<5000ピースのジグソーパズル 9>







3023

秋晴れの下、イタリア国内のナンバーワンを決定するトーナメント戦コッパ・イタリアが開幕した。恒例の行事に国中が盛り上がっている。
白い流星率いるプレスタンテの初戦は二週間後だ。優勝すれば、ヨーロッパクラブチームによる国際大会の出場権を獲得できる。世界一までの階段を一段上がり、新たなステージへ立てるわけだ。
今回、不動が呼ばれたのもそのためだった。
「我々はこの栄光に相応しいチームだ。二十一人全員が有能な戦士であり、英雄になれる。調和こそが人間の至宝だ、忘れるな!」
監督の短いが効果的な喝に、気合の入った二十一人分の返事がグラウンドに響く。
ポジションへ散らばる仲間たちと視線を交わしながらベンチへ向かい、不動は興奮が台風のように渦になって増していくのを感じていた。







ポンッとワインを開ける音がして、振り向くとキッチンのカウンターでワインオープナーに刺さったコルクを抜きながらにやりと笑う鬼道とサングラス越しに目が合った。
「飲むか?」
練習のあと3部リーグの試合を観て、真っ直ぐに帰ってきたのはこのとっておきのワインを開けるためだったのかと、返事代わりに笑い返す。
深い赤紫の液体が揺れるグラスを受取り、鬼道がボトルをテーブルに置くまで待つ。
黙ってグラスをぶつけると、薄いガラス特有の、拡がるような華やかな音が響いた。
「座れよ」
立ったまま一口飲み、キッチンの方へ戻ろうとする鬼道に、隣を空けて座り直しながら言うと、彼はオリーブを盛った小皿を持って戻ってきた。
「やっと本番って感じだな」
テレビをつけると、ワールドニュースが映った。
「そうだな。これからが正念場だ」
チャンネルを回すが、バラエティやドラマは見る気がしない。サッカー中継も、大して面白みのなさそうな試合だ。どんなにくだらなそうなことでも何かしら発見はあると鬼道は言うが、当の本人は今はそれどころではないらしい。
「ここまで来れただけでも、おれにとっては価値のあることだ。父さんも誇りに思ってくれるだろう」
結局一周して戻ってきたニュースでは、国民が待望していたシーズンが開幕したこと、プレスタンテにどれだけ期待がかかっているかということなどを、アナウンサーが熱く語っていた。
こういう時に使う父とは、実の父を思っていることが多いと分かってきた不動は、さりげない風を装っているがそうではないと見てとれる鬼道を眺める。
「だが、勝たなければ意味はない。人間として、一人の選手として、歴史に残る試合にしたい」
不動は顔をしかめ、彼のサングラスをそっと奪った。目が合う前に、笑みを浮かべておく。
「オレは負けてもいいぜ。負けたって、歴史に残るスゲー試合にすることはできる」
赤い目が怪訝そうに見つめ返した。
「負けたら国際大会へ行けないだろう。レンタルだからそんな無責任なことが言えるんじゃないのか?」
「ちげーよ。誰かさんが勝たなければ勝たなければってテンパってっから、逆のこと言いたくなったの」
サングラスを丁寧に畳んで、テーブルへ置く。鬼道はそのままにさせておいた。
「うちと違って、お前の親父は見守ってくれてんだろうよ」
ぐいっと空けたグラスに注ぐため、ボトルに手を伸ばす。
「不動の親父さんは、どんな人なんだ?」
「生きてっけどロクな奴じゃねェよ。オレ見りゃ分かるだろ」
今まではこれで話を終わらせていたのだが、鬼道はなおも食い下がる。それがまたわざとらしくなく、絶妙で、つい許してしまう。
「分からんな。それに、誰にでも長所と短所がある。おれの両親だって、しょっちゅう喧嘩していたぞ」
赤い目を細めて楽しそうに言うのは意図的になのか、しかし今日は朝から上がりっぱなしのテンションのせいもあり、何か作戦があっても乗ってやろうという気になっていた。
「お前んトコは仲良しの喧嘩だろ。うちは喧嘩もしなくなってたぜ。親父がリストラされて、ハデにギャースカやって、それっきり。シーン」
湿っぽい話も、今なら気分は落ちない。ワインを口へ注ぐついでに鬼道の表情をうかがうと、体をずらしてすっかり聞く体勢になっている。
(やっぱり、ハメられたな)
内心で苦笑しながら飲みかけのグラスをテーブルに置いて、頭の後ろで手を組んだ。
「若いころは板前目指してて、でも金が無ぇから会社で働きながら色々修行したらしいんだ。オレが生まれても、おふくろは頑張れって、一人でオレのこと育ててさ。今思えばそういう無理も悪かったね」
饒舌になる自分は想像できなかったが、呆気無く現実になっている。
「愛媛に転勤することになって修行もできなくなって、あっという間に三年後」
首を切る真似をした。
「最初から愛媛にいたんじゃなかったのか」
「うん、そう。生まれは東京。親もそう。訛ってねェだろ?」
「ああ。お前のことだから、直したのかと思っていた」
「ちげーよ」
軽く笑い、体を起こして座り直す。
「料理は、親父さんからか」
「そう。でも意気地なしで、とっとと、死ぬ気で板前の修行すりゃよかったのに。ぐだぐだやってっから、ああなるんだよ」
ソファにもたれ、鬼道の長い指がワイングラスを置くのを眺める。
「おふくろも親父に愛想尽かしてたけど、あれはおふくろも悪いね。お前みたいな奴に言いたくねェけど、オレはこれっぽっちも親がいて良かったなんて思ったことねェんだよ」
さすがにどうなのかと思ったが、鬼道は怒ったり悲しんだりするどころか、少し笑みを浮かべさえした。
「だからか」
鬼道はソファにもたれ、身を沈める。
「何が?」
彼の頭の上から覗き込むと、睫毛がよく見えた。
「おれに無いものを持っているんだ、お前は」
急に、この静かな場所にひっそりと建つ広い家で一箇所に身を寄せあっていることが、異常なことのように思えてくる。
伸ばせばすぐに触れる位置に、お互いの手があった。
「そりゃ、このちっぽけな星の七十億人全員、お前と違うからなァ」
もう一杯飲んだら、部屋へ引き上げよう。妙な気を起こす前にとっとと風呂へ入って寝てしまおう。
だが、鬼道が少し笑って言うので、まだ動かないでいる。
「そうか、言い直そう」
その目が不動を、目の前で見つめた。
「おれが欲しいものを持っているんだ」
なぜキスをしたのか、答えはない。そんな問い自体が馬鹿らしい。
それよりも、唇を重ねるだけで心臓が破裂しそうになるとは思わなかった。高校生の時に初めてしたキスとはまるで違う。
口を開かなかったのはワインやオリーブの臭いなんて理由ではなくて、呼吸を忘れる程陶酔してしまったからだが、それに気付いて一回目でやめておく理性はまだ残っていた。
「寝るわ」
声が明るく自然な感じで聞こえたことを願い、気だるげにソファから立ち上がって、部屋へ向かう。鬼道は喉の奥で返事をしただけで、しばらくそのままソファにいた。動揺を処理しようとしているのか、ちょっとした間違いに気を遣ってくれているのかは、分からなかった。ゆっくり歩いたし、グラスをキッチンへ置いたから、逃げたようには見えなかったはずだ。






459

雷門との練習試合を楽しみにしていた理由は、桁違いの強いチームと戦えるからというだけだろうか。
同じポジション、同じ学年で、体格、身長もほぼ変わらない。だが決定的に違うのは、脳の使い方だ。
天才ゲームメーカーと謳われ一年半に渡って無敗の帝国学園を率いてきた唯一無二のリーダーは、冷静な状況把握能力に長け、帝王学の賜物か、適材適所に選手を配置することに卓越した才能を発揮していた。
(嫉妬なんかしたってしょうがねぇんだ。オレにはオレのやり方がある)
全員が集まってもまだ他愛無い話で盛り上がっていて、なかなか帰る様子を見せない帝国メンバーに呆れ、この間見たプレミアリーグの中継やら新しいシューズやらテレビゲームやトレーディングカードの話題を眺めながら、校門の壁にもたれかかる。
中心にいる彼は、久しぶりに見た。FFIから二ヶ月、イナズマジャパンの一員になったのは自分のためだ。
「今日はみんな、すごかったな!」
輪を抜けだしてきたのか、風丸が隣へやって来た。前髪で隠した片目が不安感を煽るこの俊足DFは、青い長髪を高い位置で結い、風になびかせている。
しかし今はテンションも高く、先ほどの引き分けに自分がどう関わっていたかを思い起こすのに必死なようだ。
「鬼道とやりあえるなんて、お前くらいだよ」
不動は風丸に、どこか自分と近いものを感じていた。
「FFIの時から思ってたけどさ、お前らが揃ってれば二騎当千、向かうところ敵なしって感じだもんな」
「なんだよ、二騎当千って」
壁山がまた何かボケたのだろう、視線の先では数人が彼を囲み大笑いしている。その隣で豪炎寺と鬼道、佐久間、源田、染岡が固まって談笑している。
「ライバルがいるっていいよな」
鬼道が携帯電話を取り出したのを見ていたが、風丸の寂しげな声が気になって視線を隣へ移した。
「好敵手とか。切磋琢磨しあえる相手っていうかさ」
また向こうの方で笑い声が上がっている。
「陸上の時は先輩が憧れだったけど。今は……」
「別に……大人でも何でもいいじゃねェか。そういうのって一方的なアレだろ。それに、オレはあいつのことライバルとは思ってないぜ」
風丸が、大した自信だなと言うのを後ろに流し、不動は歩き出していた。けちなプライドを振り回しているだけで、まだ何も分かっていなかった。






2218

騒ぎに騒いで一晩泊まり、イタリア人たちは帰る前、本来の目的である監督への挨拶をしに練習場へ来た。
誰も居ない観客席に腰を下ろしていた不動の隣に、鬼道がやって来て立つ。静かなフィールドを二人で眺めた。
「決勝が楽しみだ」
しばらく沈黙したのち、鬼道はゆっくりと出ていった。
お互いに待っていた。再び、敵同士で渡り合える日を。






1674

やはり、どうにも気になる。
学校で寝ているのは夜中じゅうバイトしているためだが、それなら授業が終わった後は部室に顔も出さず一体何をやっているというのか?いくら決勝戦でベンチだったからとはいえ、あんな怪我をいつまでも引きずるような奴ではないはずだ。
チームがもつれ始め、このままではだめだと思った鬼道は、尾行することに決めた。
佐久間に休みを伝え、不動の後を追う。
こういう時に運転手を呼んで車を用意させる自分が卑怯に思えたが、チームのためと言い聞かせて自転車を見失わないよう目を凝らした。
小雨が降っているのに、公園の大きな広場に設置されたグラウンドでは、小学生たちがサッカーの練習をしている。不動は入り口に自転車を置いて、彼らの中へ入っていった。
車を待たせ、鬼道は降りる。傘を出すからと止める声が運転席から聞こえたので、必要ないと言っておいた。
「いいか、お前ら! 雨だからってナメてんじゃねーぞォ!」
監督ばりに声を張り上げて、屋根のないベンチの前に腕組みして立っている。なかなか動かない子供たちに疑問を感じた不動は、やっと振り向いて原因を知った。
「てめえ……なんでココにいんだよ? 練習はどうした?」
「それはこちらの台詞だ」
さらに口を開きかけた不動は、その一言と状況と鬼道の表情で、全てを理解したようだった。苦い表情を細かい滴が濡らしていく。
「うわっ、鬼道だ!」
「すげえ!」
控えめに上がる歓声に、見れば小さな目が沢山輝いている。
「ああ、見学に来たぞ」
監督もどきに睨まれて散らばっていく彼らは、きちんとポジションにつく。まるで、ややミニチュアサイズになったサッカーを見ている気分だ。
不動は腕組みしたまま、真剣に彼らの動きを見ている。かと思えば、ホイッスルを吹いてファウルを指摘した。監督、審判、トレーナー、全てを一人で兼任しているのだ。







日が沈み子供たちが帰った後まだ薄明るい空の下で、不動はボールを蹴ってよこした。雨は降り続いていて、むしろ強くなっている。
「あの時も、雨が降っていたな」
「いつ?」
それをまた蹴り返す。
「ライオコット島に着いたばかりの頃だ」
ボールを受け止め、不動は「ああ」と笑う。
「お前がしつこいから、ドリブルで勝負するはずが、いつの間にか夢中になっていた」
「泥まみれで帰って、木野と音無にスゲー怒られたよな」
笑って答える。
不動は軽くリフティングしていたが、おもむろに足を止めて鬼道を見つめた。
直後、ボールを蹴って走りだす。瞬時に方向を読み取った鬼道はカットしようと足を出し、股抜きを試みる不動の動きを予測して、先を読む。
フェイントを見抜いてボールを奪うと、今度は鬼道がフェイントを仕掛け不動が隙をうかがう。不動がボールを奪い返した時、公園の照明がついた。
「やべ、もう行かねェと」
そう言って、不動は入り口へ走っていく。ずっとこのままここに立っていたかった、不動が戻るまでこのボールと一緒にここで待っていたかったが、制服が濡れ て風邪を引きそうだ。溜息と共に未練を吐き、鬼道は歩き出した。ひと気の無くなった公園には、泥だらけのボールだけが残された。






3031

冷蔵庫を閉める音がやけに強く響いた。
「おい、もっと静かに閉めろ」
「あ? わりィ」
炭酸水を開ける音も、部屋へ戻る引きずった足音も、いちいち耳に障る。集中できなくなって、バインダーと目を閉じ、ソファにもたれた。
「足で閉めるからだ」
「なに?」
独り言のつもりだったのに聞こえてしまったらしい、不動が数歩、廊下から戻ってくるのが音と気配で分かる。
「足で閉めるからいけないんだ。大体、ちょっと器用だからって足グセが悪すぎる。ケガでもしたらどうするんだ」
何か飲もうと立ち上がり、キッチンへ向かう。腰に手を当てて立っている不動の前を通ると、肩をすくめるのが目に入った。
「別に……平気だろ」
「平気じゃない! どうしてお前はいつもそうなんだ……!」
半ば怒鳴るようにして掴みかかろうとした顔が、冷静に自分を見つめていることに気付く。
戸惑いと恥じらいのうちに、鬼道は口を閉じて手を引っ込めた。
「……鬼道クンてさあ、思いつめたりすると関係ないときに爆発するよな」
穏やかな声が、雨が山火事を消すように鎮めていく。
「何に悩んでんのかは知らねェけどさ、もうちょっと自覚したほうがいいぜ。オレにぶつけんのはいいけど、他の奴は知らねェぞ」
「ああ……」
「ったく。どーせ、何に悩んでんのかも自分で分かってねェんだろ? 佐久間とかに電話すれば?」
「……そうだな」
頷くのを見ると、ふうと小さく息を吐いて不動は背を向ける。ふと疑問に思い至り、彼が部屋へ戻る前にと焦って振り向く。
「よく分かったな」
立ち止まった不動は呆れ顔で少し笑った。
「ずっと見てきて分かんねェ奴なんかいないと思うぜ」
彼にとってはそれだけ鬼道が分かりやすい性質だと言いたかったのだろうが、別の、もっと限定的な意味にも聞こえた。
そして何より、他の誰かと同じようにでも、ずっと見てきてくれていたという事実が貴重だった。






1165

何が起こったというわけでもないのに、対象となる人物が視界の端にいるだけで無性に苛立つ時が、人間にはある。
「どうした? 怖い顔して」
佐久間がにこやかに声をかけるが、いま口を開けば汚い言葉さえ使ってしまいそうだ。
事の発端はもちろんある。昨日、練習が終わってから選手のポジション移動をするしないで意見が食い違い、果ては人格に至るまで激しく言い争ったのだ。
佐久間の知らぬ所で、それは続行中と言ってよかった。
「不動と意見が食い違った。どうしたら完膚無きまでに叩きのめすことができるか考えている」
「意見って?」
「昨日の練習だ。寺門がちょっと足を傷めただろう。それで辺見をFWへ入れたが、奴は辺見を右サイドに入れてFWは減ったままでいいと言う」
「……不動にも考えがあるんだろ?」
声が大きいような気がして不動を探したが、昼休み中の教室には見当たらず、少し安堵した。
「あいつはあまり考えない。とにかくおれと違うことをしたいだけなんだ」
ゲームメイクだけではなく、事ある毎にそういった傾向が見られる。スパイクを買い換えたりタオルの色を変えたり、それだけなら大して気にしないのだが、変 えたり移したりする度に「鬼道クンがこうするなら~」とか「鬼道クンはこうだから~」などと自分の名前を出されては堪らない。
どう切り返せば相手により深くダメージを与えられるかということに没頭していると、まだ側にいた佐久間が言った。彼は、どうせまたすぐに収まるいがみ合いだと言わんばかりである。
「確かに、あいつは直感タイプかもな。それがよく当たるからスゴイんだよな。鬼道とバランス取っててさ」
ノー天気な台詞にカチンときた鬼道が反論しようとして口を開きかけた時、いつの間に戻ったのか後ろから不動がやってきた。
「なに、オレの話?」
「言っとくけど、褒めてないからな」
楽しそうな二人のやりとりに、鬼道は黙って席を立つ。
「シカトかよ」
とうとう堪忍袋の緒が切れ、勢いよく振り向きざまにつかみかかった鬼道を見て、不動は笑みを浮かべる。
「調子に乗るな、一人では何もできないクズが。お前なんか一生、二流のままだ」
突き放すようにして手を離し、シーンと静まりかえった教室を早足で出ていく。階段で不動が追ってきたことを足音で知り、走ったがしつこくついてくる。
校舎を出て体育館を抜け、校庭を横切って、テニスコートへ着いた頃、さすがに息が切れた。
よくついて来れたものだ、不動はすぐ後ろで、荒い呼吸を繰り返している。
「ざけんなよ……他人の苦労も知らねェで、よくキャプテンが、務まるよな? いっつもいっつも鬼道と比べられるオレの気持ちが分かるか? オレだけのものを暗中模索する大変さが? 同じチームに司令塔は一人でいいんだよ! 最高の作品なんか、クソくらえってんだ!」
いつもニヤニヤと薄笑いを浮かべ、余裕を見せている不動が、今は焦燥と憤怒に真剣な表情を見せていた。怒りに満ち震える目に強く睨まれ、鬼道はその表情や気迫に見とれていることに気付いた。
「オレだけのもの、か……。だから不動はいつも、おれが道を見失っていると正しいところへ戻してくれることができるんだな」
急に穏やかになった声に、彼は面食らっていた。
「は……はァ? お前のためにやってんじゃねーよ!」
眉間にシワを寄せ、額の汗を袖で拭いながら答える不動の肩が少し下がるのを見て、僅かに微笑む。
「ああ、分かっている。お前は自分の利益になることしかしない。だが、結果的にそれが周りの人のためにもなっている。なぜなら正しいことだからだ」
「はァ? 知らねーよそんなん。話を逸らすんじゃねえ」
「逸らしているつもりはない」
「じゃあ何なんだよ」
鬼道は先程まで自分の中にあった怒りや憎しみの類が、恐ろしいほど容易く裏返るのを感じた。まるでたった一手で盤面の色が変わるオセロのように。
「ポジションは変えて行こう。不動の言うことも一理ある」
くるりと背を向けて、来た道を戻る。立ち尽くしていたが、予鈴が鳴ったので黙ってついてくる不動からはもう敵意を感じなかったが、彼は自分の扱いと鬼道の態度に納得していないようだった。






3466

日本へ戻ってから数ヶ月。生活習慣というものは、変更が定着するまで少し時間がかかる。
ついこの間まで、家にいる間は仕事やその為の勉強、読書ばかりしている鬼道を見かねて、食事はほとんど不動が作ってくれていた。最初は断って、半ばフライ パンを奪うようにしてでも公平に分担しようとしていたのだが、出てくる料理が毎回唸る程旨いので、そのうち折れて任せてしまった。本人がそうさせたのだか ら、仕方ない。「お前、サッカーやめたほうがいいんじゃないのか?」と真面目な顔で、甘すぎず辛すぎない煮魚を箸でほぐしながら言ったことがあるが、不動 は「その手には乗らねーよ」と嬉しそうに笑っていた。
今はうっかり昼食を忘れていることや時間がなくて取れない時が少なからずあり、夜は帰りが遅くなると作る気も起きない。十年後を考えて今を生きろなんて、 とても言えた状態ではない。このままではよくないと気合を入れて包丁を手に取ると、今度は作りすぎてしまう。一人分の量を忘れているのだ。それでまた、溜 息が増えた。
仕事はとりあえず滞り無く進み、周囲ともうまくやれている。だが佐久間にはある程度のことを見抜かれているのだろう、「向こうで何かあったのか?」と心配されてしまった。
有能な右腕に誤魔化しは効かないと分かっている鬼道は、素直に認めるしかない。
「悪いな、今は話せない」
感謝の意を込めてすれ違いざま、肩に手を置き部屋を出た。後ろから優しい声がする。
「俺でよければ、いつでも力になるからな」
「ああ」
言葉で伝えなかったのは、感謝している反面、鬱陶しくもあったからだ。自分を守り、平気なように振る舞うので精一杯だということにさえ、鬼道は気付いていなかった。
洗濯物は少なくて済むし、家は散らかることなく、常に遠くで何かしら聞こえていたうるさい物音もしない。部屋は静かで広々としていて、ストレスのかかる要素は一切ない。
鬼道は諦めていた。一時の間だけでも思い出を作れた、あたたかい記憶だけで充分だと自分を納得させようとしていた。






3032

呼ばれたので顔を向けると、手振りでこっちへ来いと示し、また行ってしまった。不動はテレビをつけたまま、テーブルに書きかけのノートとボールペンを置いて、呼んだ主のいる廊下へ向かった。
「なに?」
「球が切れたんだ。手伝ってくれ」
抱えていた踏み台を置いた鬼道が、新品の電球を取りに行く間に乗っておく。
手伝ってくれと言ったのだからてっきり自分に頼みたいのだと思ったがそうではなかったらしく、切れた電球を外し始めている不動を見て、彼は少し慌てた。
「おれがやるんだったのに」
イタリア人は北欧ほど背が高い民族ではないが、ここの廊下の天井はそういうデザインなのか日本より高い。それなのに三段の踏み台しか無いらしく、天板に 乗って少しつま先立ちになっている不動の腰を、鬼道が僅かに支える。腰骨に添えられるようにされた手にはちょっと驚いたが、別にふざけているわけではなさ そうだ。
「何、その手」
「万が一、転ばないように、だ」
「とか言って、ケツ触りたいだけなんじゃねーの?」
耳元で振って切れているのを確認してから古い電球を渡し、新しい電球をもらう。腰から一旦離れた手が、右手から左手に変わった。
「お前、突き落としてやろうか」
「ケガしたら訴えてやる」
「確信犯め」
「慰謝料たんまりもらって、のんびり暮らすわ」
ふざけているうちに、電球が点った。
「ハイ、終わり」
自然に手が離れ、不動は踏み台を降りる。
「不動がのんびり暮らしているなんて、想像できないな」
「オレも」
廊下にはまだ笑い声が響いている。片付けを任せてリビングへ戻り、再びノートを開いた。






97

宇宙人騒動が落ち着いた後、源田と佐久間は後遺症もなく無事に退院することができた。
バラバラになった帝国サッカー部を再建し導くにはリーダーが必要だとも言われたが、鬼道は迷いつつも円堂や豪炎寺と共に雷門へ残った。
居心地が良かったことも理由の一つだが、まだ掴みきれていないものを追求したかったのだ。自分のサッカーは影山によって組み替えられてしまった。それを一から作り直していくにあたり、円堂の間接的な協力が必要だと思った。
「次は世界大会だな!」
すっかり調子が良くなり嬉しそうな源田に安心していると、佐久間が笑顔をやや曇らせて言った。
「あんまり関係ないと思うんだけど……、入院中、不動が来たらしいんだ」
「何!? また何かやらかしに来たのか?」
穏やかに言ったのに、一気に眉をひそめ声を荒げる鬼道をやんわりと両手で制し、佐久間は続ける。
「いや、それが、俺たちの容態を聞いてさっさと帰ったらしいんだ。受付のお姉さんが教えてくれてさ」
「あいつもエイリア石でおかしくなっていただけで、根はイイヤツなのかもしれないよな」
源田が続けたが、鬼道には二人の言っていることが理解できなかった。
「本気で言っているのか? お前たちを傷つけ、貶めたんだぞ!」
小暮にマントを結ばれても平然としていたが、不動の件はまた少し複雑だ。
源田と佐久間こそ被害者なのに、同情なのか妙に肩を持つような言動も気になった。しかし二人が裏切った理由を既に、文字通り痛い程分かっていたので、非難もこれ以上の言及もしなかった。
「まあ、もう会うこともないさ」
宥めるように言う佐久間に、鬼道は小さな息を吐いて頷く。
「ああ……どんな時も、油断してはならないがな」
あのような気違いのことは早いところ忘れるべきだが、またいつ何時、何が起こるか分からない。地元の寄せ集めチームを引き連れて、復讐に来たりする可能性だってある。だが、鬼道は心のどこかで、彼に個人的な憎しみを持っていることを分かっていた。
影山に選ばれるような能力があるとは思えない、モヒカン頭のイカれた奴。しかしあれでも肉体と魂を持った言葉の通じる人間なのだから、どこかに凡庸で慈悲深い面が少なからずあってもおかしくはない。ただ単に、認めたくないだけだった。






2160

漠然と、オレは孤独を感じていた。だが、だからといってそれが嫌だとか、悲しいわけではない。むしろ子供の頃から付き合ってきた分、飽きていたと言ったほうが近い。
父と母は他人のようになった。実際、最初から他人だったのだが。小学生の頃は、朝から夜まで二人とも働きに出かけ、不動は自分で鍵を開け誰もいない家へ学 校から帰った。あまりにも暇なので、近所の子供たちとサッカーや鬼ごっこをして、宿題を済ませ、夕飯は三人分を作り、家族の帰りを待つ。両親が帰ってくるだけまだマシなのだろう、しかし家の中では怒鳴り声が絶えず、うんざりして耳にティッシュを詰め、押入れで寝た。暗くて狭い秘密の隠れ家は快適で、自分だ け別世界にいるような気がして心地よかった。
目線を上げると、フラメンコの激しいリズムに合わせて赤いスカートが舞うのが見えた。コップを空にしないうちに店を出る。
スペインに来てから一年、生活パターンも安定してきた。狭いアパートも肌に馴染み、チームともうまくやっていると思う。
自分の部屋へ向かう途中、廊下でポルトガル人の女とすれ違った。一つ上の階に住んでいる若い夫婦で、五体満足健康で優しそうな夫と身重の彼女が、この気性 の荒い暑苦しい国で、細々とだが幸せそうに暮らしているらしい。オレの斜め前の部屋に彼らの友人がいるようで、彼女はよくこうやって食べ物を入れたタッパーを持って訪ねに降りてくる。
移民なのか事情は知らないが、こんな安いボロアパートに住んでいるのだから、収入は高くないのだろう。これから家族が増えるというのに焦った様子もなく、天井からはよく笑い声が聞こえてくる。
夫婦として結ばれても、必ずいつかその絆は切れる時が来ると信じていたオレは、自分と年齢が近いであろうポルトガル人夫婦のことを哀れみ、せせら笑った。
オレは孤独だが、寂しくはない。強がりや意地ではなく、根から慣れてしまっているのだ。誰かと親密に関わっているほうが色々と面倒が多い。「意地っ張りだ なぁ」などと言った赤毛の元宇宙人しかり、やたらと気にして世話を焼いてきた監督の血の繋がっていない娘しかり、このスタンスを理解してくれる人間は少ない。
大体、女も子供も鬱陶しい。場合によっては、いちいち絡んでくる男友達も鬱陶しい。
一生をこのままで終えるのも悪くない。だってオレは今の生活にある程度は満足している。これからワールドトップレベルの選手として名を馳せるようになれば、もっと満足できる。それが全てだ。そう思っていた。






4300

メニューを開けばいちいち驚くような値段のついている、スウィングジャズが静かに流れるレストランで、不動は約一年ぶりに鬼道と再会した。雷門イレブンの 試練からFFIV2の件までの大騒動が終わり、影山の十周忌に付き合った後は、大して会う程の用事も理由も無かったのだ。多分。
「帝国学園完全復活だって? 流石、天才ゲームメーカー様だよなぁ」
「でなければ総帥になった意味が無いだろう」
「相変わらずだねぇ、鬼道クン。……あ、鬼道総帥って呼ぶべき?」
それっきり小一時間、あまり喋らない鬼道を前に、沈黙が嫌でくだらないことばかり話し続けた。もちろん相槌は打つが、サングラスの奥で不動の出方を窺っているような様子がバレバレである。
鬼道の思惑には何となく気付いていた。レストランを出て家まで送ると言われ、車に乗った時、どちらからともなく――いや、半ば誘われるようにキスをして、それは確信に変わった。
(ヤバい)
ちょっと体を引いただけなのに、勘違いして謝るような表情になった彼を見たら、つい笑ってしまった。
「好きにしろよ」
鬼道はすこし迷ってからエンジンをかけて車を走らせ、不動の住んでいるマンションの前で停めた。停めても、まだ迷っているようだった。
「ここでいいか」
「もちろん」
降りると、流線型のフォルムが美しい黒いベンツは、威厳のあるエンジン音を響かせて行ってしまった。
心のなかで、意気地なしと叫んでやりたかったが、常識がある大人になったのだと褒めておいた。意気地なしは自分のほうだ。






4309

一週間以上経って夜中にいきなり電話してくるなんて、やはり常識はなかったらしい。
『まだ、こっちにいるのか?』
「そうだけど?」
鬼道の声からは何の感情も読み取れず、相手の出方を待つしかない。うんざりして、感情をそのまま声に乗せて答えると、電話の向こうは静かになった。
『帝国ホテル二二一五』
バカなのか何なのか、落ち着いた中低音でそれだけ言うと、また黙ってしまった。言ったことを後悔しているのか、それとも。何処からかけているのか、電話の向こうからは何の音も聞こえない。罠を仕掛けたのかもしれないが、そうは思えなかった。
「何それ」
しびれを切らして言うと、鬼道の溜息が聞こえた。
『……軽い気持ちではないんだ』
「だろうよ」
そう言うなら、軽い気持ちだったことがあったのだろうか。しかし今はそんなことを論議している場合ではない。
相手が聞いているかどうかも分からなくなる沈黙に、不動は溜息を返す。
「お前さぁ、これがどういうことか分かってて言ってんだろ? 指輪嵌める前なら何したっていいわけ? あぁーア、お前なら嵌めたって何してもよさそうだよな」
電話の向こうで、小さく名前を呼ぶ声がしたが、無視して続ける。
「そんなにヒトを振り回して楽しいか。自分の思い通りになりゃ最高なんだろうな。人生だってゲームみたいなモンだしな。天才の気持ちはオレには分かんねえよ」
言うだけ言って返事を待たずに電話を切り、わけの分からないメールが来る前にホテルへ急ぐ。
(何やってんだかね、オレは)
チャイムを鳴らすと、ドアの向こうには複雑そうで、泣きそうで、怒りそうでもある鬼道がいた。むしろ全てが混ざり合った後の混沌を虚ろに眺めているようでもあった。
「ったく、やれやれだよなぁ。大人になればなる程、たとえどんなにキレーな光を浴びて天使のように育った奴でも、闇に慣れていくんだし。別に意外じゃないぜ」
その脇を通りすぎてスタスタと中へ入りながら偉そうに言うと、途中で捕まった。
「なんで、来た?」
何かに震えるその唇を、奪いに来たのだ。
「お前が呼んだんだろうがよ」
後悔するのは先に誘った方だけではない。片方だけが重荷を背負い、心を砕くわけではない。
共有する苦痛にもがきながら、二人は背徳を潰すように握りしめてベッドに沈んだ。






401

リトルギガントとの決勝戦を終え、世界一のトロフィーをもぎ取った栄えあるイナズマジャパンのメンバーたちは、撮影やインタビューをやり過ごして控室にのさばっていた。全員が全力を出しきって、後は監督と共に宿舎まで帰るだけである。
「もう動く気がしねー。誰か布団まで運んで」
「ここで寝るよ俺」
綱海と小暮が床に転がるのを見て、まだ元気な笑い声が上がる。張っていた気がゆるんだこともあり、さすがにクタクタになってベンチへ座り円堂たちを眺めていると、隣に腰掛けた佐久間が笑顔で呟いた。
「まだ信じられないな」
二人が腰掛けたベンチの後ろ側にいた不動が言う。
「そりゃ、大した活躍してねー奴には実感が沸かねえよなぁ」
「あ、お前、泣いてただろ? さっき」
「はァ? 意味わかんねーし。オレ関係ねーし。メソメソしてたのはお前だろ」
皮肉の扱いもうまくなった佐久間に、笑いながら答える不動もまた、成長したのだろう。
「勝ったぞー!ってなったあと、ワーッってなってさ、観客席からすごい歓声が聞こえてさ、もうなんか頭の中すごいことになっててさ、お前ちょっと泣いてただろ」
「だーから、オレは泣いてねーよ、自分の話をすり替えんな。オレのは汗だ、汗」
横で交わされる二人のやり取りに、鬼道は思わず呟いた。
「汗は目から出ないぞ」
その一言は微笑ましい気持ちで控えめに言ったつもりだったのだが、二人ともツボにはまってしまったのか同時に吹き出した。
「鬼道ナイス! ナイスツッコミ! さすが!」
「今の言い方!」
さっそく、さらに堅く真面目な顔で鬼道の口真似をする不動が面白くて、佐久間と一緒に大笑いした。自分で言ったそばから、不動も笑っている。
「そんな言い方していないだろう、大げさすぎるぞ!」
「そうだよ不動、もとはと言えばお前がいけないんだよ。目から汗出すから!」
「出してねーっつってんだろ!」
三人で爆笑していても、興奮の最中、周りも似たような騒ぎが繰り広げられていて、笑い声は溶けていく。
同じ目標を達成した仲間同士の一体感に、鬼道は目頭が熱くなった。何より、諦めずに前を向いて来れたことが誇らしかった。
自ら手を痛めて気付かせてくれた不動は今、目の前で同じ栄光に包まれ喜びを噛み締めている。その笑顔を眺め、人生最高の日だと胸に刻みつけた。






4310

相変わらず高校時代からの習慣で、目覚まし時計がなくても五時に起きる不動は偉いと思う。彼がそっとベッドを下りる頃に起き上がると、立ち止まる気配がした。まだ真っ暗な部屋に、明かりをつける。
「……ひとっ走りしてくるけど」
「ああ、おれも行く」
「あの格好でか?」
彼に会いたいというだけで取ったこの部屋には身ひとつで来てしまったため、ウェアもシューズもない。
珍しく押し黙る鬼道をよそに、柔らかいズボンにTシャツとスニーカーで来ていた不動は、床からそれらをかき集めて身につけた。不動の指摘は正しい。ちゃんとした靴で走らねば逆効果もありうる。
「やめとけよ。一日くらい休んだって、変わんねぇって」
「なら、お前も休め」
「何でだよ」
「フェアじゃない」
「はあ?」
不動はしばらく黙っていたが、やがて諦めたかのように片手を軽く振った。
「わあったよ。誰かさんのせいで疲れたし、今日はサボり」
カーテンを開ける不動がいつ出ていくかと焦りながら、鬼道は普段と変わらない声で言う。手は素早くシャツのボタンを閉めていた。
「会わせたい人がいるんだが」
「あ?」
「これから連れて行っても構わないか。どうせ暇なんだろう」
「どうせって……まあ暇だけどさ、今は」
薄暗い朝焼けの空を窓の外に眺め、鬼道は微笑んだ。変わらないものを感じると人は安心するのだ。







大した説明もないまま連れて来られた児童養護施設の玄関ロビーで、不動は途方に暮れていた。
(恋人とかってんじゃなさそうだが……イヤ待て、ここに勤めてるのかも)
困惑したまま、建物の内部を見渡しつつ、受付へ行った鬼道を待つ。そう言えば、一歩間違えば自分も施設暮らしだったかもしれないと思うと、妙な感慨が生まれる。
本人にどうやって問い詰めてやろうと考えていたのに、後ろから高めの大きな声が鬼道を呼んだ。
「ゆうと兄ちゃん!」
走ってきて彼の腰に抱きつくくらいなのだから、よっぽど懐いているらしい。もしくは子供が甘えん坊なのか。
鬼道は挨拶した後、管理者らしき中年の女性に微笑と共に二言三言伝えて、その六歳くらいの男の子と一緒にこっちへやって来た。
「今日は友だちを連れてきたんだ。不動明王だ、聞いたことあるだろう?」
「えっ、うん……」
人見知りが激しいようで、子供は鬼道のジャケットにしがみつき、半ば隠れるようにしながらも不動のことを見ている。
(友だち、ねぇ……)
馴れ合う気はなかったので、しゃがんで目線を合わせたり猫なで声を出したりせず、しかし悪気はないのでちょっと笑ってやる。
「初対面ではこうだが、すぐに慣れるさ」
誰に言っているのか、鬼道は子供の頭を撫でる。
「みんなの様子を見に行こうか」
彼ら兄妹が育ったのもこんな施設だったのだろうか。学校に似た空気に、無機質な静寂と閉鎖的な圧迫感を覚えつつ、鬼道について行く。
小さい公園のような広い中庭に出ると、他の子供たちが十五~二十人ほど、各々好き勝手に遊んでいた。
「サッカーして!」
子供は汚れたボールを持ってきて地面に置き、鬼道に向かって蹴った。少し困った顔で笑む鬼道は、それを足で受け止め蹴り返す。二度目は離れたところまで取りに行かせた。
「えい!」
それを持って来る途中で蹴り返した子供のボールが、強すぎたために大きく逸れて不動の近くへ跳ねていく。バウンドするボールを片足で捕らえ、弾みを利用し て肩に乗せてから、子供が見ているのを確認して頭で二回ポンポンと跳ばす。三回目でポンと宙に浮かせ、落ちるまでに体をくるりと回転させ、絡めとった足の 下で押さえて止めた。
食い入るように見ていた子供を見下ろして、フッと笑う。
「あきおでいいぜ」
緊張より好奇心が勝ったようだった。
「お前は?」
「て……てらひさ、宗一朗」
「ソウイチロウ? 長ぇなあ。ソウでいいか?」
宗一朗はこくりと頷いて少し笑った。
「いいよ」
「よーし、ソウ、オレたちからボールを取ってみろ」
鬼道にボールを渡し、自分は少し距離を取る。彼は六歳の子供相手に本気でドリブルするつもりは当然ないようだが、革靴のくせにきれいな足捌きでかわし、ちょうどいい位置へ移っていた不動にパスを出した。
こんな子供だましには正直うんざりしていたはずだが、小一時間思いっきり付き合ってやったのだから、満更でもなかったのだろう。自分でもよく分からなくなる時があるが、基本的にサッカーなら何でもいいのだ。最近ボールを蹴っていなかったことも、理由の一つだろう。
二対一のいじめはやめて、三人で交互にパスを出し、誰にボールを渡すかフェイントを掛け合う遊びで、いつの間にかふざけて笑っていた。







車に乗り込み、シートベルトを締める。エンジンをかける前に、静かな車内で鬼道が尋ねた。
「どう思った?」
その言葉でやっと、ここに来た目的を思い出した。何を意図しているのかは知らないので、率直に訊かれるまま答える。
「呑み込みが早い。運動神経も悪くない。健康で人格はまあ普通。隠してることとトラウマがなけりゃ、見込みは充分ある。……あとは、分からねぇ」
「なるほどな。助かった。参考にする」
やっとエンジンがかかって、正直ホッとした。どういうつもりなのか知らないが、地雷を踏んでしまう可能性も大いにある。
「お前に来てもらってよかった」
いつまでこんな関係を続けるつもりなのか、始まったことを終わらせたくないと願う自分の弱さに呆れながら、上機嫌らしい鬼道の横顔を見て、期間限定の自己満足に浸ることにした。
運転は任せておけばいい。責任転嫁は得意だ。







つづく






戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki