<鬼百合は芽吹く>
夏休み真っ只中、うだるような太陽を避けて、鬼道有奈は立っていた。駅前のモニュメントは大きなイナズマ形をしていて、冬になれば電飾がきらめくが、今はその無機質な素材が直射日光を浴びてギラギラしている。
彼女は今、とても機嫌が悪い。とにかく眩しくて暑いし、ヒラヒラこそしてないものの、やはりワンピースは気分的に着慣れないし、何より貴重な時間は勉強と読書に使わなければ。
だが一番腹が立つのは、この鬼道有奈ともあろう女が、恋愛の順番を間違えているということだ。しかも相手は最低最悪の男である。強姦から始まる恋なんて聞いたことがないが、何度も自問自答した結果を周りにそれとなく聞いた情報と照合してみても、出てくる答えは同じだった。変態なのかもしれないとも考えた。それにしても、それにしてもだ、あの苛つく凶悪なモヒカンが愛しいなんて、腹立たしいにも程がある。
「よお」
振り向くと、彼氏(のふりをさせている男)が立っていた。
居るだけで更に腹が立つが、カーキのハーフパンツに黒いTシャツ、その上に暗い紫とグレーが基調のマドラスチェックのシャツを羽織っていて、それは其処らの同年代の男子と変わらない服装なのに色合いのせいかよく似合っていて、しかもモヒカンのおかげか、相変わらず涼しげな顔をしているのだ。
「遅いぞ」
先に歩き出し、憤然としつつ努めて冷静に言い放つと、後ろから鼻で笑う声が追いかけてきた。
「まだ五分前じゃん。いつから待ってたワケ?」
「待ち合わせというものは、十五分前に到着しているのが常識だ」
「へーへー、そーですか」
「だから私は更に十五分前から待っていたんだ」
「はぁ? 二十五分もくそ暑い日にこんなとこ突っ立ってるとか、キチガイじゃねーの」
「お前に常識があれば十五分で済んだ!」
「そんなに楽しみだったの?」
「違う! 鬼道家の人間たるもの、いつもそうしているんだ」
「じゃあオレ関係ねーじゃん。つか、いつも十五分余計に待ってんのかよ? 計三十分じゃん、バッカみてぇ」
「色々あるだろう! 電車が遅れたりとか」
「それは充分、遅れた言い訳になるだろ」
それもそうだと不意に思考に枝が増えた時、ずいぶん盲目的に歩いてきてしまったことに気付いた。八つ当たりもほどほどにしなければ。
「それで、どこに行くんだ?」
咳払いをして、少し柔らかい声を意識して、空気を変えようと試みる。
「さあな、どこに行きたい?」
しかし返答を聞いた途端に、眉間にシワが戻ってきた。ごく普通のデートをしようと言ってあったから、リードするはずの男性が行き先を決めて楽しませてくれるものだと思っていたが、この男ときたらプランさえも持っていない。鬼道は開いた口を静かに閉じ、再び歩き出す。
「おい、待てよ」
こんな奴のことなんかもう知らない。だがそもそもこんな状況に陥ったのは、自分のせいなのだ。
遡ること一週間前、宿題を終わらせて一息ついた鬼道の元へ、鬼道好みに冷えた洋梨ゼリーを載せた盆を持ってメイドがやってきた時のことだ。
「流石有奈お嬢様、もう宿題を終わらせてしまわれたのですか」
「残しておくこともないだろう?」
「素晴らしいお心構えです。夏休みのご予定で、お伺いしておくことはございますか?」
「予定?」
思わず聞き返してしまった。そう言えば、何もない。去年は北の方へ、父の仕事兼旅行にまる一ヶ月ほどついて行ったから予定どころではなかったが、今年はそれがない。行きたいところは山ほどあるが、できればメイドや付き添いが必要ないようにしたい。何だかんだと、いいと言うのに世話を焼かれすぎていて、彼らにも休みは出してあるし感謝を忘れないようにしているが、やはり窮屈な時がたまにある。
「そうか……友達と出掛けるのも良いかもしれない」
「例の方と、デートに行かれてはいかがですか?」
「れっ例の方!? 誰だ!?」
思わず立ち上がった鬼道の勢いに、メイドの村前は微笑みを崩さなかったが、少しだけ体を後ろに反らした。
「デート……!?」
机に崩れるようにして再び座った鬼道の脳内が目まぐるしく動く。デートとは?恋人同士の男女が仲を深めるためにおしゃれしてロマンチックな場所へ出掛けることだ。たぶん。ローマの休日が脳裏をよぎった。だが現代日本の中学生のデートとはいかなるものか?情報が少なすぎる。私と不動がデートに行く?行ったとして、どうなる?なぜあんな奴と行かなければいけないのだ。世界が破滅する。
そんな彼女の混乱を察し、しばらくそのままにし沈黙を置いてから聡明なメイドは言った。
「殿方を夢中にさせるには、まずは有奈お嬢様のことを知って頂くのが一番です。有奈お嬢様の麗しい魅力をひとつでも知れば、あとは黙っていても近付いて来られますよ」
「そん……、そうだろうか……」
そんなウマい話があるのかどうか疑問だったが、彼女が鬼道に嘘や眉唾物の話をする筈がないことだけは確かだ。しかしここへ来て気づいたのは、恋愛におけるステップをめちゃくちゃに踏んでいることだった。これでは上手に踊れるわけがない。それなら今からでも最初からステップを踏んでやろうと、携帯電話を手に取った。
彼女が私用で電話してきたということだけでも不動には衝撃的だったが、暇を聞かれ呼び出されたこともまるで隕石が落ちたようだった。彼女が自分に何らかの形で関わってくることは、それがどんな経緯でどんな内容であれ、女神に祝福されることに等しく感じた。
とりあえず暑さを凌ぐ為と時間稼ぎの為に連れ込んだカフェで、小さなテーブルを挟み向かい合わせに座っている今も、モカ色の髪が映える飾り気の無い紺色のワンピースを着こなし、やや不機嫌な表情で窓の外を眺める真紅の瞳が、こちらを見やしないかと期待している。実際見たとしたら、最初からそうしていましたとでもいうようにテーブルに視線を落とすのだが。
「鬼道! 何してるんだ、こんなとこで?」
クラスメイトの佐久間が、逞しい肉体を持つ源田の腕を胸に抱き込んだまま近づいてきた。校内一のバカップルと噂されているが、現物を目の当たりにするのは初めてだ。帝国学園も堕ちたものだと思うが、鬼道が居る限り帝国学園は栄光の枠からはみ出しはしない。
「何って……」
店内中に響く大声で名前を呼ばれ、顔を真っ赤に鬼道はうつ向く。
「見りゃわかんだろ、お前らと同じように夏をマンキツしてんの」
どや顔で示してみたはいいものの、はたから見れば、身なりの良いお嬢様とモヒカンの男子中学生の取り合わせはちょっとと言うよりだいぶ異質だ。
「今日も暑いなぁ!」
佐久間にとって、不動の存在はどうでもいいようだ。居ないことにしているのかもしれない。尻に敷かれているらしい源田がにこやかに言う。
「私服、可愛いな」
「ほんっとに! それ、どこの服? めちゃめちゃ似合ってるよ鬼道」
完全に無視されているが、それは不動にとっても都合が良い。ある日廊下で「鬼道につきまとうな」とか「鬼道に迷惑かけるな」とか何だか色々とごちゃごちゃしたかゆい脅しを受けてから、彼女は不動の中で近づきたくない面倒パーソン第一位に輝いた。運動神経が抜群で、フェンシングの腕はトップクラスだし、何をやらせてもAを取る。精神的にも肉体的にも敵に回したくないタイプだが、大好きな鬼道の前でまで面倒は起こしたくないのだろう、多少は利口な部分も持ち合わせているようだ。こんな女と寝ている源田の気が知れない。
「じゃあ、またな!」
「ああ。時間はメールする」
どうやら近々会う約束を取り付けたらしい、意気揚々と店を出ていく佐久間を、長々とした直接関係の無い立ち話にも一切疲れていないらしい源田が追った。彼女と付き合えているのだから、諏訪湖のように懐の広い男なのだろう。それかただのバカか。後者かもしれない。
「すまなかったな」
「……あ?」
「佐久間は良い子なんだが、一度話しだすと止まらなくて」
「ああ、」
話すきっかけすら作れなくて悶々としていたところに、鬼道のほうから声をかけてくれたことで、二人の間の空気が変わる。そもそも不機嫌そうに見えたがそれも、そうでもないらしいと判った。これは、あの変態女に感謝しなければなるまい。
「オレさ、鬼道ちゃんが好きな場所分からないんだけど」
腕を組んで背中を椅子に預け、真っ直ぐ見つめた鬼道は少し驚いているようだった。ふむ、と考えて、口を開く。
「そうだな……お前が案内したいところがいい。一般市民のように夏を楽しんでみたい」
控えめに呟かれたその言葉に、奇跡のような電話をもらってからの一週間、できる範囲の最大限の努力によって様々な情報やプランを詰め込んだ不動の脳が、今だとばかりに猛スピードで働きだした。
「了解」
残ったコーラを飲み干して、不動は立ち上がる。片手を差し出すと、その手を取って鬼道も立ち上がった。もちろんすぐに手は離した。
***
鬼道はゲームセンター、ショッピングモールを横切り、小さな古本屋の店内を少しだけ眺めた。素晴らしい古本の世界に危うく浸りかけて、ここにいると我を忘れてしまうから早く別の場所へ行こう、とやけに真剣な面持ちで訴えてきた不動の気持ちが恐いほどよく分かる。
なのでそれから電車で二駅、大きな国立公園に来た。緑の芝が広がる広場では、子供たちがボールやフリスビーで遊んでいる少し離れたところで両親がシートに座ったり寝転んだりして、日陰から微笑ましく見守っている。
「いちごとメロン、どっち?」
ベンチに座ったまま顔を動かしたが、不動が視界に入らない。反対側に勢いよく振り向いた時、鼻先が冷たいものに包まれた。
「ぶっ……な、なにをする!」
「かき氷は鼻から吸うモンじゃないぜ?」
隣に座った不動が、笑いを噛み殺しながら言ったのを睨みながら、ピンク色のシロップがかかった方を受けとる。妙な凹みが出来ているのを見て、自分でも可笑しくなった。全く……と思いながらバッグからハンカチを取りだし、そこで、はたと気付く。
「きさま……! 今、わざとやっただろう!」
振り向いた位置にかき氷があるなんて、よく考えればおかしい。不動を責めるつもりだったのに、ピンクのかき氷に出来た小さなくぼみが、妙なツボを刺激したせいで、笑いを堪えながらになってしまった。
不動も「わざとなワケないだろ、溶けるから早く食え」言いながら、平静を装おうとしているが、直後に我慢できず口元がゆるんだ。
こんなくだらないことで何をやっているんだろうと思いながら、頬をゆるむままにさせて冷たい氷を口に含む。付属のストローは先端がスプーン状に加工された専用のもので、良くできているなと感心した。
珍しそうに眺めてしまったのをちゃっかり見ていた不動が、澄ました調子で言う。
「えー、お嬢様、こちらは"かき氷"という名称でして、庶民には古くから親しまれている夏の"醍醐味"でございます」
「やめろ、気色悪い」
「お嬢様の鼻型付きは大変貴重でございまして、オークションで――」
「やめろと言ってるだろう」
思わず笑ってしまって、悔し紛れに不動の肩をひっぱたいてやった。こぼれる!と騒ぎつつ、不動も笑っていた。じりじりと太陽が熱を産み出していたが、自分自身が熱源のような気がした。
それから広い園内を歩いて回った。大学生や高校生のカップルと何組かすれ違った。池にはカメと、黒に混じって赤いコイを見つけた。ボートに乗ろうとはさすがに、どちらからとも言い出さなかった。
***
すっかり空が淡いオレンジに覆われた頃、公園の出口に近づく寂しさを必死に押し返していた。用を足しに行った不動を待っている間、事務所の外壁に貼られたポスターに惹かれてしげしげと眺める。
花火大会なんて、行ったことがない。六歳くらいの時、花火が見たいと駄々を捏ねたら、湾を一ヶ所貸し切り状態で尺玉を何発も上げてもらったため、それ以来言えなくなった。
「あ。今日じゃね?」
「は……おい、どこへ行く?」
いつの間にか戻ってきていた不動が、手を引いて早足で歩き出したので、慌ててついていく。
「緊急用の特等席。今からじゃふつうの席は取れねーからさ」
それ以上何の説明もしない不動に連れられて電車を降り、住宅街の端に建つ寂れたビルの中に入って行く。中小企業が倒産してそのままになっているのだろう、鍵が壊されていたが中はさほど荒らされておらず、埃が静かに積もっていた。花火の音が聞こえ始めている。
6階分の階段を上るのは少々堪えたが、屋上から見渡す景色は遮蔽物が何も無くて、音は遠いが確かに花火がよく見えた。
「ところでさ」
不動はフェンスにもたれ掛かる。
「なんでオレのこと縛っとくの?」
何を聞くかと思えば、そんなことかと肩の力を抜く。浮気するなとは言ったが、きちんと守っているかどうかまでは把握しきれない。訊いたということは、今まではとりあえず信用していいはずだ。
「ふん、良い戒めになっているだろう」
振り向いて、自嘲気味に笑ってみせる。本当はただの口実だと知ったら、どう思うのだろうか。
「こんな体でお前が満足するはずがない」
不動は理由を知って驚いていたが、すぐに面白そうに笑いだした。
「残念でした。オレはヤれれば何でもイイんだよ」
切ないほどに歪んだ眼が、皮肉めいた笑みを浮かべる。なぜそんな眼をするのか、何を想っているのか仮説を組み立てようとして、近付けて来た体に思考を遮られた。階段へ続くドアに、背中が当たる。
「ついでに言うと、鬼道ちゃんのおっぱい、感度最高でお気に入りなんだけど?」
「なっ……あ、やめろっ」
服の上から、暑苦しい手が胸を撫でる。確かに、こんな程度で震えている。もっと激しい快感を求めて、今すぐにブラジャーを剥ぎ取られたいという波が静かに打ち寄せ始める。不動の肩越しに花火が見えた。
「鬼道ちゃんも好きなくせに」
「ゃ、ぁ……っ!」
親指で頂を押されて、誰もいないのに慌てて自分で自分の口を塞いだ。不動は楽しげに眺めている。必死に身を捩って抜け出そうとしたが、腰の辺りを強く抱き締められて、もがけば密着するだけだった。
だが、不動は手を止めた。
不意に見つめてくる顔はほとんどが影になっていたが、逆光で花火が照らした一瞬、呼吸が止まった。それは魂が求める視線、永遠に胸の奥で揺らぎ続ける視線だった。
こんなところで何をする、暑いから離れろ、その眼は何を考えてる?言いたいことは幾らもあるのに、口を開いても言葉がついてきてくれない。思考が溶け出して、花火のように爆ぜる。気付けば、目を閉じて身を任せていた。
"好きなくせに。"何を思って言ったのか。まさか、気付かれてしまったのだろうか。
不動が食むように開いた唇を、同じように包み返す一連の、短い間に起こった純粋で美しいプロセスは、宇宙の調和と真実の元に、二人の全てを繋ぎ合わせた。
先に離れたのは不動の方だった。
「電車で帰んの?」
「――、ああ」
「送ってく」
彼はそれ以降、駅に着くまで一言も喋らなかった。後悔と高揚に包まれて、闇をの中、光を抱えて帰路についた。その背を見送り、鬼道は長い一日と恍惚の余韻に深いため息をついた。
家に着いてすぐ携帯を開きメールを打ったのに、文面が定まらない。結局何度も消しては打ち直し、ベッドの中でやっと「お前みたいな奴にも長所はあるんだな。今日は楽しかった」とだけ打ったメールを送信した。送信したあとしばらくムズムズしていたが、不動から「そりゃどーも」と返信が来て、満面に広がる笑みを抑えきれなかった。
もちろん、聡明なメイドにささやかな礼をするのも忘れなかった。
つづく
5話2013/04
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki