<夜明けの王と紅月の鬼 八>




 鬼道は森の中を歩いていた。川で見た不動の表情が脳裏に焼き付いている。一瞬そこに輝いたのはあるべき自然の姿、偽りの無い自由だった。それで、自分がどれだけ彼を束縛していたのか、考えるようになった。これではただの軟禁生活と変わらない。なぜこんな事になったかと言えば、不動の力を観察、もとい監視するために目の届くところに置いておきたかったからだ。
 だが、どんな能力があるかすら分からない。ただの、少し神聖な血を持つだけの人間じゃないだろうか? 特別な力など、何も無いのではなかろうか? それにしても彼のことを何も知らないままだ。
 責め苛めるかのように、蝉たちが一段と羽を震わせる。このままで良い筈がない。選択をせず曖昧なまま物事を放置したのは、初めてだった。
 ふと物思いから覚めると、森が悲鳴をあげているのを感じた。その原因は退治師たちの使い始めた薬のようだ。妖怪を寄せつけないようにするためのもので、おそらくある一点の場所に追い込んで止めを刺そうとしているのだろう。佐久間など上位の妖怪はこんな物では効かないだろうが、雑魚の数は減らせる。徐々に浸透するよう作られた、土に刺さった木の容器は溶けかけていて、持ち上げようと掴んだ瞬間にボロボロと崩れていく。それは障気のようで指先を火傷したが、そんなことよりも枯れ始めた道の様子が鬼道を傷めた。薬学は発達途中のため、まだそれほど強力なものは作れない。だが、確実に、危機は迫っていた。




 口に火傷した指を咥え、帰ったところを不動に見つかった。
「……指」
「自然に治る」
「いいから出せよ」
 命令口調はこちらの立場の筈なのに、つい従ってしまった。不動は雑草に混じって生えている柔らかい薬草をいくつか摘んできて、縁側に座らせておいた鬼道の指先に巻き、取れないよう糸で適度に縛る。慣れた手つきから、しょっちゅう傷の手当てをしていたことが窺える。今でこそ痣は消え肌は綺麗になったが、よく見れば小さな古傷は無数に残っている。傷の意味を考えているうちに、不動は礼を言う前に不貞腐れたまま行ってしまった。廊下ですれ違っただけなのに、よく細部まで見ているものだ。
 ほんの少しひんやりするような感覚が気持ち良い。何もしなくとも放っておけば治るのに、と思いながら、患部の熱が冷めるまでそのままにしておいた。いつもより治りが早かったのは、そして心地好かったのは、決して気のせいではない。




***




 川へ釣りに行くようになって、数日が過ぎた。最近は鬼道は一緒に来ない。だが用が済んだらすぐに帰れと、やたらと釘を刺されている。特に反抗する理由も無かったため、不動はその言い付けを守った。
 ある日の朝、いつも通り釣った魚を籠に入れ帰ろうとした時、後ろから声がした。
「立派な鱒(ます)ね! この間も見かけたけど、近くに住んでるの?」
「えっ」
 思わず驚いて、獲物を落としそうになった。見れば、色褪せて所々ほつれた着物に前掛けをつけている女が立っている。歳は不動と同じくらいだろうか、淡い藤色の長い髪を低く結い、擦りきれた草鞋(わらじ)を履いて、いかにも山の中の村娘といった格好だ。だが、珍しく色白で上品な顔をしていた。着物が良ければ、どこぞの姫君でも通るかもしれない。
「最近よく見るけど、新しく越してきたひと? どこに住んでるの?」
 思わず、後退りする。先に気付かれていたとは不本意だ。不動の身なりは、地味な色だが付近の住人にしては上等な生地だった。売れば多少の金にはなるだろう。不動は経験から、どんなに優しそうな美人でも、自分と歳が変わらない女でも、気を許してはいけないと学んでいた。
 身構え、面倒な事になる前に逃げようかと思った時、彼女が顔の前で両手を合わせこう言った。
「お願いがあるの! 私にも獲って貰えないかな?」
「は?」
 不動が眉間にシワを寄せ身構えていることなど目に入っていないかのように、彼女は頭を下げる。その姿から真剣さ、一生懸命さを感じて、断るのもどうかと思ったが、助けてやる義理はない。信用できないのも理由の一つだが、一番の理由は他人の事情に巻き込まれることが面倒だからである。不動は常に、関わらないで済む件は避けて生きてきた。
「自分でやれよ。腐るほどいるぜ」
 川を示して歩きだしながら言うが、彼女は不動の進行方向へ回って食い下がる。
「お願い……お礼ならするから! 明日の朝、領主様の使いが来るんだけど、お土産がないと私がお屋敷へ行かなきゃいけないの……」
「オレじゃなくても良いだろ、忙しいんだよ」
「お父さんは村一番釣りが上手いけど、いま病気で動けないの。このままじゃお父さんは一人になっちゃう……お願い、助けて。あなたも釣るのが、すごく上手だから。お願いします」
 何かと理由をこじつけ、若い娘を連れて行くのは珍しい事ではない。かといって、まだ嘘ではないとは限らない。だが詰め寄られ、澄んだ翡翠のような瞳でじっと見つめられて、つい肩の力を抜いてしまった。悪い人間には見えない。
「ったく、仕方ねぇな……礼は弾めよ」
「ありがとう……!」
 ぱあっと笑顔を咲かせる彼女から、慌てて目を逸らす。
「善い人なんだね」
「さぁな」
 釣針を放って、手繰りながら無関心に返事をする。
「わたし、冬花。あなたは?」
「もう二度と会わないんだから、どうだっていいだろ」
「もう二度と会えないの? それなら尚更、記念に教えて?」
 柔らかい微笑を崩さない、風のような女だ。漂っているだけで、自然に心の覆いを吹き飛ばそうとする。不動はわざとらしくため息をついた。
「明王」
「すてきな名前」
 以前も女と関わったことは何度もあるが、同じ年頃でも男のような言葉遣いで粗野な女ばかりだったことに対し、冬花は貧しい身なりで境遇も良いとは言えない筈なのに、随分と物腰が違う。
 不動は数十分で順調に、活きの良い大物を釣り上げた。
「ほら、これだけあれば領主様も文句は言わねえだろ」
「うちに紐があるわ、一緒に来てくれる?」
 できればすぐに帰りたいが、仕方がない。籠ごと貸すわけにはいかないし、彼女一人では、まだ息のある立派な魚を六匹もいっぺんに持って帰れないだろう。そう遠くはないだろうと踏んで、頷いた。
「ああ」
「本当にありがとう、明王くん! 神様がわたしのことを助けてくれたのかも」
 にこにこと上機嫌で話す女に、どう返せばいいのか困って黙ったまま砂利道を歩いていく。身勝手な女だ、と思った。
 川を渡って畑を横切り、村の端にある一軒の家へ着いた。
「さあ、ここがわたしの家よ。ちょっと待っててね」
 玄関で不動を待たせ、冬花は家へ上がって奥へ消えていく。小さな古い家だが、綺麗に掃除してあるようだ。周りを観察していると、控えめにしていたつもりでも他の家から目線を感じて、居心地が悪くなった。余所者は珍しいのかもしれない。こんなに近所に住んでいるのに、とちょっと可笑しくなった。
 蝉の声に混じって、家の奥で話し声がする。きっと父親だろう。じわり、と高くなった太陽の熱を感じる。もう戻らなければ。
「お待たせ」
 顎に穴を開けて、渡された麻紐を通す。纏めて持ち上げると、魚は献上品らしくなった。
「ねえ、これ、すごく美味しいから持っていって。お礼は改めてするから」
 冬花が差し出したのは、新鮮で大きな八朔が六つ入った籠だった。どうせ断ると五月蝿いのだろう、と不動は大人しく手を伸ばす。
「一つでいい。オレだけだから。それに、礼ならこれで十分だ」
「そう? 遠慮することないのに。沢山採れるし」
 不動は八朔を一つ掴み、「じゃあな」と踵を返した。
「えっ、待って! お昼、食べていかない? お父さんが是非って。わたし達父娘の危機を救ってくれたんだもの、こんなのじゃ足りないわ」
 やはり面倒な事になった、と溜め息をつき、不動は振り返る。
「いいって、別に。オレは忙しいんだ」
「良くないわ、……あ! じゃあ、明日またお昼に来て? お昼頃なら、きっと使いの人も帰ってるし」
 しつこい女だ、と思う。しかし、笑顔が眩しいくらいに輝いて、つい見入ってしまうような魅力を持っていた。
「暇だったらな」
 来ないつもりで、不動はまっすぐ帰路を歩き出す。冬花が後ろから叫んだ。
「待ってるからね!」
 これで村全員が、余所者の少年の存在を知ったことになる。
 頭の中が、やや混乱状態に陥っていた。早く屋敷へ帰らねばと気が急いて、自分の分を釣り損ねたことに屋敷が見えてから気が付いた。




***




 陽光の差し込む廊下を、鬼道がゆっくりと通りすぎていく。ピンと尻尾を立てて堂々と歩く猫のようだ。不動は箸を置き昼食の終わった口周りを舐めつつ、開け放した襖の間を悠々と歩く横姿に見惚れて、我に返る。
「ごちそうさま」
 ちら、と鬼道がこちらを見た。
「なんだ、今日は釣れなかったのか」
 思わず膳を持ち上げる手が跳ね、わざと持ち直したように見せて誤魔化した。
「ああ……手が滑って。面倒臭くなった」
 不動が立ち上がるのを見ながら、鬼道は鼻の奥で相槌に鳴く。そして、いつものように縁側に腰かけた。
 ただ何となく目に止まっただけだ。川で誰に会ったかなど知る筈がない。そう思うのとは逆に、別に知れたって何があるわけでもない。どうでもいいじゃないか。そう考える自分もいて、不動は両方を叩き斬るかのように、ひたすら木刀を素振りした。
 排他的に生きてきた自分が、ちょっと親切にされたくらいのことで、身を案じるのか。随分と都合の良い綺麗事だ。精神統一を意識すればするほど、混乱に縛られていくのを感じ、空を斬る。鬼道は口出しせず、静かに眺めていた。




続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki