<夜明けの王と紅月の鬼 二十六>




 一時間ほど歩いただろうか、やっと鬼道は足を止めた。森の奥深く、ほとんど人も通ったことのないような区域のようだ。
「有人の旦那?」
 急に足を止めたにしては、周りに何もないのを不思議に思い、不動は声をかける。鬼道はやや耽っていたらしい思考から覚め、不動を一瞥して再び歩き出した。後を追うと、深い森の中にぽっかりと空いた小さな原に出た。
 真ん中に厳かな一本の木が立っていて、その周りはさながら大広間のように、しかし木々が密集した森の中とは違ってすっかり、乾いた地面が見えている。
「これか?」
「ああ……」
 立ち込める邪気をそれほど感じていないのか、構わず近付いていく鬼道を止め損ね、気分も悪くなって不動は顔をしかめる。黄泉の国へ通じているような異常な気配が漂っていて、近付くことすら憚られたというのに、主人の感覚が鈍くなっていることを案じ不動は言う。
「旦那、妙だぜ」
 枯れ枝を僅かに残すのみとなった一本の幹は、黒々として中はがらんどうであり、生命の僅かな痕跡さえ感じられなかった。乾いた、触れれば砕けて灰になってし まいそうな樹皮にそっと指先をかざし、鬼道は目を伏せる。その表情がまだ見たことのない類のもので、不動は少々動揺した。そこには何とも形容し難い、悲哀 と慈愛の追憶が色濃く漂っていた。
「桜なんだ。実に、見事な花を咲かせた……もう、昔のことだがな」
 立派な枝があった虚空を見つめ、呟くように鬼道は言う。
「さすがに、もう……」
 苦痛に耐えるような鬼道の様子を見守っていることしかできず、不動は僅かに狼狽を覚えた。
「これがアンタの弱点?」
 尋ねると鬼道は沈黙によって肯定した。不動は困惑して足下に視線を落とす。芝は枯れている上にまばらで、栄養の無さそうな土が目立つ。知りたいことは沢山あるのに、鬼道は喋らない。
 何か声をかけるべきか思案していると、妙な違和感が再び襲ってきた。不動の意識を蟻が這うよりも僅かに刺激するそれは、明らかに何者かの気配だ。さすがにそれは鬼道も感じて顔を上げ、何が原因であるのか二人が周囲を探った、その時だった。
「危ない! 鬼道さん!」
 彼にも視えたのだろう、後を追ってきたらしい佐久間の声が響いた直後、不動の頬の横を勢いよく何かが通っていった。咄嗟に抱きしめるようにされて体を縮め、枯れ桜の幹に身を寄せる。風を切る音と鈍い音が連続し、見ると頭上の幹と鬼道の肩に一本の矢が刺さっていた。
 不動が口を開く隙もなく、表情を変えず矢を引き抜いて鬼道は立ち上がる。森に潜んでいる人影を捉えて睨んだ。
「誰だ!」
 佐久間が叫んで敵を見据えながら、攻撃が休んだ隙に鬼道の元へ走り寄って来る。
 弓矢を構えながら、人影は陽光の下に姿を現す。不動は彼女に見覚えがあった。
「こんなところに、“紅月(あかつき)の鬼”が居たとはね……もう隠れん坊はおしまいよ」
「てめえ……っ! あン時の!」
 叫んだことで初めて不動が目に入ったらしく、瞳子は驚愕した。構えは崩さずに、不動と鬼道を交互に見る。
「君は……なぜ、ここに居るの」
「それはこっちの台詞だ!」
 的を外れ地面に刺さっていた矢を引き抜いて武器に見立て、不動は身構える。その肩を掴み、鬼道が囁くように言った。
「止せ。お前に人は殺せない」
 言葉に拘束されるような感覚をおぼえ、不動は眉間に皺を作った。震えないよう拳を強く握り、嘲笑的に口角を少し上げる。
「そりゃアンタの方だろ」
 微かに見開いた赤い目を一瞥する。苦笑して返そうとした言葉は肯定と否定どちらだったのか、今まで敵の様子を見ていた佐久間が何も知らず割り込む。
「あの女、人間のくせに高度な術で気配を消している。どうりで視えなかったわけだ。並の退治師よりは力があるようだけれど、所詮、鬼道さんの敵ではない。どうする?」
「ふむ。一人に思えないな」
 思案する鬼道の視線の先で、瞳子は弓に矢をつがえたままゆっくりと前進する。佐久間が身構え、一歩前へ出た。彼は柔術と幻術を操るため、武器は必要ない。
 瞳子は安全な――と思われる、間合いを取って立ち止まり、よく通る声で言った。
「“白月(しろつき)の鬼”の居場所を教えれば、仲間は見逃す!」
 身動きひとつせず、佐久間が応える。
「引け。貴様の方が圧倒的に不利だ」
「オニを根絶するのが私の使命。引き退がるわけにはいかない。喋らぬ口は無用!」
 瞳子が放った他に数本の矢が左右からも飛んで、一本が鬼道の袖を桜の幹に縫い留める。残った矢は鬼道の足元を囲むようにして刺さった。佐久間が瞳子の弓を奪おうと拳や脚を繰り出すが、かわされる。
左右の森から現れた男二人に、気付いてからでは一瞬遅かった。
「鬼道さん!」
 振り向いた佐久間は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、矢と矢を繋いで電流のように封印術が展開し、弾き飛ばされてしまった。
「ぐぁ……!」
 鬼道の体に神々しき雷が流れ込み、四肢の動きを止める。駆けてきた男が抜刀し、もう一人は佐久間に矢を向けている。しかし刃を鬼道の首に降り下ろす前に、不動が足下の矢を引き抜き二つに折った。注がれる力が弱まった一瞬をついて鬼道が封印術を無効化し、全ての矢が砕けて飛び散る。
「ば、馬鹿な……」
 今までこの封印術を破られた事は無く、常にこのやり方で妖怪をほふってきた三人の退治師たちが茫然とするのを前に、鬼道は小さく息を吐いた。
 不動は安堵にそっと胸を撫で下ろしたが、背後で桜の木から放たれる邪気が増し、深淵からの鼓動を聞いたような気がして、戦慄を覚える。一刻も早くこの場所から離れたいと、本能が叫んでいる。
 妖怪であれば触れられないはずの矢を折った不動の能力に困惑して、矢を構えた黒い長髪の男が問う。
「貴様、何者だ?」
「ヘッ、そんなもん、どうだっていいだろ」
「オニに加担するのなら敵だ。お前から始末してやる」
 より好戦的な白い髪の男に刃を向けられ、不動は体を強張らせる。
「指一本でも触れてみろ。ただではおかない」
 鬼道の、静かだが強い声が響いた。
 不安げな佐久間と物言いたげな不動を背に回して、現世最強のオニたる鬼道が退治師たちの前に立ちはだかる。その目はいつかの戦火が甦ったかのように赤々と燃え、見る者の魂までもが、厳かな畏怖によって灰になるがようだった。
「待つんだ!」
 今にも凄惨な地と化してしまいそうな原へ、さながら天の使いのごとく現れたのは、白金の長い髪、純血の中で精製された宝石のような瞳を持つ、唯一不老の術を施された長寿のマオニ、“白月(しろつき)の鬼”こと照美だった。隣には、源田の背から滑り降りるヒロトとリュウジの姿も見える。
「照美……?」
 鬼道が驚愕に呟いたそれよりも、大きな声が言った。
「姉さん!」
「ヒロト……」
 瞳子も先程より驚いたらしく、思わず弓を構える手の力が弱まった。
 部下の男二人は相変わらず、ほとんど意味はないと知りつつも念のため鬼道に武器を向け続けている。そこへ彼らを威嚇しながら、源田がその巨体をもって立ちはだかった。
 ヒロトは彼女の近くへ駆け寄り、リュウジも後を追う。
「姉さん、やめて! どうしてこんなことするんだ」
「ヒロト、退がっていて。大勢を餌食にし、私の家族までも滅茶苦茶にした残酷なオニ! 絶対に許さない!」
 照美に向かって矢が放たれたが、リュウジがそれを超人的な反射神経でもって掴み取った。彼も成長していたが、放たれた矢もまた最初の勢いを失っていた。
「僕が望んだんだ!」
 両手を広げ、ヒロトは表情を歪ませる。
「照美様は僕たちを助けてくれたんだ。このひとに、ついていこうと思った。鬼道師匠もみんなも、僕たちに力を貸してくれたんだ。オニっていうのは本当は、姉さんや皆が思ってるようなのとは違うんだよ! 誇りと調和を大切にする、自然の守り神なんだ!」
「貴方たちは、妖術に惑わされているのよ……」
 隣にいたリュウジが首を振った。
「俺たちは自分で選んだんだ。家を継ぐ義理はないし、俺たちにはやるべきことがある。姉さんも、こんなこと、本当は嫌だろ?」
「私はただ、貴方たちのために……。いいえ、この世界から邪悪なものを絶つためよ!」
「もう邪悪なオニなんていないよ! それに、妖怪を退治するからと言って森を傷めているのは姉さんたちのほうじゃないか。こんなの、間違ってるよ」
「もう、意味のない戦いはやめよう。姉さん」
 宥めるヒロトとリュウジを前に、瞳子が呆然と震える手を下ろした時、辺りに立ち込めていた邪気が動き出した。彼女の負の気に誘われたのか、否、先程から漂っていた邪気は鬼道がここに来た時から刻々と強度を増していて、桜の木に集束し、今や黒々と肉眼に見えるほどだ。
 そのおぞましい煙のような中に、ぼんやりと背の高い痩せた男の影が浮かび上がる。それが誰なのか、知っている者はこの場に二人しかいなかった。
「師匠……!」
 照美が叫び、鬼道は驚愕して振り返る。不動はその影が鬼道に屈み込むのを見た。
「キドウ……マッテイタゾ……」
 木が身悶え、枯れている筈の枝を震わせる。その恐ろしい音は明らかに危険であると全身が警告していたが、何故か足が動かない。元より怖いもの知らずで通っていた不動だが、心底の恐怖を今初めて感じていた。
「逃げろ!」
 不動と佐久間を突き飛ばした鬼道の体を、黒い枝が絡め取る。
「えっ……旦那!」
 振り向くと、鬼道と目が合った。
 刹那の中で全てを悟った赤い目は、強い意志を伝える。この時、その意味はすぐには分からなかった。それは直後に自らを覆う絶望を知っていてなお、ただ一人を信じている目だった。
 伸ばそうとした手が届く前に、鬼道の胸を黒い枝が貫いた。枝は何者も寄せ付けぬ怒涛の勢いで伸び曲がり、そのまま鬼道の体を取り込んでいく。朽ちて崩れかけた木は今や強大な妖力を得ておぞましい同体となり、醜悪で残忍な姿がそこにあった。顔の半分ほどしか見えない鬼道は、まるで千年前からそうして封印されていたかのように、木彫像のよう だった。
 辺りは静まり返り再び陽光の明るさが戻って、まるで最初からただの枯木が佇む和やかな広場であったかのように、立ち込めていた邪気は雲散霧消してしまった。しかしそこにある景色は異常である。重なった枝の隙間から見える顔は、眠っているだけに見えるが、愚かな希望だろうか。不動と佐久間は枝を引き折ろうと飛びついたが、手が届く前に強烈な力で弾き飛ばされてしまった。
「き……、鬼道さ……っああああああ!」
 立ちはだかる虚無の前に呆然とする不動の横で、佐久間の叫びが晴天の空に響く。駆け寄ってきた源田が寄り添い、膝から崩れた佐久間の横で、不動は拳を強く握り締める。
「てめえ……何しやがった!」
 振り向いて瞳子に掴みかかり叫ぶが、彼女の目はこの場の全員と同じく恐怖と驚愕を浮かべていた。
「私じゃない!」
 ヒロトに肩を掴まれ、不動は突き飛ばすようにして手を放す。
 もう一度振り仰ぐ。悪い夢や気の狂った幻覚ではない。下の方に少し見える足が、日々恋焦がれ己の目に焼きつけたまごうことなき彼の足で、残酷な事実の証明となっていた。
 不動は再度、枝を折り曲げようと手を伸ばしたが、やはり触れる前に強烈な力ではね返された。地面に投げ出され、起き上がろうとした目の前に、銀色の光が輝 く。彼の角だと認めたくなくて、すぐに掌に隠す。冷たく硬い彼の一部を握り締め、立ち上がって改めて怪物のような木を眺めた。
「嘘だろ……」
 唐突な喪失感に立ち尽くす不動を、鬼道が残した温もりが包み込む。後悔と疑惑の狭間で、ひたすら待ち続けた。だが、晴天の空の下に広がる気は一点の曇りもな く、全てが終わったのを認めるしかないことを昂然と突きつけてくる。震えるこの想いは伝わっていただろうか。彼は少しでも、幸福を感じただろうか。
確かに寄り添っていたかもしれない。確かに笑っていたかもしれない。囁いた言葉はどれも優しかった。
しかし、不動は認めることができなかった。こんな結末は許せない。目を擦り、不気味な桜に背を向ける。
「貴様、よくも……これが望みか!」
 暴れる佐久間を抑える源田を見て、照美が渋い顔をする。源田は佐久間を羽交い締めにして、しかし必死に話しかけていたのは自分で自分へという意味もあったのだろう、彼自身もうち震えていた。
「落ち着け、次郎。照美さんは味方だ。彼のせいじゃない」
 何度も宥められやっと大人しくなった佐久間は、源田の腕を振りほどく。照美は目を伏せた。
「あれは、僕達の師匠――影山だ。……あの人の念が、思い出の濃いその木に残っていたんだな。ずっと、鬼道くんを待っていたんだろう……」
「誰だよ、それ」
 不動が鋭い口調で放った問いに、照美は目を向ける。
「やあ……君は、見ない顔だね」
「オレのことはどうでもいい! アンタ、なんか知ってんだろ? とっとと話せよ!」
「ちょっと、落ち着いて。明王くん」
 照美に詰め寄る不動を、ヒロトとリュウジが押さえて引き止める。
 長い息を吐いて、照美は悲痛そうに不動を眺めた。深紅の瞳は彼の様子から全てを察し、その背後に、囚われとなったかつての好敵手をぼんやりと映して、運命の過酷さに苦笑せずにはいられなかった。
「みんな、一旦彼の屋敷へ戻ろう。こう見えて僕はもう年寄りだからね。落ち着いたところで、ゆっくり説明させてくれ」
 全員、茫然自失となって、声に出して反対する者はいなかった。歩き出した照美を追って、半ば無意識に、感覚のない足を機械的に動かし始める。瞳子はヒロトに制止され、追い続けた敵を目の前に一時休戦するしかなかった。
 自分の全てである決意を地面に突き刺し、源田に促されて不動は背を向ける。意思に反してゆっくりと歩き出す、その足が震えて、自嘲しながら笑うこともできなかった。






続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki