<5000ピースのジグソーパズル 10>







3035

ソファでの小さな事件から、特に変わらず過ごしている。それまでと変わらず会話し、戦術を相談し、何事も無く生活している。だが水面下では探り合っていることに気付いていたし、鬼道がたまに様子を伺うように見ていることも気付いていた。
後悔よりも迷いが強い。これからどうすればいいか、相手はどう思っているのか、そんなことばかり考えては思いきり消しゴムをかけた。
相手はどう思っているのかなんてこと以前に、相手は同性で財閥御曹司、叶わぬ恋の代名詞のような存在である。気の迷いであんなキスをするような性格ではないと思っていたが、遊び相手を求めている可能性は大いに考えられた。だからといって、中学時代からの仲間や気の知れた(と思いたい)友人にまで手を出すだろうか?確かに、男同士ではなかなか相手を選ぶのに困るだろうが、彼はデリカシーの塊のような男ではなかったか。
いくら考えても堂々巡りなのは分かっている。気を取り直して、不動は湯を沸かし中華麺の袋を開けた。
問題なのは自分だ。マルコの妹とキスした時なぜ快楽を感じなかったのか疑問に思っていた不動は、眠れなくなった昨夜、たまにお世話になっていた会員制の画像サイトを開いた。見ていて楽しいとは思うのに、以前のように興奮したりしなくなっている。結局何もせずに寝てしまった。
あの時、むしろ嫌悪を感じた。本当は今までも感じていたことがあった。こんなものを求めているんじゃないのに、意地や見栄を張る自分が惨めで情けなくて冷めていた。無駄なことをしなくても、原因は分かっている。ある意味では病気なのかもしれない、それなら男を買えば済む話だろうか?
気分が悪くなって、水を飲みたいと思ったが、葱のみじん切りをしている最中だ。あと少しで終わると、瞬きした一瞬、左手の指先に包丁が入った。すぐに水で洗い傷口を見ると、探すまでもなくみるみるうちに鮮血が滲み出て痛みが激しくなってきた。蛇口を止め手を拭こうとしてぐらりと目が回り、やむを得ず膝を折る。そのまま腰を下ろし右手を額に当て、左手の人差し指を咥えると目を閉じた。鉄の味が強くする、思ったより深く切ったらしい。
タイマーが鳴ってしまったが、立ち上がり湯から麺をあげる気力はない。少し休んでから再開するつもりで放置していると、部屋にこもっていたはずの鬼道が来てしまった。
「不動っ!」
タイマーは独りでに鳴り止む。鬼道はキッチンの下棚の戸に寄りかかる不動の前へ屈み、手早くサングラスを外して顔を覗き込んだ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
その表情があまりにも深刻で、つい強がってしまう。
「ああ、大丈夫、大丈夫。手切ってフラッとしただけ」
よくあるだろと付け加え、台に掴まってゆっくり立ち上がる。コンロの火を止めると、鬼道はそれほど大事ではないと分かって少し落ち着きを取り戻した。
(こりゃ、最近おかしいのバレてたな。お前が取り乱してどうすんだよ)
考える間にも鬼道は素早い動作で引き出しから絆創膏を取り出し、包装を開く。
「貸せ」
余計なお世話だと思ったが、先程の彼の表情を思い出すと従わずにはいられない。
(そうか……こいつも、大事なもん沢山失ってきたんだよな)
きれいに貼った絆創膏を見て息を吐き、やっと鬼道はサングラスを戻し、安心したようだった。
「あーあ……麺、のびちまった」
「そんなのはいい。顔色が悪いぞ、本当に大丈夫か?」
鍋に伸ばした右手より先に、鬼道が鍋を掴んだ。ザルに麺をあけて、湯気が立ち上る。
「食えば大丈夫だろ。いつも手ぇ切ったぐらい平気なんだけど。寝不足がよくねぇかなぁ」
この言い訳は然り気無さは良かったが、内容的に失敗だった。
どんぶりによそるのもテーブルへ運ぶのも全部、鬼道がてきぱきと先回りした。
「不動――」
「あ、別に環境がどうとかってんじゃなくて。つい夜更かししちまってるだけ」
「夜更かし?」
「同じ男だろ。察しろよ」
こんな言い訳で嘘をつきたくなかったが、仕方ない。黙って椅子に座り、のびたラーメンをすする。どうやら鬼道は信じたらしく、眉間に皺を作ってそれきり訊かなかった。






921

自分で組んだ厳しいメニューを終え、クタクタになって帰路へついても、後ろから追いかけてくる声が魔法のように、一気に気分を高揚させる。
「鬼道クン、鬼道クン」
校門を出て二百メートルのところで立ち止まると、不動が自転車を押しながら駆け足でやってきた。そのまましばらく一緒に歩き、鬼道は不動から何か仕掛けてきたことが嬉しくてたまらなかったが、用件は期待していたものと少し違った。
「お前さァ、オレのこと何だと思ってンの?」
恋は盲目とよく言うが、全く以て恐ろしい現象である。頬を染めて返答に困り、半ばパニックになりかけたところで、勘違いに気付いた。不動はそんな鬼道の内情を知らず続ける。
「勝ち組アピールして満足かよ?」
「ちがう! そういうのじゃない」
「じゃあ何だよ? オレのことが気に入らねえんなら、はっきり言やぁいいじゃん、堂々と面と向かってさ。言ってみな、どこが気に入らねえんだ?」
皮肉っぽい笑みを浮かべて、不動は挑発的に顔を近付ける。カッとなってつい口調が強くなってしまった。
「誰が、気に入らない奴のことなど毎日毎日心配したりするんだ! ふと気付くとお前のことばかり考えてしまっている点においては、ああ、気に入らないさ! 確かにそれだけ、お前とオレの差があるんだろう。だが、そういった差と能力は関係ないはずだ、そうだろう?」
「はァ……?」
怒ったような口調で誤魔化されているが、遠回しな感情表現だと分かると、気の抜けたような声を出した不動は立ち止まった。
「ちょっと待て。おま……おまえ、まいんちオレのこと考えてんの?」
「は……」
鬼道も足を止める。引きつったような笑みに赤く染まった頬は、街灯の明かりだけでもよく見えた。
話が別の方向に行く前に、軌道修正を試みる。こんなことでからかわれては、たまったものじゃない。
「当たり前だ。これだけ一緒に練習しているんだ。お前だって考えているだろう? 常にチーム全員を見ていなければ、司令塔は務まらない」
「あ? ああ……」
うまく誤魔化したところで再び歩き出しながら、不動が突っかかってきた元の原因へ話を戻す。
「生い立ちのことを言わなかったのは、お前はとっくに知っていると思っていたからだ。知らない方がいいとも思っていたがな。ハンデをやるような気がして黙っていたのも確かだが、そんなこと関係ないと分かった」
不動は黙って耳を傾けている。
「おれはおれだし、不動は不動だ。どんな環境でどんな人生を送ってきたか、ピッチに立っている間は関係ない。それに、不動明王はそんなことで動揺するような男じゃない。――そうだろう」
トドメに痛いところを突いてやれば、バツの悪そうな顔を自慢気な笑みで隠して大人しくなった。
「随分とオレ様を買ってくれンだなァ」
「当然だ。不倶戴天の敵だからな」
納得して、その言い回しが気に入ったのか満足そうに笑う不動に見惚れかけ、慌てて歩を速める。
「じゃーな」
いつもの通り駅の前で別れたが、いつもは黙って行ってしまう不動が声をかけてくれた。嬉しくて、振り返って叫んだ。
「ああ、また明日!」
既に背を向けていた彼は振り返らずに片手を上げただけで、自転車に跨って行ってしまった。階段を登りきってもゆるむ顔を抑えきれず、ハンカチで口元を隠して改札を通った。






1223

高校サッカー日本一を決める全国大会が始まり、特訓にもラストスパートがかかっている。予選は難なく通過した。この後も、何とか切り抜けられるだろう。
問題はただ一つ、雷門だ。鬼道が向こうから抜けて本当に良かったと思いながら、それでも要注意選手ばかりの顔が並ぶバインダーをげんなりして眺める。
数々の懸念に溜息を一つ、ベンチに凭れかかった不動の横に、鬼道がやってきた。
「あと十七日しかない。試合が無い日の特訓スケジュールを立ててしまおう」
「あと十七日もある、だろ」
「揚げ足を取っている場合ではないぞ」
練習が終わった後の、誰もいない夜のグラウンドは、静かで心地いい。
隣に座った鬼道がノートに時間割を作るのを見ながら、彼の額や手を眺め、保健室でのことを思い出す。あれからまだ一ヶ月も経っていない。
(何で誘ったんだ。実はド淫乱、とか……)
鬼道が自分の考えを口にしながらスケジュールを書き込んでいるが、半分しか頭に入ってこない。
「おい、聞いているのか?」
「ん、」
不機嫌に言われたが、誰のせいだと思っているのか。
「オレ今日、バイト休み」
だからどうしたと言いたげな目が、ゴーグル越しに不動を見る。次にグラウンドの時計をちらりと見て、沈黙が続いた。
(バレバレだぜ、鬼道)
唾を呑み込んだ鬼道が口を開く。
「それなら、ウチへ来ないか。リラックスした方がアイデアも豊富に出る」
「豊富に、ねえ……」
吹き出しそうになるのをこらえ、不動は立ち上がった。廊下ですれ違ったマネージャーに簡単な挨拶をして、足早に外へ出る。
駅まで競走し、通勤ラッシュの電車の隅で口頭だけでスケジュールをほぼ完成させ、鬼道の家へ着く頃には頭の中は空っぽだった。
メイドに茶菓子は要らないし用があったら呼ぶとだけ伝えて、現代男子版シンデレラは不動を連れ、自室へと急ぐ。家の中は静かにしていたが、口を引き結んだ彼の頭が沸騰しているのが手に取るように分かった。
タガが外れたみたいに鍵をかけた部屋の中で浮かれて、やわらかいベッドの上で戯れた。二人きりになってしまえば、何をしても許される気がした。
父は今忙しくて気付かないだろうから泊まっていけと言われたのを断って、魔王の帰る前に広い庭を横切る。鬼道が見送る明るい小さな窓を見上げ、こんな遊びは程々にしておかなければと思う反面、笑いがこみ上げて止まらなかった。
こんなシチュエーション、どこかのラブロマンスにあったような。






1009

汗を拭き終わったタオルを首にかけドリンクボトルを持って、鬼道はベンチへ腰掛けた。なぜ同じベンチの端と端にいるのかは不明だが、不動は鬼道の目論見に気付いていて、協力しようという気になり始めていた。
「楽しみだな、決勝」
そう呟くように言うと「ああ」と答えて、鬼道は不動をちらと見る。
「雷門で学んだことは多かったし、おれを大きく変えた。だが、おれはやはり、ここが性に合っていると思う。戻ってきて良かった」
そういうわけではないのだが自分に言い聞かせているように見える言い方は、不動の癇に障った。
(何を言えってんだよ。また軌道修正してくれってか? オレは赤ペン先生じゃねぇぞ)
黙ったままでいると、鬼道はまた口を開いた。
「あの人に教わったサッカーだが、今はもう違う。おれはおれのサッカーを作っていく」
静かだが強く刻まれるようなその言葉は、不動の懸念を洗い流した。
「よく喋るね」
小さく呟いたが、ちゃんと聞こえたかどうかは分からない。また沈黙が、しばらく流れた。
「なあ、お前はなんで続けてるんだ?」
「……なにそれ。聞きたいの?」
「ああ。いけないか」
「なんで?」
質問に質問で返すと、ゴーグルの上の眉が寄せられた。
「なんでって……夢や目標を話し合うことで、お互いにモチベーションが高まるだろう」
「へぇ」
話半分の不動の様子に、呆れたように溜息を吐く。
「何も無い人間は、いつか限界を見る」
「フーン、知らねえけど。そういうのって、ペラペラ喋っちまったら価値が無くなるじゃん」
立ち上がり、伸びをして不敵に笑んで見せる不動に、怪訝な顔のままの鬼道はやがて笑い返した。
「お前らしいな」
納得したのか、それ以上詮索せず黙った鬼道は、どこか淋しげに見えた。
(アホか。言えるワケねーじゃんかよ。お前を超えたいなんて)
確かに、気合は入った。






3285

イタリア国内の最強チームを決定するコッパ・イタリアは、白い流星とW司令塔のトリコローレ、《プレスタンテ》が優勝を飾った。
十万人近くの観客が声の限りに歓声を上げ続けた決勝戦、前半の分析と守備で鬼道の采配が光り、後半は不動のトリックプレーで翻弄している間に仲間と連携を取ってフィディオが点を入れた。それまでお互い一歩も譲らずに攻防を繰り広げていたのだから、この一点は大きい。
対戦チームには染岡の姿もあった。スターティングメンバーとしてピッチに立ち、恐らく不動と鬼道のプレースタイルについて彼が助言したのだろう、攻守共に優れたバランスを保ち全く隙が無いチームだった。
まさに百回に一回見られるかという接戦を制し、愛する我が国の頂点で栄冠を手にしたのだから、国民とサポーターはもちろん監督、コーチ、マネージャー、そしてプレスタンテのメンバーは皆これ以上ないくらいの歓喜に満ち溢れていた。
「ユウト! アキオ! お前たちはチームを勝利へ導いた救世主だ!」
「まったく、大した奴らだよ!」
興奮冷めやらない控室であちらこちらとひっぱりだこになりながら、カメラからは一旦逃れられているので一休みする。この後は地元テレビと衛生局生中継の、主要選手と監督へのインタビューがある。
トイレから戻ると、開けっ放しの控室ドアの脇に不動が立っていた。壁に寄りかかって水分補給していたようだが、鬼道を見つけると中の騒ぎを見守りながら体を起こして近づいてきた。その嬉しそうな顔に見惚れて、無意識に微笑み返す。
「やったな、おい」
肩を組むついでに抱き寄せたのはほんの一瞬だった。お互い順調にイタリアかぶれしている。
「オレとお前が揃えば最強じゃね? この調子で行けば世界一も夢じゃねーなァ!」
弾けるような、抑圧や曇りのない笑顔が鬼道を照らす。返事を待たず不動は、鬼道の背中を叩いて先に控室に入っていく。
ピッチに立っていた時、今までよりも一段と強く、チームとの一体感を感じた。それよりも強く、共鳴するものがあった。
まるで脳を一部共有しているかのような感覚、ただひたすらその相手と良いプレーがしたい、最高の連携をしたい、それは勝利から意識を遠ざけ、自由で人間らしいスタイルにした。
結果的に過去最高級の素晴らしいプレーができたと思う。それが共鳴によるものかどうかは証明できることではないが、考えるまでもなかった。






3084

あっという間に三ヶ月が過ぎた。
慣れてきたこともあり、お互いの生活スタイルの中で妥協点を見つけながら、うまくやっていると思う。出会った頃から比べれば、随分な進歩と言えるだろう。
だが、問題はまだ残っていた。理性ですら止められなくなる前に、何とかしなければまずい。
体を動かし脳を使って帰ってくると体の芯から熱くなって、シャワーで落ち着かせても火照りは収まらない。
(そろそろ抜いておかなければ……)
まったく雄は面倒な生き物である。
とあるオフの前夜、下半身の訴えを宥めながら悶々としていると、開けっ放しの部屋の入り口に不動が現れた。
「思ったんだけどさ、やっぱMFが多いわ。バランス的に。だから、オレがFWに行く。だからって点取りはフィディオに任せるけど」
考えながら黙って見ていると、不動は付け加えた。
「どう思う? やめろってんなら、また――」
「いや、とりあえずいいんじゃないか? やってみないと分からん」
そう答えたのは本当で、熟慮の上だった。鬼道は立ち上がり、ゆっくりと部屋を出て行く。途中、不動の前で立ち止まった。
「珍しいこと言うね。やってみないと分からん」
確かめるように繰り返して、不動は口調を真似する。挑発的な笑みを浮かべるその顔を見つめ、ゆっくり息を吸って吐いた。
理由なんてバカバカしくなるくらいに求め合っている。
「そうやっていつも、話をしてくれればいいんだ。考えていることを」
「ん? ――ああ、そうだな」
目の前を通りすぎて行く鬼道を見て話は終わりだと思った不動は、歩きながら別の方向へ流したのを黙って見ていた。ついてくるのだから、まだ続きがあると思っているのだろう。正解だ。
「ワインを空けたいんだが、一人で一本は多い」
「いいけど」
肩を竦めて肯定し、表情を見ている不動にはきっと、何か企んでいると分かっているのだろう。どこまで付き合ってくれるのか、期待しないように注意しながら鬼道はワイングラスを二つテーブルに置き、ソファに座ってコルクを抜いた。チーズを乗せた小皿を持って、不動が隣へ腰を下ろす。
ちょうど満たしたグラスを渡し、小さく掲げて半分飲んだ。
「いろいろ飲んだが、今のところこれが一番うまい」
いつも行くマーケットの酒売り場で、上等なわりには少し低めの価格で売られている無添加の赤ワインは、グラスの中で照明の光を受けて液体ルビーのように輝いている。
「鬼道って辛党だよな。コーヒーもブラックだし」
「そうか? 甘いものも食べるぞ。大福とか」
「あー……ケーキって感じがしない」
「ケーキの類は食べ飽きた」
「うわーやべえ、上流階級発言だ」
「本当、冗談抜きですごいんだぞ。三時のおやつはもちろん、来客の度にケーキ、記念日の度にケーキ、取引先からはお子さんがいらっしゃるならとか言って高級クッキーを山のようにもらうんだ。あやうく太るところだ」
「デブ鬼道! 見てみてぇなァ」
「ばか言うんじゃない」
「鬼道クンがデブとか、かなりやべえ」
ヒャハハと笑って、不動は体を揺らす。つられて笑ってしまった。
そんな調子でいつの間にか、ボトルの中のワインは最後の一滴になった。鬼道は指先でチーズの端をちぎり、少し転がしてから口に運ぶ。
「不思議だな。人間だけが言葉を喋る。おれも饒舌ではないが、これでも努力しているんだ」
「うん。そうなんだろうと思ってた。……それで? お喋りしなくたってオレは気にしないぜ」
やはり分かっているのだろう。鬼道は少し口元をゆるませた。
「そうじゃない。ただ……不動ももっと、おれに話をしてもいいと思う。おれだって無理矢理喋ろうとして喋っているんじゃない」
「分かるよ。けど、話ならしてるじゃん」
「ああ。しかし、もっと……色々なことを。無理に話せと言っているのではなくて、これは……おれはいつでも聞くぞ、ということだ」
ワインが効いたのか策が良かったのか、不動は困ったように笑って天井を仰いだ。
「そうだなァ。こんなくだらねぇコト引きずって同居人に心配かけるんだったら、とっとと言えって話だよな」
「そういうことだ。別に、いつでもいい」
ワインを飲み干してグラスをテーブルに置く。このまま片付けてしまおうかと思案した時、不動が言った。
「たたねえんだよ」
「ん? 何が――」
何かを諦めたかのような顔に尋ねようとして、やっと理解し、はずみで少し噎せた。
「おい、大丈夫かよ?」
笑っている不動に「それはこちらの台詞だ」と苦し紛れに返して、咳払いと共に腕組みをする。
「いつからだ?」
「んー、分かんねぇな。こっち来てから誰ともヤッてねーし」
頭の後ろで手を組み、不動はソファに背を預ける。
「この間――嘘をついたのか」
「ほら、話したぜ。もういいんだよ、こんなのよくあることだろ。もうしばらく様子見て、ヤバそうだったら病院行くしさ」
内容が内容だけに、流石に気まずそうな彼を見て、心がふるりと揺れる。
「一人でもダメなのか?」
「まだ聞くの……一人も何もねーよ。こーんなムネのでけーお姉ちゃん見ても、ぜんぜん」
笑いながら身ぶり手ぶりを交えて茶化す不動に、眉を顰める。
「だから言ったんだ。妙な遠慮をするなと――」
「あー、違う。それはない。そういうんじゃねえよ」
慌てた様子を苦笑に隠しながら言う彼を見て、鬼道はたっぷり一分迷った末、最後の一言を口にした。
「お前、女だけじゃないだろう?」
曖昧で狡い言い方だと思ったが、こっちもプライドを抱えながら羞恥心と戦っているのだ。
しかし意味は通じたし、自嘲気味の苦笑が消える程には動揺させることができたらしい。鬼道は慎重に、口元を穏やかにゆるませて続ける。
「試してみればいい。おれとお前の仲だろう」
「どんな仲だよ……」
不動は呆れたように呟き、グラスを二つ両手に持ってキッチンへ向かった。
「酔ってんの?」
「かもな」
逃げ道を用意しておく。お互いのためにも。
「まあ、おれはちょっと提案してみただけだ」
空のワインボトルをキッチンへ片付け、捨て台詞を残して部屋へ戻ろうとすると、廊下で追い付かれた。不動の足音も気配も意識しながら、自然に追い付けるようにゆっくり歩いたのだから当然だ。ただし先手は打つ。
「お前だって酔ったんじゃないのか?」
たかがワイン三杯弱、お互いにほろ酔いもしないのを知っている。つまりこの台詞を言い換えるとこうなる、今のうちに保険をかけておいたらどうだ?
「やってみないと分からん、ね……」
電気のついていない廊下で、不動は鬼道のサングラスを外す。リビングから漏れてくる明かりを頼りにお互いを認識した。
控えめなキスには控えめに応えた。まだ敵を見極め、品定めしているのだ。
「後悔しねえ?」
冷静沈着、それが鬼道を表す言葉だった。なのに今、心臓は破裂しそうだったし、自慢の脳も既に使い物にならなくなっている。たった五秒の、控えめなキスで。
「するかもな――お前が」
触れたところから熱が拡がる。開いたままのドアから鬼道の部屋に転がり込む。電気をつけそびれた。
「なあ……」
「何」
「もし、ダメだったら――」
言い難そうに目を逸らしたのを笑われた。
「うるせえよ、いいから黙れ」
明日はオフだからって羽目を外しすぎじゃないかとか、同居の二文字を考えた時からこうなることだけは避けたかったとか、くだらない意地や見栄やプライドをぜんぶ脱ぎ捨てて裸になる。
「これ、昨日のだろう」
「あ? ウン、多分そう」
二の腕の痣を撫でて、真っ暗な保健室を思い出した。勝手が分かっているぶんの余裕より、五年間のブランクがもたらす照れ臭さが勝ち、どことなくぎこちなかった。
幾らか逞しくなった体を震わせて、何も言わず、不動は恋人にするようなキスをする。一見さん用とか恋人用とかキスの仕方をいちいち整理しているわけではないし、そもそも鬼道の位置は曖昧だ。今更酒臭い吐息を気にするわけでもない。
彼の肩に彫られた文字を眺め、整っていく呼吸に名残惜しむ。
「酔ってたんだろ?」
「ああ」
「オレも」
言う必要のないことを、鬼道も返した。
「良かったな、病気じゃなくて」
不動は小さく笑った。
大人になって上手くなったのは、言い訳とカモフラージュ。だが、肌で触れ合えば心が心に触れる。それでいて隠し続けられるほど器用ではない。
「シャワー浴びるだろ」
僅かに余韻の残る、気だるげで穏やかな声が、耳のすぐ横で言った。
「先に入れ」
「風呂溜める?」
「いや、いい」
不動はいつものように、ただ話をしただけの時と同じように部屋を出ていく。その足音を聴きながら、今までしてきた行為は何だったのかと鬼道は思った。感覚を上から全部塗り替えられて、元のままで十分だったのに余計なことをするなと怒るところなのだが、結果が見たこともない素晴らしいものだったので怒る気もせず笑ってしまう、そんな心境だ。
確かに、知りたくないものを知った時、人は後悔する。今がそれだった。







不動は頭から熱い湯を浴びながら、沸騰したかのような体を何とか鎮めようとしていた。欲求不満をめでたく解消して落ち着いていい頃なのに、後から後から熱が湧いてくる。混乱と動揺と共に洗濯機で回されているかのようだ。
(何だってんだよ、ちくしょう……)
壁を殴る真似だけする。少し気が紛れた。本当は分身でもして、自分を殴りたい。
一緒に住んでもいいと言われのこのこついて来て、その代償を体で払っているような奴がよくいるが、自分も同等なのだろうか。何を思って唇を重ねたのだろうか。
そんな難しいいくつかのことよりも、真っ赤に火照った顔が治まらない。
(ああくそ、オレのバカ!)
順番が違うとか忍耐がないとか反省すべき点は色々あったが、ベッドの上は今まで見たこともない最高の時間が流れていた。いつまでも抱き合っていたかった。
相手が悪い。
廊下から「出たぜ~」と何事もなかったかのように言い、逃げるように自分の部屋へ入ってベッドに潜り込んだ。こんなにギャアギャア騒いでいたわりにはよく眠れたのが不思議である、起きたら彼に感謝の意を伝えなければ。ただし、意味深にならぬように。






2268

シャワーの水音を聴きながら、国際ホテルの消臭剤の効いたベッドに、鬼道はうつ伏せに横たわっていた。これで三回目だ。
毎度罪悪感に苛まれるのなら、最初からしなければいいと思うのだが、激しい運動量と性欲の因果関係はコントロールが難しい。
幸い、たった今バスルームからタオル一枚で出てきた褐色肌に黒髪の色男は、自分が電話一本で呼び出され性欲の捌け口にしか使われない存在であっても気にしないらしかった。
「ユウト、どうした?」
南米訛りがセクシーな二十六歳、サッカーのほうではなく鬼道グループのほうで、イタリアに支社を持つとある企業の十五周年記念パーティーで知り合った。同じ穴の狢は匂いで分かるものだ。誘ったのは向こうだが、電話番号を渡すほどノリノリでついていったことは認めなければならない。
オーガニック食品の輸出、特にコーヒー豆を手掛ける大手ブランド会社の息子で、ゆくゆくは後を継ぎ、事業を拡大していくつもりだと話してくれたことがある。
「もう会わないようにしよう。プライベートでは」
綺麗な青い目が見開かれた。
「どうしたんだ? 急に」
寝転がったままの鬼道の隣に腰掛け、その肩を撫でる。彼が気にかける素振りをすればするほど、馬鹿馬鹿しさが募った。
「こんなこと、もうやめたいんだ。お互いのために良くないし、おれには向いてない」
手から逃げるようにして起き上がる。歳上の余裕なのか彼も望んでいたのか、溜め息をひとつ、服を着る鬼道に頷いた。
「わかった」
エキゾチックなアクセントが耳を撫でていった。このまま続けたとしても、彼にはすぐややこしい荷物になってしまう。そもそも、一歩先でも未来のことを考えようとするほどお互いに本気ではない。こんな馬鹿げた遊びをしなくたって、人間は生きて行ける。
そこまで考えて、ふと思った。本気とは一体、どんなものだろうか?
エレベーターの降下ボタンを押し、鬼道は静止する。
愛していると思えば、誰にだって本気になれるものだろうか。それとも、本能的に感じとるものなのだろうか。そんなことも分からないのに、最初から諦め放棄していた自分を鬼道は恥じた。生きている限り探し続けなければ意味がないのだ。だが求める答えは、そういった精神論とはまた少し違うところにある気がした。






3090

スーパーマーケットに入り、プラスチックの買い物カゴを手に取る。不動はいつも鬼道の先を読み、先を行くのが好きだった。車のドアに鍵がかかったかどうか確認する時間の分、一歩先を行けるというだけでもあるが。
以前はどんなことでも、負けるわけにはいかないと意地を張っていたが、今は重要でないことは遊び半分でいい加減にしている。余計な争いを減らしただけで、お互いに負けじと張り合う根本は変わっていないが、くだらないことでも先回りしたがるのを子供みたいだと言って笑い、不動はそんな彼の笑顔を眺めていた。
いつも買うものを一通り回りながら、旬の野菜や大漁の新鮮な魚を吟味する。
「こんなモンか?」
「ん、あと、オリーブ」
「オリーブね。……好きだねぇ」
要望通り瓶詰めの並ぶ棚へ向かい、いつものラベルを選ぶ。隣に手を伸ばした鬼道が、カリフラワーのピクルスを取ってラベルを眺めた。
「なあ、これ……旨いだろうか?」
「あ? あー……」
見せられたラベルに顔を近づけて見る。カリフラワー、塩、酢、香辛料、製造はドイツ。しかしつい先日、普通のピクルスがイマイチだと文句を言っていた奴に買ってみればとは言いたくないし、自分が食べたことのないものを勧める趣味はない。残ってカビが生えるまで冷蔵庫の片隅を占拠されるのは御免だ。
「やめとけよ。この手のやつ食って旨いっつったの聞いたことねーし」
「そうか? よく覚えているな」
「自分が覚えてろよ……ドイツ人の酸味はオレもよく分かんねえ。あ、あれじゃね、誰かんち行った時にでもつまみ食いすれば?」
「ふむ……そう上手く行くといいがな」
大人しく棚に戻したのを見て、安堵する。再び歩き出しながら少し可笑しくなった。
「つうかさ、なんで不味いって分かってるモン買おうとすんの? いくら金があるからって」
「金があるからじゃないぞ。好奇心だ。食わず嫌いということもあるだろう。どうする、さっきのが世界一美味しいものだったら?」
「ねーよ」
軽く笑いながら、ちょっとうんざりした。
「つうか、負けず嫌いにも程があんだろ。オレですらそこまでじゃないぜ。そんなんだからしょっちゅう腹壊すんだろうが?」
やってられないと手を振り、卵をそっとカゴに入れる。
「しょっちゅうじゃないぞ」
「ふーん。お抱え料理人がどんだけ気ィ使ってやってっか分かってんの? 好奇心旺盛なのもいいけど、大概にしとけよ、知らねえぞ」
きつく言ったつもりだが、鬼道は嬉しそうにしている。自分を思ってくれている証拠なのだから当然か。むしろ逆の意味で言い過ぎたかもしれない。
「お前が女だったら、良い奥さんになっただろうに」
「オレが女だったらぁ?」
急に脱力したおかげで、お遊びに付き合ってやろうかという気になった。
「ねぇゆうとぉ、あたしヴィトンのバッグが欲しいのぉ」
空いている手で腕を掴み引っ張りながら裏声で女の真似をすると、鬼道は腹を抱えて笑った。
「ピンクでキラキラしててぇ、ルイス・ヴィトゥォンって書いてあるやつぅ」
「やめろっ。頼むからやめろ。誰か見てるぞ」
「誰も見てねぇよ。そっちが言い出したんだろ、責任取れ」
「何の責任だ!?」
一緒に笑いながらレジへ向かう。
他愛ない話をして、車の中でも家に帰っても上機嫌だった。いつまでも続けばいいのにと思いながら、続かないことも分かっていた。






788

卒業後の春休み、おれは電車で数駅行ったところの巨大なショッピングモールに来ていた。都市開発が進んでいるこの町は暗くなっても賑やかで、同じく春休みで私服の学生たちが溢れかえっている。
源田、佐久間、成神、辺見、寺門、不動といういつもの顔ぶれに懐かしくなり、近況やら何やら話しながらあちこち歩いていたら、いつの間にか九時を過ぎてしまっていた。
「さすがに疲れたわー」
「足やべえ」
「バーカ、これも特訓だろ」
「なにお前、円堂かよ」
だだっ広い通路の真ん中に設置された休憩用ベンチに陣取り、七人の少年はぐったりと力を抜く。そろそろ帰らねばと思いながら、仲間たちとの時間を少しでも伸ばしたくて、おれはまだ父さんに電話をしていなかった。
「俺、トイレ行ってくる」
「あ、俺も」
「佐久間は?」
「ああ、行っとこうかな」
「どこ?」
「あー、あっち」
不動以外の五人が立ち上がる。
「ちょっと待っててくれ」
「ああ」
客も減ってきた夜のショッピングモールのベンチに、おれと不動は一時的に取り残された。
たぶん、おれが聞きたいことを向こうも聞きたくて堪らなかったはずだ。高校はどうするんだとか、次の目標は決めたのかとか、とにかく相手の現在位置と今後の進行方向を知り、自分の位置と方向にどのように関わってくるかという確認を。
だが、何も喋らなかった。おそらく、意図的に。
(こいつと今、キスをしたら、どうなるのだろうか……脈はある、だが、しかし)
周りを見るふりをして、さり気なく横顔を見る。モヒカンをやめて坊主から少し伸び始めた焦げ茶のくせ毛が包む無愛想な顔に、埋め込まれた暗い緑色はぼーっと宙を眺めていて、おれは気付かれないうちに目線を外し顔を背ける。
そうこうするうちに皆がトイレから戻ってきて、束の間の二人きりも強制終了となり、苛立ちと甘酸っぱい想いが食べ残しみたいにベンチへ置いて行かれた。






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弁当の一件以来、不動は妙な感情に揺られながら過ごしていた。
何故かよく躓くし、ふと気付くとあっという間に時間が過ぎてしまっていたりする。バイト中もニアミスをするので、これはまずいと気合いを入れ直した。
(なんかヘンだ)
体調は悪くないし、気分はむしろ良好である。今なら何だってできてしまいそうな気がするほどだ。つまり、逆に変だ。
誰かのおかげなんて考えは好まないが、お節介なドレッドには感謝せねばなるまい。どうやって感謝の気持ちを伝えようか、一番さり気なくカッコイイ方法を考えながらスペイン語を暗記していると、客が入ってきた。
「ドンデ、エスタ、エル、バニョ……いらっしゃいませー」
最近よく見る若い男だ。ごく一般的な、たぶん大学生だろう。店内をウロウロして色々なものを眺めたあと、同じ銘柄で同じフレーバーのガムを一つ買っていく。
今日もウロウロしていたが、いつもと違うガムを買ったので不思議に思った。
後ろ姿を見送った時ちょうど男が、いつの間に移動させたのか出入口の目の前の棚から奥の棚にあったはずの女性用下着を掴み、パーカーの腹をめくって入れたところだった。
「あっテメエ!」
そのままドアを開けて走りだしたのを見て、"スペイン語入門"を放り投げて飛び出す。
「帝国イレブンなめてんじゃねーぞ……!」
全力疾走で呆気無く追いつき、体当たりで倒した。
「すいません! ごめんなさい! ごめんなさい!」
丸まってもごもご言っているのを押さえつけ、生暖かい商品を取り返す。
「謝んだったら最初っからやるんじゃねーよ、バーカ。おら、立ちやがれクソ野郎!」
腕を掴んで引きずるようにして店へ戻り、永田先輩に警察へ電話してもらった。







小学四年生の時、不動は万引きで捕まったことがある。三回目で気が大きくなっていたのだろう、突然現れた玩具売場のおばさんに腕を掴まれ、ポケットを見せ ろと言われた。怖くなって手を出し、お買い上げ証明シールの付いていないトレーディングカードのミニパックを五つ差し出した。
「ちょっと来てくださいね」
丁寧だが強い口調のおばさんに連れられて、デパートの事務所で待たされ、買い物中の母親を呼び出された。結局、代金を払って許してもらったが、前科一犯である。悔しくて堪らなかった。
だが、母は何も言わなかった。少年は間違いに気付いたが、彼は自分が無意識のうちに親の愛情を確認したことには気付かず、何も言わない母に腹を立てた。
(失敗したからだ。こうなったら、別の方法で偉くなってやる)
五、六年生の不良集団に都会者として一目置かれていた不動は、万引き事件のおかげで一部では一躍有名になった。弱小サッカー部を叩きのめし、グラウンド を奪ったのがそもそもの始まりで、片っ端から子供たちを誘拐していた影山にエイリア石を渡されるまで、近所の路地を牛耳っていた。
(バカばっかりだぜ)
反抗心の強い少年たちを心理操作するのは容易い。だが、底辺の頂点では目的を果たせないことが分かってからは、何もかもが鬱陶しくて仕方なかった。






3101

皿を洗いながら、不動が言った。
「鬼道クンてさ、絵に描いたような良い父親になりそうだよな」
「なんだ、いきなり……。ずいぶん曖昧な表現だな。具体的にどんなだ?」
気になったので聞き返したが、他意もあった。
「なんかホラ、朝は規則正しく起きて、コーヒー飲みながら新聞読んで――ああ、今もやってるけど。毎日同じもの食って、休みの日は子供と遊んでやるような。公園でボール遊びとかすんの」
「なんだそれは。それがお前の、良い父親像なのか?」
苦笑して言うと、不動は少し不機嫌そうに答えた。
「ちげーよ。オレの理想の父親像は別。そもそもオレとお前は違うだろ?」
「じゃあ、不動のなりたい理想の父親像を聞かせてみろ」
うまいこと言えたはずだ。挑発的に聞けば、彼はにやりと笑って得意気に答えてくれる。
「オレはねぇ、まず思いっきり遊んでやるね。サッカーでも何でも、そいつの好きなことで。でも規則なんて作らねえし、毎日違うことをやらす。自由重視」
「ヒッピーか?」
「ただの無法地帯じゃねぇよ? 無駄なことと意味の無いことはしない。クスリとか盗みとかな」
「それは誰だってしちゃいけないだろう。……新聞を読んで規則正しく起きて同じことをするのは、意味が無いと言うのか?」
「別に、そうじゃないけど……オレは新聞なんか読まねーし」
ウェブニュースでトピックスだけ流し読みしている不動は、洗い物を終えて手を拭く。鬼道は立ち上がり、カウンターのカゴからオレンジを一つ取って、食べやすいように切り分けた。
「お前が誰かと一緒にいるところなんて、想像できないな」
冗談めかして言ったのだが、これは失敗だった気がする。
「まあね。オレは、孤高の反逆児なんで」
気にしていないようなクスクス笑う声が、入れ替わりにキッチンを出ていく。
皿へ乗せたオレンジを渡し、傷つけるようなつもりはなかったというようなことをさり気なくうまく伝えたかったのだが、気遣いに気付かれないようにすぐ離れるのが精一杯だった。
いつからこんなに口下手になってしまったのだろう。いや、最初からだったか。







つづく





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