<鬼百合は折られる>





かくして花は散らされた。皆が敬い崇め、賛美し、愛した光輝の花を、不動明王はいともたやすくもぎ取って奪ったのである。
だが、明言した通り彼は一言も口に出さず、また事件を仄めかすような行動は一切取らなかった。
それに気付くのは当事者のみである。真後ろの席に不動は毎日座っていたが、顔を合わせることもなく授業が終われば消えていた。
鬼道は不動が口を閉ざしていることに僅かな安堵を感じたが、このやり取りに終了のチャイムが鳴るまでは苦しみ続けなければならないことも知っていた。
不動に辱められたことは最悪な苦痛だったが、周りの誰にも悟られぬようにするため、いつもと同じ微笑を貼り付けていなければならなかったことも彼女を疲弊させた。
だが何事も無く、時間は無表情に過ぎていった。





昼休みの終了を告げるベルが鳴り響く廊下で、ドンッと効果音が出そうなほど肩をぶつけられ、思わず鬼道はよろめいた。
教室へ向かう途中、隣を歩いていた佐久間が目を見開く。

「大丈夫か?」
「ああ、平気だ」

努めて平静を装う鬼道の横で佐久間は、既に角を曲がって見えなくなった不動の背を睨みつけた。

「ったく、なんなんだ、アイツ!」
「……さあな。それより、早く教室へ戻ろう」

鬼道は再び歩き出しながら、さり気なくポケットに手を入れた。自分で入れた覚えの無い紙片が指先に触れる。
教室に入ると、不動は何食わぬ顔で鬼道の後ろの定位置に座っていた。無表情で冷徹な顔からは、何の感情も読み取れない。強いて言えば、劣悪と虚しさだろうか。
真後ろの存在と目眩に耐えながら、なんとか授業を乗り切った。





第四音楽室の扉の前で、鬼道は立ち止まる。紙片に書かれた内容を、無視するという選択肢も存在した。だが逆らえばほぼ間違いなく、周りの全ての人間に己の痴態が知れ渡るだろう。不動の言葉はただの脅迫ではない。
鬼道は普段から冷静沈着で客観的な物の見方を得意としていたが、現在の初めて対応する状況には自分でも気付かないほどひどく動揺していた。 それ故に、不動の言動に説得力が欠けていることや、行為に何の証拠も無い上、もし公になったとしても被害者である自分に有利に働くはずであるということを失念していた。

「よお、遅かったな。鬼道チャン」

不動はこの前と同じ格好でピアノの椅子に前後逆に座っており、弄っていた携帯電話を閉じると上着のポケットにしまった。
鬼道は自ら、閉めた扉に鍵をかける。単純に他人への警戒からだったが、不動にとっては違う意味も持っていることを思い出す。

「へぇ。さっすが、お利口さんは違うなァ」

久しぶりに聞く皮肉めいた声に、心臓がはねる。自分は彼との一切のやり取りを望んでいない、今日はただ話をしに来ただけだ、そう言い聞かせ必死に平静の綱にしがみつきながら、口の中に溜まった唾液を嚥下する。
ここへ来てしまったことをとても後悔したが、もう遅い。――いや、本当に遅いだろうか? 今から廊下へ出て、全速力で走れば、或いは。

「突っ立ってないでこっち来いよ」

だが、足は動かない。ささやかな抵抗とも取れるだろう、不動は「ったく」と面白そうに呟いて立ち上がった。
目の前に立つだけで、全身が粟立った。不動は鬼道の引きつった頬を撫で、髪の毛を指に巻いて弄ぶ。先日の同じ部屋の光景が脳裏に蘇り、背筋がぞくりとした。

「こないだは楽しかったよな。また来てくれたってことは、鬼道チャンも楽しかったんだ?」
「話があったから来ただけだ」

一瞬で腰を抱き寄せられ、身構えていたはずなのに抵抗する間もなく太ももを冷たい手が這う。
逃げようにも、強く抱きしめられて身動きが取れないどころか、早くも下着が覆う蜜園に辿り着いた指が全身の力を奪ったかのようだ。
もしもの時は股間かどこかを蹴り上げれば、と対策まで考えていたはずなのに、肝心の両足は震えて言う事を聞かない。彼女は勇敢ではあったが同時に、気品と矜持を植え込まれ過ぎていた。

「なっ……何が目的だ。こんなことをして、何になるんだ……っ」
「目的……?」

平然とした態度を意識して落ち着いた声を出したつもりが、思いの外震えた情けない声が出て驚く。予想以上に自分は動揺している、その事実が更に精神を圧迫する。

「そんなモン、聞いてどうすんだよ。てめェはオレさまに服従するしかねェんだ」

そんな鬼道に嘲笑を浮かべ、不動は下着の上から割れ目をなぞる。激しい動悸のせいか、目眩がしたが、胸を押して引き離そうにも、腕力では勝てない。それどころか、どこかにあるスイッチを押されてしまったかのように、体は言うことを聞かず、むしろ不動に引き寄せられるかのように疼きだす。

「孤独だから、独占的になるしかないのだな。そんなやり方では、いずれ全てを失ってしまうぞ」

声が震えないか異常に気にしながら、鬼道は逃げるための策を練った。不動は手を離し、不機嫌に挑発的な眼を細める。

「いっちょまえに、セラピスト気取りかァ? 帝王学ってのはご立派だねェ」

不動が離れて少し安堵したが、次に身構えていなければならない。鬼道は不動の目を見て隙を窺ったが、失敗だった。

「それとも、オレのことが気になるんだ?」

不動の眼が光る。癒しのイメージがある青みがかった深い緑色は、妖しく危険な狂気を孕んでいて、鬼道を離さない。

「私は貴様などに支配されない!」
「言うねェ。でも……」

不動は鬼道の頭上の壁に鈍い音をたてて片手をつき、喉の奥で少し笑った。

「分かってンだろ? このカラダはもう、オレのモンだって」

いつの間にジャケットのボタンを外したのか、滑り込んだ手にブラウスの上から下着ごと胸を掴まれる。微かに頭の芯が痺れるような感覚に、鬼道の思考が一瞬止まった。

「あっ……!」

襲い来る嫌悪に、不動の腕を掴み離そうと抵抗するが、口から出た声はまるで自分のものではないような、明らかに艶を帯びた媚声だった。
頭では恐怖と嫌悪が混在して悲鳴を上げているのに、身体は痺れるような微熱によって鬼道の理性を溶かそうとしている。
この先に待ち受けるのは忌むべき行為であって、嫌という程思い知らされた筈なのに、どこかでそれを求めている自分がいるような気がして、鬼道は激しく混乱した。
そんな鬼道をうち眺め、不動は何か思案する。急に突き放され、支えを失って壁伝いに座り込む鬼道が見上げると、見たこともない表情があった。
すぐに口角を上げ、不動はいつもの邪悪で狡猾な表情に戻る。

「オレが欲しいんだろ。だから大人しくここへ来た。また酷いコトされるって分かってんのに、体は正直だよなァ?」
「なっ……」
「認めちまえよ。コレが欲しいなら、自分で手に入れてみな。カンタンだぜ」

鬼道の頭上の壁に手を着き、見下ろしながら不動は腰を突き出す。
目の前にせり出した股間に、思わず一瞬目を瞑った。しかし、屈するわけにはいかないという彼女のプライドが、その目を半ば無理やり開かせる。

「それで……そんなことで、お前は私を手に入れたつもりか? この、クズが」

ベルトを外し、ジッパーを下げ、下着の中から柔らかい男根を取り出す。
負けたくないという強い思いが彼女を、云わば無敵のような状態にし、同時に自分が今何をしているかという通常の平静な感覚を麻痺させていた。
プライドが理性を封印し、半ば狂乱状態に陥った鬼道は、無意識の中で本能を引きずり出していた。

「ンッ……ふ、はぁ……っ」

両手で支え包み込んだ不動の性器を臆することなく舐め、口に含み、舌と唇を使ってしゃぶりあげる。瞬く間に肉棒は肉棒らしき硬さと太さに変化し、重力に逆らって猛々しくそそり立った。
触れている自分が惨めで恥ずかしいという事実に直面しやっと自覚したのは、己の体が熱くなった時だった。

「へぇ……いいぜェ、もっと奥まで咥えてみろよ。ホラ」
「んぐっ……ん、ふ……」
「ざまァねェなあ! 鬼道チャン」

後頭部を押さえられ、喉の奥に当たって物理的に嘔吐しそうになったが、上から聞こえる不動の熱く甘い吐息に背筋が震えるのを感じた。触れられていないのに体の中心が疼き、身悶えする。
暫くして不動は腰を揺らし、鬼道の口の中に射精した。苦くて粘った、強い雄の臭いが口内に広がり、その放圧にむせる。

「溢すなよォ」

言われて、慌てて口元を伝う液体を手で拭った。制服が汚れては問題になる。手を拭いたくて、ハンカチを探してポケットを探っていると、不動に手首を押さえられ、身動きが取れなくなってしまった。
キスしかけたのだろうか、顔を近づけてくる不動の表情は、どこか隙があるように見えた。鬼道は羞恥も屈辱も脇に避け、見つめた緑の眼に必死に呼び掛けた。この手を取れば、彼は闇から這い出ることができる。今なら、まだ間に合う。今しかない。
しかしそれは不動のためと言いながら、自分の為でもあることにまでは、彼女はまだ気付いていなかった。

「ハッ、んだよ……その目は?」

顔を歪め、不動は鬼道の体を壁に押し付ける。精一杯抵抗したが、密着した体勢は不利に働く。
不動を押し退けようとしながら「何をする」と言いかけて、彼がポケットから取り出した物体に意識を奪われた。

「やっぱお嬢様は違うねェ。優秀な鬼道チャンに、お待ちかねのご褒美をやるよ」

有無を言わさず下着の中にねじ込まれた丸い小さな無機物は、微かな電子音を立てて震動を始める。恐ろしい程の違和感と、そこから生じる奇妙な快感に、鬼道は驚愕した。

「やらしいなァ、グチョグチョじゃねェか」
「やっ……!? っやめろ、なんだこれ……!」

不動の腕にしがみつき、激しいがどこか物足りない快感に困惑する。ふと我に返り異物を取り出そうとしたが、再び不動に両手を捕らえられてしまった。

「キモチイイ?」
「嫌だっ……こん、なの……ッ!」
「ご褒美。欲しかっただろォ」

覆い被さるようにした不動がブラウスの下から手を入れて胸のふくらみを掴み、親指で固く熟れた突起をこねる。倍加された快感によって、延々と規則的に与えられる刺激にもとうとう屈さざるを得なくなり、鬼道は望まぬ絶頂へ達した。それは刹那であり、後には空虚しか残らない。

「もうオレさまから逃げられないぜ。オマエはオレを忘れられない」

脳が痺れ、思考ができなくなる。鬼道はぐったりと壁に凭れ、力なく両腕を垂らした。不動が顔を覗き込む。

「認めちまえよ……楽になるぜェ?」

喉の奥をひきつらせて、不動は笑う。その姿をぼやけた視界に納め、鬼道は喘いだ。

「わ……たし、は……っ」

潤み、歪んで、揺れる赤い瞳は、恐怖や残酷に屈せず臆せず、強い意思を湛えて輝いた。それは、一番大切なものを守ろうとする鬼道の叫びであり、唯一残った純愛の断末魔、崖にぶら下がる片手だった。
不動は妙な表情をした。それがどこから来たものであるか溶けかけた脳で考えようとする前に、キスをされて鬼道は戸惑った。押し付けられた唇は切なく濡れて、絡んだ舌は優しい甘さを流し込み、胸の奥がほんのりと色づいてときめく。
突然、離れた後に見た不動は、苦しそうな顔で歯を食い縛り俯いた。

「……じゃ、またな。鬼道チャン」

解錠を告げる重い金属音がして我に返ると、不動が音楽室を出て行くところだった。
扉が閉まり、鬼道は呆然と座り込み、未だ激しい動悸を訴える胸に手を当てた。慌てて起き上がり、身なりを整える。
ブラウスのボタンを閉め、唾液か何かでわずかに濡れている箇所に気付き、今頃になって吐き気を催した。ひどく目の奥が眩んで、壁に凭れる。部屋が回り、息苦しくなる。自分のしたことが常識の範疇を超えていた、更にはその行為が下劣な男の命令によるものだということに、鬼道は恐怖し、嫌悪を抱いた。
だが同時に、それらと等しい――或いはそれらよりも多く、花が開いて輝き出すかのような快楽を感じた自分に、疑問を抱く。二極は相容れない筈で、また、どちらが真実なのかも、不動明王という無法者が何を企んでいるのかも、闇の中だった。放置されたまま、未だ熱い身体を持て余しながら、混迷と困惑とに揺さぶられ、家路についた。





まさかのつづく   3話

2013/01
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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki