<眠れぬ森のツンデレラ ~birds wedding day~>




とある金曜日。
家に行くと、住人は留守だった。独り暮らしで、痩せた日本人の、一蹴りで世界を騒がすプロサッカー選手。わざと居ない時を狙ったのだから、留守でなくては困る。鬼道は先月もらったばかりの合鍵を鞄のポケットに大切にしまい、誰も居ない彼氏の部屋でふぅと息を吐いた。コートとマフラーをソファに置き、鞄の中からエプロンを取り出す。何度も泊まったから勝手は知っているが、黙って忍び込んでキッチンを使うのは初めてだ。

二時間後には、おおかたの準備が整っていた。オーブンの中で熱い汁気が音をたて始めたロブスターと、ボウルいっぱいのグリーンサラダ、パプリカとサーモンのマリネはテーブルに、ジェノベーゼソースのパスタは麺を茹でるだけ。白い方のミネストローネはとろ火で煮込み続けていて、ティラミスとミントは冷蔵庫で待機中。
完璧だ。そう思った瞬間、ドアの開く音がした。
「あれ、鬼道ちゃん?」
「あっ……」
ちょうど手を洗っている最中で、迎えに出て行くのが遅れ、不動が先にリビングへ着いた。
「来てたんだ?」
「す、すまない! 驚かせたくて……」
不動は上着を脱ぎながら、テーブルの上の様子を見て苦笑する。
「すげ……何これ、全部鬼道ちゃん作ったの?」
「あ、いや……その、勝手に台所を借りて、すまない」
「すげぇな。何人分だよ」
ソファに荷物を置き、不動はキッチンへやって来る。気分を害しただろうかと、計画していた二週間前からの不安が最大値に達する。しかし、キッチンに入って来たのは心底嬉しそうな、ゆるんだ笑顔だった。
「さーて、じゃ、どれから頂きましょうかね?」
ふざけた調子で言い身を屈めて、それからたっぷり一分近く唇を奪われた。会うのは2週間ぶり。前置きもなしにずるい男だ。
「ありがとな」
身体中の力が抜けそうになって、オーブンの出来上がり時の電子音に、何とか我に返る。
「――座って、待っていろ」
「手伝うよ」
後はパスタを茹でてスープをよそるだけ。カトラリーの場所は知っていたが、見当たらない皿の場所を聞くと、不動がキッチンの上の戸棚を開けて出してくれた。頭一つ分の身長差があるというのは不公平だと思いつつ、胸の奥が奇妙に疼いた。
「それにしても、何時から作ってたんだよ? よく一人でこんだけできたな。花嫁修業とか?」
「なっ……ちがう。一人だとどうせろくなものを食べないだろうから、わざわざ作りに来てやったんだ。それに普通、このくらい作れるだろう」
不動が笑う。
「普通は作れねーよ。よっぽど料理好きか、料理が仕事か、くらいだろ。まぁオレはあんまり……」
言い淀んだその先が気になったが、不動は電子音に遮られて話をやめてしまった。
「お、このタイマー、パスタだろ?」
「あ、ああ」
聞いてはいけないことのような気がして、鬼道も興味のないふりをした。さっき疼いた心の奥に、かすかに痛みのようなものを感じて戸惑う。
食べきれない料理に不動はとても満足してくれ、礼を言ったあと、いつものように他愛ない話をして笑った。それは心から嬉しいことだった。







あれから何度も泊まったが、何もしていない。あのときの何かがいけなかったのかと思いつつよく分からず、何となく聞けないまま、一年近く経ってしまった。そもそもお互いに意外と忙しくて、ゆっくり会う時間も取りづらい。隙を見て食事したりする他は、ほとんどメールと電話に頼っている。
だが、不動は相変わらずのような気がする。関係も態度も変化することがない、これは良いのか悪化しているのか誰にも聞けないままに、鬼道はもやを抱えていた。
キーボードを叩いてちょっと調べると、男というのは性欲の塊で、抑える方が大変らしい。自慰は毎日しなければむしろ不健康であり、彼女があまり夜のお付き合いを断ってばかりいると、浮気の原因になるから適度に刺激を与える必要がある、例えば自分からおねだりしてみたり、セクシーランジェリーもよいでしょう、とかなんとか、どこまで信じればいいのか分からないことばかり書いてあるので、それ以上調べるのはやめた。情報なんてそんなものだ。
だが、不安は拭えない。やはり飽きるのだろうか? 面倒くさいのか?
十歳も離れている人間、しかも異性の気持ちなんて、向こうも分からないことだらけだろう。好きなら何も問題はないとばかり思っていたが、そう何もかもうまくはいかない。だからといって連絡のしすぎもどうかと思うし、メールにばかり頼りたくない。だがいざ会いに行っても、言いたいことも言えないまま時間が過ぎてゆく。
欲しいものは手に入っても、手放さないために努力が要ることは分かる。だが、どうしたらいいのだろう。まだ距離感を手探りしている。
「……不動」
横になって、布団に顔を埋め、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。







上機嫌でシャワーを止めて、やっと気がついた。
(あれ? 明日か、バレンタイン……)
ただの週末ではなかったのはその為だろう。どうもイベント事には疎くて、部分的な鈍感に拍車をかけている。彼女はそんな性格に早々に気付いて、今日のように然り気無くサプライズを用意してくる。本人もその方がいいらしいが、今回はさすがに気合いが違うなとは思っていたので、どうやら認識を改めなければならないのかもしれない。
(期待、されてんのかな……やべ)
鬼道は忙しそうであるし、まだとても若いし、まるで妖精と話しているかのようにやりとりが純粋に感じられたため、特に積極的な必要はないのかと思っていた。だがよく考えれば常に様々なことの刺激を求めている年頃だ。あまりのんびりしていると、他所から手が出た時にぐらついたとしても仕方ない。
(そうは言っても……くそっ、難しいな……)
退行して中学生になっているかのような自分に、自分で呆れる。だが風呂から上がり部屋着に着替え、意を決して寝室へ行くと、勧めるまでもなく既にベッドで丸まっている姿があった。一体何時から用意していたのか、さすがに疲れたのだろう。
毛布と布団をしっかり肩まで掛けてやり、寝顔を眺める。あどけなさの中に散らばる美はやや大人びた艶を帯びて彼女の成長を表し、心の奥底の本能をくすぐる。どんなことがあっても、守りたいと思う。例えこの関係がいつか終わるものだとしても、彼女が旅立つその日まで。
いつもはソファで寝るが、今日は翌朝怒られても側にいたくなった。そっと起こさないように、隣へ体を横たえる。彼女が端に寝ているので、狭いベッドから落ちないように、肩と腹部を抱えてゆっくりと引き寄せるようにして移動した。
ずらしすぎて、やわらかい体に密着していることに気付き少し焦ったが、結局それ以上は動けなかった。ちょっとやそっとでは起きないことも今は分かっていたが、念の為に動かないでおく。そっと肩を囲うように腕を伸ばし、目を閉じる。ほんのり漂うラベンダーの香りとハニーブラウンがふわふわと鼻や頬をくすぐり、不動をやさしい夢へ導いた。



§



翌朝、目が覚めたが、起き上がれなかった。肩から首にかけて囲っている腕は、日々鍛錬の積み重ねによってついた筋肉で硬く、父とは違う逞しさを感じる。いつも泊まる時は不動のベッドを借りていたが、あの日以降一緒に寝ることはなかったため、これはかなり動揺を呼んだ。
抜け出そうとしたが、それにはこの腕を振りほどかなければならない。ちょっと動かそうとしただけで、耳の後ろで小さな呻き声が聴こえた。心臓がどうにかなりそうだ。いっそ起こしてしまえばいいのだろうが、起こす理由はない。仕方なく、今度は振り向いて向かい合わせになろうと思ったが、体を反転させることも難しそうだ。
「……」
背中も布団の中もしっかり温まっていて、外から入ってきた明け方の冷気は精々顔を撫でる程度しかできない。一見すると和やかな空気のはずなのに、心臓が激しく高鳴っているのを抑えられず、困惑していると、不動が覚醒したらしく欠伸を一つして目を開けた。
「ん……オハヨ」
「おはよう」
しかし何だかまったりとして動く気配のない不動に、動揺を隠しきれていないまま思い切って体を寄せ腕を伸ばした。首元に顔を埋め、抱きついた格好だ。行動を起こしてしまえば動揺もどこかへ行くと思ったが、今度は自分で自分に動揺してしまっている。
「あの……何してんの?」
どこまで気付いているのか、起きたばかりのくぐもった掠れ声は少し笑っている。だが腕を離すわけにはいかず、強張ったまま何とか声を絞り出した。
「見て分からないか、誘っているんだ」
「んー、動けないんですけど」
「私が不動にするからいいんだ! そこでじっとしていろ」
とは言ったものの、相手が身構えているとなるとさらに動きづらくなってしまった。まずはキスをしてやろうと顔を上げてみるが、ずっと様子を見ていたらしい不動と目が合った途端、すぐに元のように顔を埋めてしまった。興奮で涙が出そうだ。
「あのさぁ……鬼道ちゃん? 無理すんなよ」
「……」
降りかかる声がなくても、頭が沸騰する。さっき口走った言葉ですら、自分ではないような気がした。そっと耳元の髪を撫でられ、嬉しいような憤るような感情を覚える。
「ほら。なあ、また何か妙な知識でわけわかんねえこと考えてねーか?」
「うっ……」
図星を指され、眉を寄せる。落ち着いた不動の声が、宥めるように心を包む。
「不動は、その……したくならないの、か?」
「ん?」
「だから、その……」
客観的に見た自分がおそろしく乙女思考に見えて嫌悪感さえ湧いたが、不動が先に言えない部分を汲んでくれた。こういうところだけは察しが良い男だ。
「……ああ、」
微妙に顔を逸らされ、一気に恥を自覚する。何と言えばいいのか分からないのだろう、不動は困ったように目を泳がせた。
「あー……」
「わ、私はその、無理にとは言わないのだが、あれから、何もないので……どう、なのかな、と……」
どもりがちに少しずつ顔色をうかがいながらぽろぽろと落とす言葉を、不動はしっかり拾ってくれる。それでも、背中を撫でる手が安堵感をもたらしてくれた。
「それさぁ……」
深い溜息が聞こえて、続きを待つ間ずっと、不動の手の動きを感じていた。背中を、くすぐらないように気を付けながら、そっと撫でる骨張った手。焦っていた自分に気付いて、ばかばかしくもなる。
「オレさ、この歳になるまで、誰かとちゃんと付き合ったことないんだ」
話し始めたのは低くて掠れた穏やかな声で、鬼道は顔を上げる。
「つまり、カノジョっていうか……ちゃんとした恋人がいたことなくてさ。鬼道ちゃんとこんな風に過ごすようになって、実はほぼ手探り状態なンだよ……カッコわりぃからあんま、こゆこと言いたくないんだけど」
「いや、カッコ悪くなんか……」
うつ伏せになって肘をつく。隣の不動は、両手で自分の顔を撫でた。
「だから……実際、よく、わかんねぇっつうか……いや、ヤりたくないわけじゃ全然なくて、どっちかっつーとむしろその逆なんだけど、いざ鬼道ちゃんと会うと、なんつーかこう……それだけで十分ってか……」
天井を見つめ数秒の沈黙が流れ、ハハッと自嘲気味の苦笑が漏れる。
「言ってること、よくわかんねーよな」
「わ、私も……同じだ。でも……」
仰向けになっている不動の胸に、そっと片手を置く。見つめ合うと、部屋の寒さも気にならなくなった。
「不動がしたいなら……」
不動の顔がすぐ目の前にある。筆で書いたハネのような強さのある端正な眉と、深い青緑の眼。ゆっくりと、不動が上半身を起こすと、相対的に鬼道は身体をベッドへ戻す。体勢が逆転し、彼は鬼道の、愛と情熱の象徴のような甘い艶のあるガーネットを覗き込んでいた。何かがおかしい。
「ふっ……ははは」
不動が笑い出す。本来ならキスをして、その先へ続くだろう状況なのに、なぜかそれ以上必要を感じない。つられて微笑んだ鬼道は、自分の不安がどこにあったのかということと、取り越し苦労であったことを悟った。きっとどちらかが求めたら応えたが、もうすでに満たされていて、むしろそれ以上求めたら抱えきれなくて勿体無いとさえ思えた。
「ホラな」
ゆっくり身を起こした不動のシャツを掴み、くんと引っ張ると、彼は目で問いかけてきた。さっきの体勢に戻ってくれとはさすがに言えず、自分も起き上がって隣に座り直す。
もうこのままでもいいかと思ったが、やはり今でなければと手を伸ばした。不動は座ったまま受動的に、寄りかかってくる細い肩を抱える。
「もうちょっと、こうしてていいか……?」
「ああ」
大きな犬が寝そべり、そこへ小さな猫が居心地の好い体勢を見つけて体を丸めやっと落ち着くように、二人はパジャマのまま、身を寄せあった。
「いくらでもどうぞ、姫さま」
その呼び方はやめろと言っただろうと睨みたかったが、今は小さな不満もどうでもよくなるくらい心地好くて、自然と口元が綻ぶ。ゆっくりと息を吐いて、快楽ではなく繋がりが欲しかったのだと知った。
「……お前、わたしがどれだけ不動のことが好きか、知らないだろう」
胸に寄りかかって呟くように言ったのを、不動は聞き漏らさない。
「……ウン、知らないな。教えて?」
額のすぐ横にある唇がささやいた。抑えきれない喜びが広がっていく。
「一生の秘密だ」
「なんだよそれ……反則」
逃げ出そうとしたところを捕まり、首や肩をくすぐられて、笑いながら身を捩る。不動はすぐに止めてくれたが、座ったまま強く抱き締められた。
それから朝食の内容をダメ出しし合って決め、午後からの予定について相談する間じゅうずっと、ベッドの上で二人して山になっていた。







セントラルパークで動物と触れ合い、二階建ての赤いバスに乗って、映画館は満席だったから引き返し、美術館で彫刻を見た。
町は楽しそうな男女で溢れており、カフェではとっくに金婚式を済ませたかのような老夫婦が、赤いジャケットに白ズボンとお揃いの赤いワンピースを着て穏やかに紅茶を飲んでいた。
帰り道に、テイムズ川にかかる大きなブリッジを歩いて渡った。川沿いに地下鉄へ向かいながら、夕食を手伝う手伝わないで言い合った後のこと。不動はくつくつと肩を揺らして笑いが収まってから、赤く染まる空を見上げた。
「そうだ、毎年こんな風に過ごそう」
「こんな風にって?」
「朝どこへ行くか相談して、一日一緒にいる。まぁデートってことだけど」
鬼道は鼻の奥で小さく相槌を打つ。やや気取ったように見える彼女は、こうしてゆっくりと並んで歩きながらする核心に迫らない話し方を楽しんでいる。
「贈り物も、気が向いたらするかもしれねぇけど。でもオレ辛党だし」
「そうだな。私も辛党だし賛成だ」
目が合って、思わず笑い出す。
「今日も泊まってくんだろ?」
今からディナーの後に自宅へ帰るのは気遣いが無さすぎる。当然のように鬼道は頷いた。
「ああ、そっちが良ければ」
その耳元に、身を屈めてささやいた。
「今夜、どう?」
咄嗟に二歩離れてよろめく鬼道を見れば、わなわなと口を半開きにして真っ赤になっている。不意打ちは成功したようだ。
「そっ、外でする話じゃない!」
俯いて前のめりに歩き出す背に、とぼけた声を掛ける。
「あれ、何のことだと思った?」
追い付いて、動揺する顔を覗き込む。
「あーあ、真っ赤になっちゃって」
少し落ち着いてキッと睨み付けてくる瞳をいつまでも眺めていたかったが、すぐにぷいと顔を背けられてしまった。マジックアワーの中で、空と川の反射を映して、とてもきれいだったのに。
「なぁ、分かったから。帰ってからまたゆっくり話そ」
「話すようなことじゃないっ……」
そうやって口ごもる彼女を見ていると、ついつい指先で突ついて反応を見たくなってしまう。
「あ、そう? 突然襲われる方が好みだった?」
「――もう帰るぞ!」
「あーっ鬼道ちゃん! 鬼道ちゃん!」
ここで言う帰る先は、彼女の家へだ。本当に置いて行かれそうになり、慌てて後を追う。
「悪かったよ。もうからかわねぇから」
並んで、そっと後頭部を撫でるようにする。
「……ほんとか?」
「今日は」
足首をブーツで蹴られた。
「足はヤメテ……」
「自業自得だ」
やがて溜め息を一つ立ち止まった鬼道に合わせて足を止めると、細い腕が伸びてきて、革手袋をはめた指が不動のコートを引っ張った。そのまま預けてくる体重を胸で受け止め、こぼれた声を拾う。
「言葉なんて、いらないんだから……」
堪らなくなって、キスをした。たとえこの先何が起ころうとも、彼女を守るためならどんな努力も厭わない。そんな心情が伝わってしまったかどうか、鬼道は腕を引いて歩きだしながら言った。
「和食がいい。不動が作れ」
「りょーかい」
まだ感情を全て見せないように口を引き結んでいるが、きっと機嫌は良いだろう。怒ったような声とは逆に、盗み見た横顔は微笑みを浮かべていた。静かな川沿いの道から賑やかな街の中へ入って行く。離れないように、しっかりと腕を組んだ。

ワガママを言えるような相手になろう。
怒ってもすぐ笑わせてやろう。
眠れる森の姫は一人で戦えるけれど、それは守るべき民と、支えてくれる存在があるから。
いつまでも必要とされるような存在であるために、己の心へ忠誠を誓う。頭上の星が輝きだした。



end



2015/02

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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki