<眠れぬ森のツンデレラ 第七話>



※佐久→鬼







家に帰ったら怒られるかと思っていたのに、父は顔を見るなり、大きな手で強く抱き締めてくれた。溢れる涙が頬を温めるのを感じながら、鬼道は父の胸に体を預ける。
「もう少しで警備に連絡するところだったぞ」
「心配をかけて、ごめんなさい……」
父はボディガードたちを下がらせ、メイドに紅茶を淹れさせた。鬼道の好きな銘柄は、口元へ近付けただけで香りに癒された。二人並んで、やわらかい焦げ茶のチェスターフィールドソファへ腰掛ける。
「おまえには色々と苦労をかけているとは分かっているが……何か悩んでいるのなら、できれば話してくれ」
「はい……」
肩を抱いて、父は静かな優しい声で言う。鬼道はにじんだ涙を指で拭い、ちいさく咳払いをした。
「その……少し、自分が分からなくなってしまって。でも、もう大丈夫です」
父は納得して、長く静かに溜息を吐いた。少し沈黙が訪れ、鬼道は紅茶をひとくち、口に含む。ベルガモットの香りと高貴で優しい苦味の中に混ざるほのかな甘みは、今の鬼道の心情によく似ていた。
「不動君と一緒にいたそうだな」
ぎくりとしたが、帰る道すがら考えていたままを話す。
「ものすごい雨が降ってきて、私、傘を忘れてしまって。ちょうどそこに不動さんが通りかかって、雨宿りさせてくれたんです。あっ、あと夕飯をご馳走してくれました!」
「そうか……彼には何かお礼をせねばなるまい。お前からしなさい。それから、いくら知っている人とはいえ、男の人と二人だけでいるのはあまり良くないからな、気をつけるんだぞ」
「はい」
あどけないふりをして、やり過ごす。父は困ったように微笑んだあと、書斎へ引き上げて行った。いつもより数時間帰宅が遅れただけなのに、何日も家出していたかのような空気が自分の中にもあり、嘘をついたわけでもないのに、妙な緊張感の後味がムズムズする。
とりあえずは胸をほっと撫で下ろし、自室へ戻った鬼道はメールを打った。
[父は何とか大丈夫そうだ。今日は色々と助かった、ありがとう。有奈]
それ以上何か言うことはないのかと自分の語彙力の無さに悶絶しながら待っていると、少しして返事が来た。
[良かったな。こんど家出するなら天気のイイ日にしろよ(笑)あったかくして寝ろよ~]
くだけた調子の文面に、思わず笑みがこぼれる。しばらくそのまま画面を眺めていたが、ふと我に返り携帯電話を閉じた。思っている以上に強張っていたのだろう、一気に疲れが出てきて、すっかり乾いた制服のままベッドに横になる。あの時触られた手の感触は、いやらしいものではなかった。一瞬何が起こるのかと身構えたが、このまま低俗にいけないコトをされたとしても、彼になら構わないと思ってしまった。それに気付いたいま、鬼道は頬をバラ色に染め背を丸く縮めて、布団に顔を半分埋める。眺めた窓の外で降り続く雨は、やや弱まっていた。



***



帝国ホテル最上階を半分ほど占めているラウンジ・バーからは、飾り立てたわけでもないのに夜にきらめく都会が一望できる。入り口にトリコローレのリボンと木の樽や空のワインボトルを飾り、小洒落たイタリア風を醸しているその入り口の前へ、予約した時間の5分前に着いた。今夜の面子は、ここ一週間日本に滞在しているヨーロッパサッカー協会の役員と、所属していたイタリアチームの監督、そして日本サッカー協会の会長という、重圧のかかる雰囲気だ。気合を入れる為なけなしの預金で新調したグレーストライプの三つ揃いは、彼の引き締まった体をしなやかに包んでいる。プロになった時に買った茶色い革靴は、家からタクシーまでと、こういった絨毯張りの道くらいしか歩いたことがないため、いつ見ても新品のようだ。
予約した会長の名を告げると、案内係はすぐに笑顔を浮かべた。不動は後ろに誰かがいないかと、いつもの癖でエレベーターホールを振り返った。ちょうどそこに、数人の客がレストランのある方向へ歩いていくところが見えた。恰幅の良い金持ちそうな中年男性と、すらりとした長身でいかにもどこかの社長といった風の中年男性、その子供らしき中学生の少年と、少女。当然ながら不動の方には目もくれず、談笑しながら歩いて行く。
少女は鬼道有奈だった。メレンゲのような淡い黄色のワンピースはシフォンとレースで飾られ、遠目に見ても分かるやわらかい髪には同色の造花を挿し、はにかんだように微笑を浮かべていた。
「お客様?」
「ああ……すみません」
案内係について奥へ行く。ずっと迷っていた優柔不断な心を、どのレールへ乗せるか決める時が来たようだ。不動は最後の迷いを捨てた。都心部の夜景に煌々とそびえるガラス張りのこの塔から、真っ逆さまにコンクリートまで。
思い描いた夢を現実にするためにここまで来た。もう迷っている暇はない。不動は口元を程よくゆるませ、自分の将来を握る三人の神々に、少々の遅刻を詫びた。



***



あれから数日、メールが来ない。朝起きても、昼休みになっても、夜になっても、携帯電話はうんともすんとも言わなくなってしまった。たまに着信を知らせたかと思えば、佐久間や春奈からの他愛ない話やちょっとした連絡だ。
ひょっとして、嫌われたまではいかなくとも、こんな中学生の相手など飽きてしまったのかもしれない。それなら中途半端な態度を取らないで欲しいものだと思い、今まで感じていたささやかな好意は都合のいい勝手な解釈に過ぎなかったのかもしれないという考えに至ってしまった。
思考に没頭していた時、佐久間が隣にいることを思い出したのは、彼が話し掛けて来たからだった。
「二人きりだな、鬼道……!」
「ん? そうか?」
そう言われてみれば確かに、周りには誰もいない。佐久間はもじもじと鞄の持ち手を親指で撫でた。
「き、き、鬼道はさ、……キスとかって、したことあるか?」
「……なぜ聞くんだ?」
さっきから態度がおかしいのだが、その理由が分からない。
「まだだよな! だったらその……俺としてみたりしちゃったりなんかしないか? ほら何ていうか、練習っていうかさ」
呆然と、彼の言っている事を理解するまで、鬼道は彼の、焦燥が色濃く滲んだ目を合わせない苦笑顔を眺める。結局、理由の解明はできそうにないが、今どうすべきかは判断できた。
「佐久間」
明後日の方向を見ていた佐久間が、バッと視線を合わせる。それを真っ直ぐ真摯に見つめ返して、鬼道は言った。
「お前はそこら辺の野蛮な男になってはダメだ。私が好きなのは、いつものお前なのだからな。背伸びせずにそのままのお前でいればいいと思うぞ」
見る見るうちに佐久間の顔が輝き出し、眩しいほどの笑顔になっていく。
「……っああ!」
上機嫌になったことで悩みが無くなったのか、佐久間は普段通りに他愛ない話を始める。今日起こったバカバカしいが微笑ましい些細な出来事、見たり聞いたりした珍しい話、クラスで盛り上がった話題や世間のニュースを織り交ぜ、佐久間は彼なりの一言や意見を付け加えて興味深い話に持っていく。
いつもは楽しい彼との話が、今日はほとんど耳に入って来ない。佐久間とのやり取りによってだとは思っていなかったが、鬼道は自分の気持ちに気付き始めていた。そしてそれが本当なのかどうか、確かめようとも思った。



つづく




2014/10

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