<眠れぬ森のツンデレラ 第一話>



上等なシルクとシフォンがフランス人形のような肌と下着の上を滑っていき、留め金が微かな音をたてる。彼女のために名高いデザイナーが献上した、まだ子供らしさを残す肩を出したAラインの深い緑に合わせるのは、肘まで覆う黒い手袋とシンプルな装飾を施した華奢な金のネックレスに、揃いのブレスレット。今夜は髪を下ろして上部半分だけ結ったため、耳飾りの代わりにアンティークな色合いの芳しい小さなバラが二輪、くすんだゴールドのふわりとした毛束に添えられた。
「お嬢様、お支度が整いました」
「ありがとう」
小さなバッグを受け取りメイドたちに微笑む彼女は、鬼道有奈。鬼道財閥の次期後継者となる長女である。
大広間の扉が開くと、音楽と笑い声に包まれて歓談する父の姿が見えた。相手の痩せた長身の男は、帝国学園総帥である影山零治だ。彼に帝王学を教わり帝国学園を代表する生徒となった鬼道は、十四歳にして大人の社交界に足を踏み入れるほどの思考力と会話力を持っていた。
「今晩は、本日はようこそお出でくださいました」
可憐な微笑と共に会釈すれば、各社長や会長はたるんだ顔をさらにゆるませて挨拶を返す。大人たちの相手など容易いことだ、ただ微笑んで話を聞いていればいいのだから。たまに相づちを打って一言挟んでやれば、気が利いていれば感心され、多少ズレていても愛嬌で許される。
まるで眠れる森だ。誰もが仮面を被り、生きた人間など一人もいない。鬼道は退屈に欠伸を堪えながら、いつものようにゆっくりと会場内を回った。
息抜きに騒々しい広間を出ると、廊下は別世界のように静まり返っている。気分がすうっと落ち着くのを感じて、大きく息を吐いた。
ふと顔を上げると、玄関へ続く廊下に置かれたソファで、男が寝ているのが見えた。若いわりに上等なスーツが皺になるのも構わず、まるで自分の家のソファででもあるかのように横になって、頭と組んだ足をそれぞれ両側の肘掛けに乗せている。弱い電球の光に照らされて、顔は鬼道からは見えないが眠っているように思えた。
「あの」
男は黙ったまま動かない。完全に眠ってしまっているのだろうか。大体、いくら夏が終わったばかりとは言え風邪を引くのでは。
「あの、こんなところで寝てもらっては、困るのですが」
寝ているところを起こすのは苦手だ。しかも、見ず知らずの他人である。眉間にシワができないよう注意しながら、精一杯優しめの声を出すと、やっと男は起き上がった。栗色のくせ毛をばさりとかき上げ、前髪の下から切れ長の鋭い目が現れる。
「あぁ……、すみません」
欠伸を噛み殺して、男は鬼道を見た。青みがかった緑は、暗い色だが野獣のような強さを秘めている。
「なんだ、お嬢サンか」
話しかけたのが少女だと分かると、男は話し方を変えた。小馬鹿にしたような癖のある甘い声は、ちゃらついた女たらしに見える。
「アンタ、有奈ちゃんだろ?」
鬼道は腹が立った。年下の女だからという差別以前に、目の前の人物がこの屋敷の主の娘であると知っていてこの男は、見下すような軽い調子で口を利いているのだ。
「なぜ私の名前を知っている……」
「知らねえ奴なんかいないと思うぜ?」
鬼道はあからさまに顔をしかめた。
「まぁいいや、クソ眠いんだよ。寝かせといてくれよ、な……」
しかし大きな欠伸をひとつ、言うなり男は再びソファに体を横たえる。こんなに不愉快さを顕にしているのに、全く通じていないらしい。
「だから、ここで寝るなと言っているだろう!」
頭にきて思わず、よそ行きの口調を忘れてしまった。男は顔を上げ、面白そうなものを見つけた時のように薄い笑みを浮かべる。
「かわいいねェ……」
その間延びした言葉は、どんな態度に出ても言い返して追い出してやると身構えていたはずの鬼道の思考を、あっけなく阻害した。ここまで話が通じない人間は初めてだ。男は本当に眠いらしく、体を落ち着けると大きく息を吐いて、目を閉じる。眠いなら寝かせてくれと頼んでくれれば、客室でも用意してやろうと思っていたのに。ここからつまみ出すように執事に言いつけようかとも思ったが、もはや付き合っていられないと呆れ、鬼道は広間へ戻った。



***



翌日は帝国学園幹部の食事会があった。理事長である鬼道の父と数人の理事たちに囲まれ、料亭の座敷に座る鬼道は、目の前の席に空きがあることに気付いた。
「まだ誰か来るんですか?」
理事の面々はすべて揃っていたので、鬼道は首を傾げた。影山はこういった場に来ないことで有名だ。理事の一人が答える前に、ふすまが開く。
「ンばんわ~、遅くなってすんません」
「おお! 君が不動君か!」
不動。それがあの男の名前らしい。目の前にどかりと腰を下ろした不動は、黒いポロシャツにダークジーンズを履いていて、手に持っていたジャケットを側に置いた。
「ああ不動君、こちらは理事長のお嬢さんだ」
「また会ったな。なんで居んの?」
馴れ馴れしく話し掛けられ、正座した背筋に力が入る。答えるまいと思っていると、隣の河村はお嬢さんが緊張しているのだと思い込み、代わりに説明を買って出た。
「成績優秀、文武両道ということで、お嬢さんには指導方針や風紀などについてご助言いただいているんですよ」
「成る程ねぇ」
和服姿の女将が注文を取りに来て、話は中断になった。コース料理は人数分予約してあるが、酒というのは各々の好みとその日の気分に合わせて確認しに来るのである。馴染みの店ということもあり、にこにこした女将は勝手が分かっているので、間に洒落た相槌を入れながらメモを取る。定期会合と建前を立てて、実際は単なる飲み会なのだ。
大人がゲストを中心に、ご息女の手前、多少慎ましく歓談を始めていたので、鬼道は少し安堵していたが、箸を割ったところで、不動が顔を近付けてきた。
「今日は大人しいんだなァ、有奈ちゃん」
すかさず、何か言われたら言い返してやろうと思って待ち構えていたことを口に出す。
「今日は寝てないんですね」
「ああ、時差ボケもやっと直ったしね」
皮肉な笑顔を余裕の笑みで返され、鬼道は拳を握り締めながら睨みつけた。
「何だよ? かわいいカオが台無しだぜ?」
睨まれても、痛くも痒くも無いとでも言わんばかりに、不動はにやにやと笑っている。これ以上出せるカードを持っていないと焦り始めたところで、うまく大人たちが不動に話し掛けてきたので、子供らしく食事に集中しているふりをした。



並んだ車の脇で、ほろ酔いになった大人たちは立ち話が長引き、乗り込む寸前で止まっている。父より先に乗っているのもどうかと思い、鬼道は一歩引いて立っていた。煙草を吸っていた不動が近付いてくる。
「有奈ちゃん、いま何年生?」
また小馬鹿にしたような声色で、鬼道はむっとしながら答えた。
「二年生だ」
そしてわざわざ答えてしまった自分の性格に腹を立てた。
「中学だよな? じゃあ、まだ十四か」
そっぽを向いて無視しているのに、不動は構わず話し掛けてくる。
「影山サンは厳しいだろ? オレは散々だったぜ」
私は優秀だしお前みたいに態度も悪くないと勝ち誇ったような笑みを添えて言おうとしたところで、父に呼ばれた。
「まぁ、サッカー以外のことは、案外甘いのかもしれねェな」
ぽんぽんと、鬼道の肩をなだめるように軽く叩き、不動は後ろに止まっていた理事たちと相乗りのタクシーへ乗り込んだ。肩を叩かれるなんてことは、しょっちゅう起こる。父やクラスメイト、そして影山が、労ったり慈しんだりするときにほんの一瞬触れるからだ。だが今のは、いつも感じない感触が起こり、体が驚いていた。それが何の感情なのか分からず、とりあえず『不愉快』に分類したが、どうも違うような気がする。鬼道は理解できないことに襲われ困惑しながら、やっとのことで父の隣へ乗り込んだ。



***



不動の情報は、ちょっとインターネットで検索すれば大量に出てきた。不動明王二十四歳、愛媛生まれ。帝国学園高等部を卒業後すぐにイタリアへ行き、その後着実に成果を上げ、主にヨーロッパを中心に世界中で活躍した。トップと言うほどではないが、密かな細工や微妙な采配で勝利へ導くMFで、二年前の絶頂期には日本中を賑わせていたこともあった。彼は留まるということをせず、ころころとチームを移ったが、彼が入ったチームは予想外の動きをするため、ジョーカーと呼ばれていた、等々。
ふんと鼻を鳴らして、鬼道はパソコンを閉じた。もうすぐ影山が来る時間のため、勉強に使う資料や本をまとめて部屋を軽く片付ける。ちょっと経歴に箔が付いているからといって、人格が伴わなければ尊敬には値しない。
「総帥。お待ちしてました」
とにかく今やるべきは、知識のある聡明な大人からレベルの高い教育を受けることだ。玄関まで迎えに行くと、影山は細長いのに威圧感のある体を重くはない足取りでゆっくりと進ませ、階段を上り、鬼道の部屋へ入った。
「どうだ」
「順調です。早速ですが、ご相談があるので聞いていただけますか?」
「良いだろう」
いつものように、ゆったりとソファへ腰掛ける。影山のために定位置から移動させ、勉強机に座る鬼道の斜め後ろに置かれた一人掛けのソファだ。
「先日出していただいた課題の中に小論文がありましたが、そのテーマとして、女性経営者と恋愛についてを取り上げようと思ったんですが……経験の浅い私が書くのは些か、時期尚早でしょうか」
影山は問いを弄ぶように思考を巡らせ、数秒後に言った。
「何をしようと批判は起こる。批判を恐れるな」
「はいっ」
この家は閑静な高級住宅街にそびえており、庭も広く使用人は静かに仕事しているため、ほとんど何の音も聞こえない。時おり窓の外の杏の木に、小鳥がやってきて囀ずる程度だ。鬼道のシャープペンシルを走らせる微かな音と、彼女が質問するやや上ずった声、それに答える地の底から聞こえてくるような影山の低い声だけが、部屋の空気を振動させていた。
「お忙しいのに、いつもありがとうございます」
「ああ。構わん……」
影山は満足げに少しだけ口角を歪めて立ち上がり、部屋を出て行こうとしたが、鬼道の座る机の方へ足を向けた。
「お前には、この本も役に立つだろう」
そう言って鬼道の肩越しに、ノートへ本のタイトルを書き込んだ。その時、影山は鬼道の肩に片手を掛けた。
「――いくならば、必要ないがな」
一瞬気が逸れ、我に返った鬼道は微笑んで、慌てた様子を出さないように見送ろうとする。
「はい。ありがとうございます」
何か違和感が生じたのは確かだ。だがすぐに何に気を取られたか分からず、影山が絨毯張りの階段を下りて玄関のドアを出、車寄せまで向かう間じゅう必死に考えていた。記憶を遡り、一番引っ掛かるのは影山の片手。
「鬼道」
「はい」
「どうかしたのか」
「いいえ、大丈夫です。その……お腹が空いてしまって」
「――そうか。遅くなってしまったな」
「問題ありません。総帥のお話なら徹夜でお聞きしたいほどです」
じっと、真っ直ぐに見上げる鬼道を見ているのだろう、サングラスの奥の双眸は何を考えているのか、しばらくして大きな背が黒いリムジンの中に収まるのを見届け、鬼道はふうと溜め息をついて肩の力を抜いた。
影山が肩に触ったから何だと言うのだ。いつものことなのに、今日は妙な違和感を覚えた。まるで、体か意識のどこかにスイッチが入ってしまったかのような。だが今は、そんなことより空腹感に意識を逸らされた。それはまだ、健全な彼女の精神が深みにはまっていない証拠でもあった。



つづく







2014/09

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