなんだ。僕は絶対に世界一のプレイヤーとして名を馳せる。そのとき、この目で君のサッカーが見たい」
 おれは何も答えることができず、黙って宿舎へ戻った。悲しいのか嬉しいのかも分からなくなっていた。
 談話室を避けて自分に宛がわれた部屋へ戻る途中、階段で不動とすれ違った。上着まで着ていたから、もしかしたらおれを探しに行こうとしていたのかもしれない。
 だが何も言わず顔も上げず、階下へおりていく。
(お前に気を遣われる筋合いはない。確かに一時は助けられたが、おれは一人で先へ進める。他人の事を気にかける暇があるなら必殺技でも練習しろというんだ、まったく)
 腹立たしいのと少々の恥とが混ざって、おれはさっさと布団に入ることにした。夜中に悪夢も見ず、熟睡できたのが不思議だった。






4938

 ヨーロッパ一のサッカーチームを決める大会EUROで、ドイツとイギリスはイタリアに次いで順調に勝ち進んでいた。準決勝を一ヶ月後に控え、不動は日本へ一時帰国していた。
 閑静な住宅街の一画に、鬼道邸はある。彼の義父から電話がかかってくるなんて何事かと思い、呼び出されたのでとりあえずすぐに応じたが、行ってみるとそれほど気取った服も着ておらず、大ごとでもなさそうでやや拍子抜けした。同時に、適度に緊張もゆるんで良かったかもしれない。
「わざわざすまないね。あの子に言ったんだが、なかなか紹介しないものだから」
 鬼道の父は屈託のない笑顔で、自ら玄関で出迎えた。ネクタイこそきちんと締めているものの、シャツにニットのベストで、仕事とは関係ないという線引きがうかがえる。
「はぁ……ちょうど、息抜きしようと思ってたんで、大丈夫です」
 手ぶらはまずいと思ったので一応、大体の男が気に入る万能の赤ワインを買ってきた。
「レストランとまではいかないが、うちの料理人は腕利きだと思うよ。寛いでくれたまえ」
「はい、ありがとうございます」
 時差ボケもどこへやら、高級レストランのような夕食を前に、不動は大きなダイニングテーブルの端について座っていた。すぐ向かいに鬼道の父が深々と腰掛け、上座は空いている。
 大正時代のことは詳しくないが、趣きのある洋館といった邸には静寂が満ちていて、天井が高いため皿にフォークを当てるとやけに響く。普段からこうなのか知らないが、こんなところで毎日食事をしていたのかと思うと胸の底がでこぼこして不安定になった。
「どうもまだ遠慮があるのか――今は忙しいのか?」
「いえ、オレ――僕と同じで、準決勝まであと二週間くらい、休息と準備です」
 どのくらいの距離で接すればいいのか分からずしゃべり方を調整していたら、気兼ねするなと笑われた。
「血は繋がっていなくとも、私には大切な一人息子だ。自分で決めたことは尊重してきた。すべて、あの子の幸せを考えてのことだ――」
 鬼道の父はしっかりしたナプキンで口元を拭い、食事の手を休めた。
「私はサッカーのことは一般人程度にしか分からんが、君は随分と活躍しているようだな。代表を棄権したのが悔やまれる」
「ありがとうございます」
「だが、誰しも身体能力と人格は別物だ。今回のことは驚いたし、私自身色々とまだ、不安に思っている。有人もああ見えて色々抱え込むタイプだからな――」
 ワインを一口、何の飾りもない結婚指輪をその手に見つける。胸に光るエメラルドのネクタイピンや、派手なネクタイとは対照的だ。
「君は全て分かった上で、そこに座っているのだろう。人生という道を行くとき、持てる荷物の量は限られている」
 不動はワイングラスの足に人差し指を置いて、冷たくて滑らかなガラスをちいさく撫でた。
「オレはあなたに、謝らなくちゃいけないんです。覚えてないかもしれませんけど……十二年前のクリスマスパーティーで、」
 鬼道の父は恰幅の良い体を揺らして、喉の奥で面白そうに笑った。
「それなら私は、あの時の少年に感謝を伝えなければならないな。あの時言われて、試合を観た。五年前のEUROで有人は、私が見たことのない表情で、大人になったその少年と笑っていた」
 不動はハッとして目線を上げた。ヨーロッパリーグに入り、二部から一部へ上がり、あの時プロとして認められてから初めて正式に鬼道と対峙した。今だかつてないほど美しく、そして楽しい試合だった。
「鬼道は自分が一番上に立ってても、まだ上を見てる。円堂や豪炎寺には敵わないからって、限界まで特訓して無数に戦略を考えてて。――あいつに認められたくてオレは、ここまで来れたんだと思います」
「それだけじゃないんだろう?」
 穏やかだが素早い突っ込みには苦笑するしかなかった。
「そのくせ、っていうか、だからなんでしょうけど――自分が持てる以上のものを無理して持とうとするんですよね。だから、目が離せなくて……」
 あとは勘弁してくださいと目と手振りで訴えると、鬼道の父は優しく笑った。
「私が多少荷物を追加しても、君は平気そうだな」
「多少、なら」
 不動も笑みを返した。
 それからサッカーの素朴な疑問に答えたり、生い立ちを語ったりと、ワインを一本空にしてもまだ、ゆったりと話ができた。







 用事が済んでから街に戻ってホテルを取るつもりだったが、泊まっていけという言葉に逆らう理由もなく、好意に甘えさせてもらった。
 客室は突き当たりの右側と聞いていたが、風呂に入った後の眠気と酔いで、つい反対側のドアを開けてしまった。すぐに違うと気がついたが、その部屋を見たいという好奇心が沸いて、一歩踏み込んだ。
 今は、ほとんど使われることのない鬼道の部屋。ソファと勉強机、ぎっしり本が詰まった大きいガラス戸付きの書棚が三つに、セミダブルのベッド。弁護士の部屋は知らないが、とても高校生が生活していたとは思えない。
 長居するのもどうかと思ったので踵を返し、退室しようとして、不動は広い壁にかけられた一枚の絵に目を留めた。
 両手を広げた幅くらいありそうな大きな絵はよく見ればジグソーパズルで、ヨーロッパの田舎の素朴な屋敷が豊富な草木と花に囲まれて幻想的に描かれている。
「あ……!」
 左上の空の部分が、ひとつだけぽっかりと欠けていた。小さな形に見覚えがあり、つい声をあげてしまった。
 あの日返せなかった、水色のピース。不動は客室へ戻り、荷物をひっくり返してパスケースを取り出した。複雑な想いが絡んで、一本の道を紡ぎだす。パスケースを枕元に置き、不動は古い旅館のような臭いのするベッドへ寝転んだ。
(お前とサッカーしたい)
 勝敗なんて関係ない。早く会いたくてたまらない。






4999

 勝敗はもう、チームに誇りと貫禄を付けるための衣装でしかない。ただ自分が鬼道有人としてフィールドに立ち、心から納得のできるプレーがしたい、それだけだった。
 唯一無二の相手と全力で勝負し、それを利用したエドガーが奪ったボールを叩き込んだ。意外でも何でもない流れだが、そこまで計算していたかと言われればそうでもない。そこで、絶対的な勝利に固執しなくなった自分に気付いた。
 十一万人の歓声に包まれ、チームメイトたちに抱きしめられながら、鬼道は相手チームを見た。不動は笑っていた。子供のように無邪気で弾けるような表情に、やりきった時の満足感が溢れている。
 近付いていって、拳を突き出すと、ぶつけてくる。熱狂の渦の中で、一番見たかったものを見た。







 まだ体が火照ったままだ。ホテルへ戻るなり荷物を置いてエドガーに一言残し、とりあえず居ても立っても居られなくて通りへ出た。
 冷たい夜の空気が肌を撫でていく。一呼吸置いて、携帯電話を取り出す。電話を待っていたとは思いたくないが、コール音2回でつながった。
「不動、今どこだ?」
『鬼道クンの後ろ』
 歩き出していたが思わず、勢い良く振り返った。通行人の少ない通りに不動は見当たらない。
『――なんてな。今、振り返っただろ?』
 笑い声に、驚いて一瞬こわばった肩の力が抜ける。
「いいから早く……会いたい」
 勇気を出して言葉を紡いだ。電波に乗って柔らかい声が届いた。思ったより早い。
『さっき会ってたじゃん?』
「そうだが」
『これから打ち上げだろ?』
「そうだが……」
 電話の向こうも静かではないようだったが、フッと笑う息遣いはよく聞こえた。
『すっぽかすの?』
「遅れて行くと、エドガーには言ってある。何か問題があるか?」
『完全復活した天才ゲームメーカー様の優勝直後の密会について? 大問題じゃねえの? でも――』
 気配のする方を振り返ると、携帯電話を耳に当てながら歩いてくる不動がいた。
「そうこうしてるうちに見つけちった」
 電話を切って、駆け寄って、しかし両手はポケットに入れブレーキをかけた。
「不動……」
 顰め面をする以外に、手立てはない。不動はその表情をちらちらと見回して、息を吐いた。
「あのさ。――とりあえずオレんち来いよ。近くだから」
 夜の街を横切り、駅から少し離れた住宅街の中にあるアパートへ向かう。不動は何を思っているのか、さっき喋っていた時の印象とは違って静まっている。さっきまでピッチにいたこともあり、二人とも黙っていた。
 鬼道がフィールドへ戻ってからこの数ヶ月、お互いの話を人づてで小耳に挟むことすらあまり無かった。試合で顔を合わせる以外、電話なんてできるはずもなく、相変わらずメールも打たず、話したいことや聞きたいことは山ほどあるのに、ホーム&アウェイ全てが終わるまで、最後の最後である決勝戦が行われる今日この日をひたすら待っていた。
 鍵を開けドアを押さえて鬼道を先に入れながら、不動は電気のスイッチを押す。1LDKの小ぢんまりとした部屋には、必要最低限の家具と食材、サッカー雑誌と地元の新聞、いつも着ている上着がダイニングの椅子の背にかけられていて、仮住まいといった感じが漂っている。
「相変わらずだな」
 懐かしくなったのもあって、つい呟いていた。
「なにが?」
 上着を脱いで荷物を置き、椅子の背にかける。今日までの精神的なものと今日一日の肉体的なもの、二つが合わさった多くはない疲労を自覚し、少し肩の力を抜いた時、目の前に不動がいる現実を改めて直視した。
 大きく心臓が鳴り、感情作用によって心拍数は一気に上昇していく。近付いても不動は立ち止まったままで、ゆっくりと強く力を込めて彼の肩に両腕を回すと、背中を抱き寄せる腕も同じようにしてきた。
 体格差は殆ど無いが、身長は十八ミリ不動の方が高い。靴のサイズは同じだが、スパイクはサイズもメーカーも違う。人は自分に無いものに惹かれる。よく、似ていると言われ、不本意ながら同意したこともあるが、お互いにほとんど真逆と言ってもいいくらい似ても似つかない部分がたくさんあるのを知っていた。
 サングラスを外され、目を閉じる前に真っ直ぐ不動の深い青緑の目を見た。
 十三年間求め続けていたものがそこにあり、鬼道は安堵した。挨拶を除いて自分から口付けたことはほとんどない。しかし鬼道は今、少し戸惑い気味だった不動の後頭部を掴み、顎を支え、反応次第では舌で歯列を割ろうとしていた。
「んん……っ、は――」
 不動の手は鬼道の腰と背中をまさぐり、時間を忘れて、文字通り無我夢中でしたキスは、初めて知るような恍惚の味がした。予測通りに絡み合う舌が言葉にできない想いを伝え、呼吸が難しくなっていく。
 何度目かに離れた唇をそのままにして、酸素を求める。
「……こっち来いよ」
 ベッドのある部屋へドアの無い戸口をくぐり、二人は初めて脱ぐように服を脱いだ。







 集合予定より一時間遅れて、不動のアパートを出た。
「あー、腹減った」
 携帯電話をポケットに入れてぼやく不動に苦笑して、歩きながらジャケットを羽織る。外は白い息が出そうなくらい寒かった。
「どこ泊まってんだっけ。マンダリン?」
「ああ」
「あそこメシどう? オレ泊まったことねえわ」
「まあまあ、というところか。外よりマシだ」
 不動は笑って応えた。
「この国はしょっぱすぎるし、重い。ああ、和食が恋しい」
「んじゃ、明日作ってやるよ」
 不動は何気なく言ったらしかったが、その自然さは五年前イタリアで生活を共にしていた頃と同じで、鬼道は笑みを抑えられなかった。
 宴会はイギリスとドイツ両チームのほとんどのメンバーの他に、どこから現れたのかイタリア人も混じっていた。
「新郎新婦のおなーりー!」
 歓声と口笛と拍手に迎えられ、必死に否定するが誰も聞いていない。
「おめでとうイングランド! おめでとうユウト!」
「試合、見てたよ!」
「W司令塔のぶつかり合い、それを手玉に取るエドガー。マジで凄かったな!」
「インターナショナル万歳!」
 不動は鬼道と通じているから八百長まがいの試合になるんじゃないかなどと抜かす輩もいたが、今は彼らも試合の面白さに恍惚として語り合っていた。
「なに? 結婚するのか?」
「やはり君たちか! 完璧なカップルめ」
「こんな奴放っといて、俺達とまずい飯を食おう」
 応対に困った鬼道の横で黙って見ていた不動が、耐えかねて前に乗り出した。
「うるせーな全く」
 皆が一瞬言葉を止める。何をするかと思えば、さっきまでしていた名残のような、重ねてすぐに離れるくせにしっかりした強いキス。
 歓声と野次が飛び交う中、不動は彼をおちょくる者に囲まれてさっさと別のテーブルへ行ってしまった。
「パパー!」
 異質な子供の声にハッとする。
「遅くなってすまないな。楽しかったか?」
 宗一朗がジュースを片手にやってくるのを抱き上げ、奥のテーブルにドイツのキャプテンであるライナー、そしてフィディオとエドガー、宗一朗がいたらしい空席があるのを見た。
「フィー兄が遊んでくれたよ。あとエドガーも! ライナーさんは、紙飛行機を作るのが得意なんだよ。すっごい飛ぶの!」
 その頭を軽く撫でて、改めて店内を見回す。キャプテンたちが子供と遊んでいたテーブルの隣に、監督たちとマネージャーがいるのを確認した。
「よし、じゃあもう少し待っててくれ。挨拶したらすぐ戻る。その後はずっと一緒だ」
 頷く宗一朗をフィディオの隣に連れて行く。
「何か食べたか?」
「うん」
「ユウト! お疲れ様!」
 立ち上がったフィディオと軽くハグをする。ライナーやドイツ人たちにはピッチで散々撫で回された後だったので、エドガーと同じく軽く挨拶だけで済んだ。
「宗一朗を見ていてくれてありがとう」
「面白い子だね。ところで英雄君は、何をやっていたんだい?」
「ちょっとエドガー、それ聞くの?」
 天然紳士をフィディオが止めてくれて助かった。鬼道は苦笑して手を振る。
「監督に挨拶してくる」
 三チームの各監督は、一番奥のテーブルでビールを片手に談笑しており、さすが、周囲の凄まじい騒ぎとは世界が隔ててあった。そこにブラジルで活躍していると聞いていたヒデの姿もあった。
 丁寧に挨拶を交わし、労いと称賛を受け取って、先ほどのちょっとした騒ぎについて言及される前に立ち去る。
 テーブルの端に座っていたヒデが改めて声をかけてくれた。
「君を見た中で、最高の試合だった」
 彼の言葉はいつも意味深に聞こえる。
「ありがとう」
 どこからか、不動が通りかかった。挨拶が済むと、ヒデ――サッカーの神様のような男――は微笑む。
「また二人に会えて、嬉しいよ」
「オレもです」
 じゃあと手を上げて、カウンターへ向かう。不動も一段落ついたらしく、店内は一時的な熱狂もやや落ち着いて、熱く語り合いながらリラックスした空間へ変わっているようだった。
 キラキラ輝く目のウェイターに二人分のビール、ジャーマンポテトと茹でソーセージを注文すると、しばらく立ったまま沈黙した。周りは三ヶ国語で埋め尽くされ、笑い声がそこかしこで上がる。







 今更になって、不動がどういうつもりなのか分からなくなった。寝る場所が足りないからとホテルに帰された鬼道は、つい数時間前にあれだけ肌を触れ合わせたにも関わらず、宗一朗の寝顔を眺めながら薄闇の中で燻っていた。
 イタリアでの別れをまだ引きずっているのか、日本での二度目の別れが追い打ちをかけているのか、ただの遊びだという可能性もゼロではない。しかしそれならなぜ、コール音2回で電話に出たのだろう。なぜ二年近くも日本に留まり、宗一朗の面倒を見てくれたのだろう。なぜ生活を共にすることについて一言も反対しなかったのだろう。
 この人しかいないのではと思うのは、恋に惑わされているだけだろうか?
 大切な人を別れも告げられずに失った鬼道にとって、これから築く関係はとても重要だった。
(このままが一番良いのかもしれない……迷惑も負担も少なくて済む。このまま、友達以上恋人未満とでも言うのだろうか……きっとあいつも、その方が気楽に過ごせるだろう。そもそもが男同士なのだから、結末なんて無い)
 目を閉じて深くゆっくりと息を吐く。まだ自由を満喫しようとしない自分、両腕を広げて芝生に寝転ぼうとしない自分に苦笑しながら、深みにはまっていくだけの考えを押しやって眠りについた。






5000

 目が覚めて、鳴る前の目覚まし時計を止める。朝の清々しい日光を浴びてもまだ昨夜の複雑な気持ちのままで、ベッドを出るのが億劫になる程だったが、持ち前の几帳面さでとりあえず上体を起こした。
 ちょうどその時、携帯電話がメールの受信を知らせた。

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06:38 from:不動
gm
昨日も言ったけど朝メシうちで食わない?
食わない場合は後で。ちょっと渡す物があるだけだからどこでもいい

――――――――――

 goodmorningを省略したいつもの書き方に、笑みが溢れる。今から行くと返し、宗一朗を着替えさせてホテルを出た。







 石畳の大通りを横に入り、路地を抜けて裏道に出る。小さな広場に面したアパートの三階まで足を使う。昨夜は半ば心ここにあらず状態で、足が宙に浮いているような感じだったのだが、道をよく覚えていたなと自分で自分に感心した。
 ドアベルを鳴らし、狭い廊下で待つ。外国に来ているというだけで興奮気味の宗一朗が、それでも堪え切れずに欠伸をした時、ドアが開いて長袖シャツにジーンズの不動が出迎えた。
「よく来れたなァ」
「ああ、おれも自力で着けるとは思ってなかった」
 鬼道の穿いているジーンズを見て一瞬止まった。すぐに我に返り体を引いて、中へ入れと促す不動の横を通る。
「トイレー」
「トイレこっち」
 不動が宗一朗を案内している間、ジャケットを脱いでダイニングの窓から広場を見下ろした。
 不動が来るのが足音で分かる。近年履くようになった、締め付けのゆるいルームシューズがフローリングに擦れて軋む彼の体重の音。
「すまないな。朝食」
 振り向くと、不動は近付いて来て、手を伸ばせば触れる位置で立ち止まった。
「いいって。別に。そんなことよりさ、オレ――」
 不動の目がこちらを見る。窓からの朝の陽光を受けて、きらきらと輝いていた。先を待っている間に、宗一朗が戻ってきた。
「――ちょい来て」
「どうした?」
「ソー、ごはん蒸らしてるからその間ちょっとゲームでもしてろ」
 目をぱちくりさせる宗一朗に困ったよとでも言いたげな顔を向け、不動について行く。ドアの無い寝室へ入ると、不動は何かを探していた。それはすぐに見つかったらしく、不動は立ったままの鬼道に近付いてバツの悪そうな表情を浮かべる。
「手ぇ出して」
 言われた通りにすると、手のひらに小さくて軽いものが乗せられた。
「これは……」
 小さな、水色のジグソーパズルのピース。
「お前の部屋のやつ。オレがずっと持ってたんだ、悪い」
 そう言われて、記憶が蘇った。どこを探しても出てこなかった最後の一つが、まさかこんなところにあろうとは思いもよらない。
「ずっとって……何でお前が持ってるんだ?」
 混乱する思考を何とか抑えながら、鬼道は尋ねた。
「ああ……、廊下に落ちてたのを拾ったんだよ」
「いつの話だ?」
 記憶と記憶の断片を繋ぎ合わせる。不動は分かりやすいように年数を答えた。
「クリスマスにさ、パーティーに呼んでくれたろ」
「ずっと持っていたと言うのか?」
 珍しく、不動は照れ笑いをした。
「まあな」
「なぜお前がおれの部屋のパズルを知っているんだ? あの時入ったのか?」
 廊下で見かけた義父が難しい表情をしていたのを思い出した。
「いや。こないだお前んちに行った時にチラッと見たんだよ」
 次から次へと記憶と思考が繋がり、疑問が湧き出てくる。
「いつだ?」
 それらがすべて完全につながって理解するまで引き下がらないことをよく知っている不動は、苦笑交じりに答えた。
「こないだ――準決勝の前。親父さんに、ディナーとやらに呼ばれてさ」
「父さんが、お前を……? 聞いていないぞ」
 不動は「知らねーよ」と言うように両手を広げて見せた。
「とにかく、もういいだろ。返して謝ったんだから。お前はヨーロッパ一の天才司令塔として華々しく復帰したんだし、これで全部スッキリするだろ」
 そのまま向こうへ戻ろうとしたので、服の裾を引っ張って止める。
「待て。なぜこんなことになったんだ? どういうつもりだ」
 怒っているのではなく、訳が分からなくて混乱している鬼道は、狼狽を含む低い静かな声で尋ねた。
 廊下から、ダイニングテーブルでゲームを満喫する宗一朗の小さな背を見やり、部屋の中へ戻る。不動は観念したかのように、ゆっくりと深く息を吐いた。
「ずっと、お前にだけは負けたくねえって思ってた。これ拾ったのはたまたまだったし、返そうと思えばすぐ返せたけど、何かで困らせてやりたくてさ。それに、返しちゃったら、お前と何にも無くなる気がして……まあ、バカだったんだよ。それは認める。んで、それ認めた時にはお前はイタリア入りしちゃってたし、オレも忙しかったし、この辺は言い訳になるけど、なんだかんだ返しそびれて、今に至るわけ」
 壁に寄りかかり腕を組む不動は、自嘲気味に笑っている。
「よく考えたらオレは、誰にも負けたくねえわけだ。で、思った。お前にだけ固執するのは別の理由だって」
「別の理由……とは、なんだ?」
 さすがにもう、不動の言わんとしていることは分かっていた。御託を並べる前にハッキリと言えと思いつつ、いつになく饒舌な不動の口から出てくる言葉をもっと聞いていたくて、話を続けさせるよう操作する。
 自分がどんな顔をして立っているかも分からなくなって、まるで夢の中のように、地に足が着いていない感じがした。
「他の奴らだって、スゴイ奴はいっぱいいるだろ。真似したりとか、血眼になって競争したくもなる。でもお前に感じるのは、ただ負けたくねぇってだけじゃない。同じとこに立って、同じものを見たいのは、同じように感じて同じように知りたいからだ」
「それはおれに勝ちたいからじゃないのか?」
「だからそういうんじゃ……お前に勝っても意味ねーよ。なんつーかな、良いとこ見せたいっつったらバカっぽいけど……守りたいってのも、お前はお姫様じゃねーし。そもそもお節介は嫌いだろ。だから、ああ――うまく言えねえけど、そんな感じ」
 不動は己の首を撫でて苦笑する。
「――よく、分からんな。何が言いたい?」
 何でもないような声を頑張って絞りだすと、不動はやっと気付いたかのようにやや静止してから動揺したらしかった。
「お前な、昨日あんだけ……分かってんだろ?」
 尻切れトンボになる理由に、ゆるみそうになる唇を噛んで、鬼道は無理やり顔をしかめる。
「お前からは何も言わないのに、分かるわけないだろう。人間だけが――」
「言葉を使うんだ。だろ?」
 不動は顔を撫で、大きく息を吐いて鬼道の目の前まで足を進めた。サングラスを外されて、見たままの世界に彼の深い青緑の目が映る。
「愛してる」
 その唇は誰か別人のような気がしたし、見つめた先で照れ臭そうに微笑む顔も知らなかった気がしてくる。かつて敵対し、顔を合わせれば人の癇に障る言葉しか投げてこなかったような男がこんな表情をするまでになり、そしてそれは自分の影響だと言う。
 もっと、簡単な行程だと思っていた。告白なんてしてもしなくても同じだと、「好きだ」と言うくらいいつでもできると、思っていた。しかし今、胸に彫るようなしっかりとした発音で人生で初めての特別な言葉を紡いだ声に包まれ、視界が滲むのを止められないでいる。
「ああ。おれもだ……。おれも、愛している……」
「あ……おい、泣くなよ……」
 照れ隠しなのか、わざとらしく慌てながら笑う不動に抱きついて、両腕に思い切り力を込める。込めようと思わなくてもそうなった。
「また、目から汗かぁ?」
 肩に顎を預けたまま吹き出して、気が楽になった。
「いや、これはきっと、涙というものだ」
 腕をゆるめて、指先で目を拭うと、不動の顔がよく見えた。小さく鼻を啜って、戯れのようなキスをした。
 しみじみと落ち着いて、鬼道は手のひらの中のピースを眺める。
「まさか、お前がずっと持っていたとはな……」
「それをはめたら、あのでかいのが完成するわけだ。楽しみだねェ」
「どこがだ。擦りきれているし、色も褪せて……ボロボロじゃないか」
 また潤みかけた目を忌々しく拭う手を止めて、不動はティッシュを渡す。
「悪かったよ……これでも大事にしまっといたんだぜ」
 抱き寄せようかと伸びてくる手を避けて鼻をかみ睨み付けると、不動は肩を竦めたあと笑った。
「これから、どうすんの?」
「父さんに報告しなくてはいけないし、一度帰国だな。計画があってイタリアにしばらくいることになりそうだが、その前に」
「ワールドカップ、だな」
 目線を交わし、不敵に笑む。実るまでに費やした時間と、それまでに起こった様々な事が、いま二人を結びつけているのだと無意識のうちに理解した。
「ねえ、おなかすいた」
 宗一朗が戸口に立っていることに気付くのが遅れ、実を言うと飛び上がるほど驚いた。
「ゴメンねぇ、宗一朗クン」
 不動がキッチンへ戻りがてら宗一朗を連れて行く。
「なにそれ、キモいよ。ソーでいいよ」
「わけわかんねえ奴だな……。最初は嫌がってたくせに」
 意地悪な言い方をする不動に小さく蹴りが入ったが、彼は「いてぇ」と言って避けなかった。
「どうしたの?」
 そんな様子を眺めながら後ろからついていく鬼道に振り向いて近付き、おふざけモードは一転、心配そうに顔を覗きこんでくる。鬼道は微笑んで、七歳のやわらかい髪を撫でた。
「大丈夫だ」
「目から汗が出ただけだよ」
 先に行ったはずの不動が大きな声で言う。
「目から汗が出るの!?」
「出ない」
 間違った知識が植え付けられる前に、本当のことを言った。
「ちょっと、嬉しいことがあったんだ。悲しいときに人は泣くが、嬉しくても涙は出るんだぞ」
「ふーん?」
「笑いすぎても、涙が出るだろう?」
「うーん……、うん」
 出会った頃は人形のようだったこの少年がその例えを実感して知っていることに深い感慨を覚えながら、鬼道はサングラスをたたんでケースにしまった。小さなキッチンとダイニングには窓から朝日が差し込んでいて、寒々しいこの国も今は電気をつけなくても充分に明るい。
「いつまでここにいるの? フィオ兄とサッカーしたい!」
 不動は鉄鍋の飯を天地返ししながら応じる。
「フィディオは帰ったんじゃねぇの」
「帰んないって言ったもん! ファミリアだから」
「ファミリア?」
「家族って意味だよ」
「イヤ、知ってっけどさ……」
 飯を盛った茶碗を渡し、不動は苦笑した。宗一朗は不動の横にくっついて、次々と食事の準備をする手元を見ながら言う。
「あのね。フィオ兄が言ってたよ、パパとママは何人いてもいいんだって」
 聞いていた鬼道は箸を並べながら、思わず微笑んだ。
「そうか、良かったな」
 味噌汁をよそって椀を鬼道に渡す不動が、まるで興味なさそうに言う。
「あきおもママになってくれる?」
 おたまを持ったまま、その手が止まった。
「はあ? なんでオレがママなんだよ」
「だって、ごはん作ってるし……」
 準備が整って、宗一朗の肩を掴んでくるりと向きを変えさせ、そのままキッチンからダイニングへ回り込んで向かう。
「どっからどう見たってオレはパパだろ」
「じゃあ、パパでもいいよ!」
「じゃあ、って何だよ。じゃあ、って……」
 宗一朗が座るのを見ながら鬼道は腰を下ろす。コの字に並んだ三人が囲む大きくはない一般的なダイニングテーブルが、特別なものに思えた。
「いただきます」
 箸を持って食べ始めた宗一朗に、不動が言う。
「いいか? ペンギンはオスが卵を温めて、その間メスは海に行っちまうんだぜ」
「そうなの?」
「ああ。パパに聞いてみな。オレより詳しいから」
 鬼道は、まさか自分が十年以上前にした話を不動が覚えているとは思わず、驚愕していた。
「そうなの?」
 宗一朗が味噌汁より優先して聞いてくる。
「あ、ああ……ペンギンはオスとメスが交替で子育てをするが、一番過酷な吹雪の中で卵を守って温めるのはオスの皇帝ペンギンだ。ただし、メスは理由があって海に出ているのであって……」
 自分のことのように知っているはずなのに、言葉がうまく繋がらない。
「食事中だからな、後でゆっくり説明してやる」
 だからもう黙って食えと言いたかったのだが、生憎七歳にそこまでは伝わらない。
「ねえ、あきお」
 不動は返事の代わりに、肘で宗一朗の肩を軽く小突く。
「目上の人は呼び捨てすんじゃねぇって言ってんだろ」
「じゃあお兄ちゃん、水ちょうだい」
「ったく……」
 席を立ってコップを取りに行く不動に、宗一朗が呟く。
「お兄ちゃん、だと六文字もある……」
「つうか、なんで下で呼ぶんだよ?」
 彼にしてみれば、鬼道は学生時代の名残でいつまでも名字で呼んでいるし、大方フィディオだろうが、誰から移ったのか気になったのだろう。しかし宗一朗は、そう言えばといった顔で鬼道を見上げて言った。
「なんであきおって呼ばないの?」
「えっ」
 まさか自分に話が振られると思わず返答に困った鬼道の代わりに、面白そうに見ていた不動が答える。
「話をすり替えんなよ。とにかく、呼び捨てはだめ。オレもフィディオみたいに呼べばいいじゃん、フィオ兄だっけ?」
 宗一朗はもらった水を飲みながら考えている。
「じゃあ、あきお兄? きお兄?」
「うんうん、そんなんでいいよ」
「じゃあ、きおパパ。パパは、ゆうパパ」
 席に座ろうとしていた不動は一瞬止まったが、すぐに優しく微笑んだ。
「言いづらくね?」
「だって、パパだけだとどっちのことか分かんないじゃん」
「ああ、うん……ソーがよけりゃ、それでいいぜ」
「うん」
 すっきりして嬉しそうな宗一朗と、それを眺める不動の表情があたたかくて、鬼道は言い様のない安心感に包まれた。
 人は出会い、熱を上げ、深まって、休む。そしてまた、春が来る。

















7年後――――


 玄関のドアが開く音を聞いて、宗一朗は飛ぶようにして出迎えに行った。
「おかえりなっさい!」
「ただいま」
 三十も半ば、数々の歴戦をくぐり抜けしっかりと鍛えられた胴に両手を回して抱きつく。受け止めた手が頭を軽く撫でてくれたら、出張から帰ってきた時のいつものプロセスは終了だ。
 宗一朗はスーツケースを寝室まで運ぶ。後ろから書類鞄と歩き途中で脱いだジャケットを持った鬼道が続く。アイランド型のキッチンの横を通った時、スープをかき混ぜながら不動が言った。
「おう、おかえり」
「ただいま」
 微笑を含む目線を交わすだけで、彼らはしっかりと心を通わせる。シンクロした時の力は計り知れない。
 宗一朗は嬉しくなって、足取り軽くスーツケースを置きに行った。
「ねえねえ、さっきニュースでね、ペンギンのオスのつがいが卵を孵したってやってたよ!」
 仕事を終えた宗一朗は、ちょうど寝室に入ってきた鬼道に言う荷物を置きシャツのボタンを外しながら、感嘆に声をあげた。
「へえ、すごいな。どこの国だ?」
「デンマークだよ! あとで動画見てよ、ちゃんと餌もあげててね、交替で面倒を見てるんだって」
「そうか」
 言葉が少ないだけでちゃんと聞いてくれているし、後で動画も見るだろうことを知っている宗一朗は、嬉しくてたまらないといった様子で、スラックスからカーゴパンツに履き替え手と顔を洗いに行く鬼道について行った。
「パパたちみたいだよね! ちょっと違うけど」
「ん?」
 振り向いた鬼道に、宗一朗はこの数時間ずっと言いたかったことが言えて、満足そうな笑顔を見せた。
「助け合って生きてるでしょ?」
「――そうだな」
 鬼道は微笑み、キッチンへ行った。通りすがり、宗一朗の頭に手を置いた。水を汲んで飲む、隣で不動がパスタを茹でている。
「どうだったよ」
「ああ、順調だ。来月には着工できる。昨日は豪炎寺も来て、最終の打ち合わせをした。国境も学歴も問わないサッカー専門学校だからな、万全を期しておかねば」
「わざわざイギリスに集まったの?」
「もうこの時期までくると、現場でないとできない話になるからな」
 不動は納得と感心が混ざったように小さく頷く。
「ふーん。……あ、ソーのママから電話あったぜ」
「何だって?」
「就職できて、三ヶ月続いてるってさ。スーパーのレジ」
「へえ……そうか」
 宗一朗がダイニングテーブルに肘をついて、椅子に座る。その顔を見て、鬼道が言った。
「宗がキャンプから帰ったら、二週間くらい帰国しようか」
「いいけど、なんでそんな長ぇの?」
 宗一朗の顔が、おもちゃを目の前に出された犬のようで、思わず目を細める。
「宗のお母さんに会いに行こう。それから、おれは温泉に入りたい」
「やったー!」
 喜びいさんで手伝いに来た宗一朗にスープの入ったカフェオレボウルを渡し、怪訝な顔をしていた不動は、鬼道の思惑に気付いて声をあげた。
「あっ! ……待て待て待て、その手には乗らねーぞ。温泉なんかそこらじゅうにあんじゃねーか」
「なに? なんで? 温泉行きたい!」
 見えないところで行われている大人の駆け引きが分からない宗一朗は、うまく事が運ぶようにと考える。
 鬼道は黙ったまま、宗一朗の隣に腰かけた。だがその顔はどこか、作戦がうまく行った時に見せるものと似ている。
「わぁーったよ……」
 何かを諦めたような不動は、パスタの皿を三つ置いてため息を吐いた。
「ねえ、ママにFFIでイタリア代表のキャプテンなんだよって言ったら、どのくらい驚くかな?」
 宗一朗はフォークを並べながら言う。鬼道がサラダを取り分けながら答えた。
「そりゃ、すごく驚くだろうな」
 不動が座り、四角いテーブルを三人で囲む。白い町にあるこの家を借りてから五年、三人ともあちこち行くことが多いのだが、こうして食事の時間を合わせ、揃って食べることの美味しさを噛みしめる。







 リビングに置かれている大きなソファに、かつてW司令塔と呼ばれ世界を賑わせた二人の男が、ゆったりと並んでいた。彼らの間には数センチの自然な距離が空いたままだが、やわらかく和んだ空気が満ちている。
 鬼道は膝にノートパソコンを乗せ、不動は日本のミステリー小説本を読んでいた。こうして静かに寄り添っていることが、彼らにとって最上の幸福なときだと宗一朗は知っている。
「ねえねえ、これ何?」
 鬼道の斜め前の床に、ラグの上に座り、壁に掛けられた大きなパズルを指す。鬼道は顔を上げ、微笑んだ。パズルが届いたのは知っていたし、ここに掛けたこともすぐに分かっただろう、そしてそれについて尋ねられることも予測していただろう。
「5000ピースのジグソーパズルだ。おれが宗くらいの時に、父さんに貰ったんだ」
 根掘り葉掘り尋ねるなら、今が絶好のチャンスだ。
「なんで一個だけ古っぽいの?」
 不動が目を光らせ、それを見たが、鬼道が自分を見ているので気付かないふりをする。
「よく気付いたな。これを作った時失くしてしまって、探しても探しても出てこなかったんだ」
 パズルを眺め、鬼道は懐かしそうに言う。
「取り寄せることもできたが、どうもズルをする気がしてな。気がついたら十年経っていた」
「ええっ? どこにあったの?」
「――一番近くにあったんだ」
 灯台もと暗し、というやつだな。と付け加えて、目を細める。その顔がとても穏やかな表情で、ずっと探していたと言うわりには苦労したように見えなかった。
「きおパパがバカだったせい?」
「なんだ、こいつにも聞いたのか」
 不動が宗一朗を睨んだが、何のことか分からないと言うような顔をしておいた。実際、分からないのは嘘ではない。
 鬼道はノートパソコンを閉じて目の前のローテーブルに置き、ソファに背を預け足を組んだ。ふっと笑みがこぼれる。
「そうだな。明王は、ある面に於いては世界一のバカだが、そのバカのために人生を百八十度変えた奴もいる。そっちのほうが、よっぽどバカだと思うぞ」
 鬼道の口から一辺に三回も単純で退屈な単語を聞いたのは、この時が最初で最後だった。しかもその語句は罵倒であるはずなのに、声は深い愛情がこもっているのを感じて、困惑する。不動を見ると、困ったように笑っていた。
 それは誰のことなのか、パズルと何の関係があるのか聞こうとしたが、答えてくれない気がしてやめておいた。
「僕も5000ピースやってみたい! 失くさないから」
 不動が座り直して空けた二人の間にすっぽり収まり、宗一朗は壁に掛けられた大きなパズルを見つめる。
「よし。今度、買いに行こう。――大変だぞ」
 何の仕返しか、不動に肘で脇腹を小突かれる。負けじとやり返しておいたが、鬼道にたしなめられない範囲に留めておいた。










おわり



2014/03



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