<眠れぬ森のツンデレラ 第五話>



先週は肩に触れられるだけだった。しかしいつその手がどこへ下ろされるか分からない。影山にとってはおそらく然して意味のない行為であっただろうが、鬼道にとっては、恐怖の対象になりうるのだった。
清々しい月曜の朝、彼女は父に、ありったけの勇気を振り絞って言った。
「ん? 影山さんに来て頂くのをやめたい?」
滅多に我儘を言わないため、たまのお願い事は聞き入れられることが多かったのだが、その表情だけでも、父には鬼道の気持ちや理由が全く伝わっておらず、理解されていないのが分かった。
「はい……影山総帥はお忙しいので、お手を煩わせているだけだと思うんです」
「そんなことはないだろう。それに、元々は彼の方から話をくださったんだ。良い機会に恵まれているのだから、ご厚意に甘えておきなさい」
寧ろ誤解されたらしいことは明らかだった。もう言い訳に使えそうな理由がない。だが真実を伝えるのも憚られる。何かが起こったわけではないのだ。かといって下手に作ろうものなら、敏い父は気付いてしまうだろう。だが今は、そこまで考えていないようだった。
「そんなことより有奈、土曜日のことだがね――」
土曜日の昼は、とある資産家の家族と夕食を共にする予定になっている。その御曹司は一つ年上で、結婚相手に丁度良いと大人たちは目論んでいるらしい。レストランの候補を挙げる父の声を聴きながら、鬼道は憂鬱になった。
父には養ってもらっている恩があり、無理や我侭を言えない。今まではそれでいいと思ってきたが、これからはそうはいかない。知ってしまったのは、誰も教えることのできない人類最高の感情。イヴは林檎を食べたのだ。



***



空になった弁当箱を元通りにきちんと包み直し、箸と共に弁当用の小さいトートバッグにしまって、鬼道はふぅと小さなため息をついた。窓の外は朗らかな陽気で、爽やかな空に雲がぽつりぽつりと流れている。
今日は携帯電話が静かだ。今日は朝から、友達がコーチを行っている中学校へ、冷やかしがてら助っ人に行き、一日サッカー三昧し、その後飲みに行くと言っていた。夜まで携帯見る暇も無さそうだからいっそのこと送らないでくれ、でも送ってくれなかったら寂しくてしんじゃうなどと書いてあったメールを見て、馬鹿じゃないのかと返したのが朝、家を出る前のこと。数秒でヒドイという三文字と泣いている顔文字が返ってきて、もう放っておいてやろうとしばらくそのままにしてある。忙しいと言っていたのは向こうだ。
基本的に来たメールに対して返事をする必要がある場合のみ送っていたのだが、毎日五通から十通以上やり取りしていると、いつもそこにいるような気になる。メールが来ないということは、側にもいないということだ。
そんなことを考えている自分が馬鹿馬鹿しくなってきて、またため息をついた時、ピロリーンと電子音がした。怪訝な顔を上げて横を見ると、携帯電話を持った佐久間が、興奮した面持ちで立っていた。
「ごめん、あまりにもきれいだったから……」
「は……?」
照れた様子で、佐久間は今撮ったばかりの写真が表示されている画面を見せてきた。そこには、うっとりと物憂げな睫毛を伏せ、瞳はどこか遠く、かたちの良い健康的な桃色の唇はため息をつくためわずかに開いて、それはなにかを待っているようにも見え、それらの要素によって元々の容姿からさらに光輝を増した、少女の完璧な瞬間が写っていた。
しかし鬼道にはただ自分が、どちらかと言えばだらしない顔で写っているだけにしか見えなかった。
「勝手にひとを撮るな。許可のない撮影は肖像権の侵害になるんだぞ」
「たのむ……! たのむよ鬼道! 消さないでおねがい!」
まだ何も言っていないのに謝り始める小賢しい子供のように頭を下げる佐久間を見て、怒る気も失せてしまった。
「別に構わないが……そんなもの、どうするんだ?」
「家宝にする」
真顔で即答してくる時の彼は、経験から言って真剣そのものであり、決して冗談ではないどころか、その真意を疑おうものなら返り討ちに遭うほどだ。
「勝手にしろ……」
ほとんど応対に疲れて諦めたといった様子には気付かず、佐久間は上機嫌で自分の世界に入っている。ぼんやりと彼と、他のクラスメイトの男子たちのくだらないやり取りを眺めながら、鬼道はさっき見たその写真のことを考えた。前回写真を撮ったのは、正月に親戚が集まった時だ。さっき久しぶりに外から見た自分は、たった半年程度とは言え、確かにずいぶん大人びて見えた気がした。まるで、別人のようだというのは、些か言い過ぎだろうか。
そういえばと昨日のことを思い出す。いつものように家の居間で見てくれたバイオリンの先生が、「音が変わった」と言っていた。どう変わったのかは詳しく教えてくれることはなかったが、それは悪い方向ではないようだった。
先生は物静かで温厚な男性で、しかし七十歳だというのに細い体躯はしっかりしており、ひとたび舞台で楽器を構えるとまるで人が違ったように見えるのを、鬼道は知っている。
よく分からないまま礼を言って、ベートーヴェンの音符に込めた感情を表現する事に集中したが、今思えばあれも、自分の変化を示したいくつかの出来事のうちの一つだったのだ。
さすがの鬼道も、もう認めないわけにはいかなかった。



***



どんよりと曇った空を窓越しに一瞥し、廊下を進む。鬼道は校長室のスモークガラスドアを、中指の第二関節で叩く。去年の改装工事から自動で開くようになったドアはごくわずかな音をたてて戸袋へ入り、影山がデスクに対して横向きに座っているのが見えた。
「総帥、お呼びですか」
「入れ」
言われた通り、とりあえず中へ入る。背後で静かにドアが閉まった。この部屋はいつ来ても殺風景で、何の音もしない。本棚に置かれた小さな地球儀だけが、唯一のオブジェだ。
影山はしばらく、鬼道を眺めているのか、黙ったまま動かなかった。尖ったサングラスに覆われた猛禽類のような目は、それでも最近は入学当初より丸くなった気がする。
「鬼道。もう私に来なくていいと、言ったそうだな」
足の下から聞こえるような低い声に、血温が二度くらい下がった気がした。
「いえ、来なくていいとは――」
「私が忙しいからだと、そう聞いた」
まさか少しでも疑ったことが伝わってしまったのだろうか。鬼道はできるだけいつものやわらかい表情を保とうとしながら、次の言葉を待った。
「鬼道、おまえは実によくできた人間だ。賢く、強いだけでなく、思い遣りがあり、何より美しい」
影山が立ち上がり、鬼道は咄嗟に逃げなければと思ったが、足がすくんで動けない。近付く影山は何をするでもなく、獲物を品定めするかのように鬼道の周りをゆっくりと歩いた。
「私はおまえのような人間に、持ちうる全ての知識を与えるために存在している」
足音が背後で止まる。血が通っていないのかと思うほど冷たくて大きな骨ばった手が、鬼道の両肩に置かれた。
「何も遠慮することはない。寧ろ、もっと積極的に求めるがいい。私の与える全てを、おまえなら理解できる」
部屋が狭く感じ、目眩がしそうになって、鬼道は身を翻し、影山から二歩離れた。
「しっ……失礼します!」
一礼だけは忘れず、そのまま逃げるようにして出てきた。廊下は出来る限りの速足で、校舎を出てからは慌てて見えないようにやや速度を落とし、脇目もふらず真っ直ぐ校門を出て、しばらく行ってから雨が降っていることと、参考書を入れたバッグを忘れたことに気付いた。参考書は明日の朝まで無くても困らない。今校舎へ戻ったら、影山と鉢合わせしそうな気がする。
鬼道は家へ帰ろうとしたが、家へ帰っても誰にも話せず、話したところで到底理解してもらえそうにない。だがこんなところでウロウロしているわけにはいかない。気付けばポケットから、携帯電話を取り出していた。
[いまどこだ?]
駅まで行くべきか考えるが、雨足が強くなってきている。折り畳み傘は置いてきた方のバッグに入っていて、戻るには気力が足りない。とりあえずコンビニで雨宿りすることにした。不動は意外にも、すぐ返事をくれた。
[雷門出たとこ。これから皆で飲み行く。スゲー降ってるな。そっちは?]
鬼道は震えそうな冷えた親指を動かす。しかし打った文面どれもが荒唐無稽に思え、三回ほど全文を消した後、気がつけばコンビニの軒先で電話をかけていた。
『ハイ』
「不動」
雨の音がノイズのように聞こえる。
『なに、どうかした?』
「帰りたくない」
『はい? ……どこに』
「家に」
『なんで……』
鬼道は答えを探した。はっきりと何でかは分からなかった。適当な言葉を見つけるより先に、電話の向こうで不動が、やれやれといった様子でため息を吐くのが聞こえた。
『今行くから、ちょっと待ってろ。今どこにいんの?』
声色が変わった。
「だ、だが……おまえは用事があるんだろう」
『んなん、どうにでもなるよ。有奈ちゃんがフラフラしてる方がヤバイだろ。帰りたくないだか何だか知らねえけど、とりあえず話くらいは聞いてやれっから、な』
諭すように言われ、何か恐ろしいものに首を突っ込もうとしている気がしながらも、駅名を伝える。こんな日にこんな状態で会ってはいけない気がしたが、もう遅い。それに不動の声は演技などではなく、本心から発せられるしっかりした声だった。
『了解。ちゃんと待ってろよ、すぐ行くから』
小さな返事をして電話を切ったあと、鬼道は駅まで向かった。小走りでも五分ほどかかり、着いた頃にはずぶ濡れになってしまった。濡れた制服はじわじわと体温を奪い、太陽が照れば夏のように暑い日もあったというのに、ローファーの中と指先は凍えるように冷えてきた。けれど、耳に残る声が彼女を支えていた。



つづく







2014/10

戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki