<5000ピースのジグソーパズル 11>
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静かな路地を通って、大通りへ出る。石畳を歩く足音に華やかな夜の街の明かり、気分は躍った。
円堂が遊びに来ると聞いて一週間前から歓迎の準備をしていたチームに会い、三試合分くらいボールを受け止めまくって、さすがのサッカーバカも疲れたようだった。
世界に名を馳せる伝説のカリスマキーパーにチームの皆は首ったけで、相変わらずフィディオなんかは挨拶の時、感激のあまり両頬の他に唇にまでキスしていた。
「ここに泊まるといい。明日は九時でいいか?」
国際ホテルへ案内して、道端で立ち止まる。予定してあった通り、市内観光へ繰り出す時間を確認すると、円堂は破顔した。
「ああ! 頼むぜ、鬼道!」
「わかった。おやすみ」
微笑んで、車を停めたところまで歩いて戻った。
何度会っても、いつ会っても、底知れぬ安心感で包んでくれる。常に彼の生き方が真っ直ぐ同じ方向へ向かっているのを見ると、清々しい気持ちになり、何も相談していないうちから悩みなんて吹き飛んでしまう。
だが今回久しぶりに会った円堂は、メールや電話では感じられない僅かな変化を漂わせていた。
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約束通りの時間にホテルから出てきた円堂は、通りで待っていた鬼道を見つけて駆け寄ってきた。
「鬼道! おはよ!」
「おはよう。よく眠れたか?」
「そりゃもうバッチリ! すごいんだよな、ここの朝食! 和、洋、中が揃っててさ」
「国際ホテルだからな。どこの国の誰が泊まっても、大体対応できるようになっているんだ」
「ホントすごいよな、ホテルも人間もこうでなくちゃ!」
そんな円堂を連れて、市内観光へくり出した。ガレリアを通り、大聖堂ドゥオーモへ。大きな広場を横切って、白亜のゴシック建築を見上げる。
「すげーなー!」
「この街は第二次大戦で空襲があったんだが、敵側の判断でこの大聖堂だけは爆撃を免れたらしい。もちろん修復を重ねてはいるが、こうして完成した時の美しさを今も保っているんだ」
「うおぉ、そうなんだ! ますますスゲー話だな! やっぱ、すごすぎるものは、どんな奴にも壊せないんだよ!」
目を輝かせて中へ入っていく円堂の後を追いながら、ゴシック建築としては世界最大だとか、完成までに五百年かかったこととか、頂で燦然と輝く黄金のマリア像の話をした。
壮大なステンドグラスから入ってくる光に照らされ、時間を忘れそうになる。
「鬼道はよく来るのか?」
外へ出た時、円堂が尋ねた。
「いや、これで二回目だ。おれの家は郊外だし、あまりこういう所へ来るきっかけというのも無くてな」
「そっかー。じゃあ、今日は良かったな!」
「ああ、歴史のおさらいにもなった」
上機嫌の親友に微笑んで頷く。午後から約束しているサッカー三昧再びの前に、イタリア最大のスタジアムに併設されているサッカー博物館へ案内した。ここでも「すげー!」を連発する円堂に苦笑しながら、歴史のおさらいをする。
「豪炎寺も来れば良かったのになー」
「そうだな、次はあいつを案内してやろう」
「あ! 写真、写真! すいませーんっ!」
入り口の前で、通りすがりのイタリア人女性に声をかけ、手振りで写真を撮ってくれとカメラを渡す円堂を眺めながら、木戸川の練習試合にコーチとして呼ばれ たもう一人の親友に思いを馳せる。来ると言って聞かなかったのだが、大事な試合だからと鬼道がなだめた。にこやかな女性には、日本人の大学生かと思われた だろうか。
フィディオたちが来るまでまだ時間があったので、観客席に腰掛けて途中で買ってきたパニーニを食べた。
静かなグラウンドを眺め、一息つく。
「鬼道、俺さぁ、お前に会えて本当に良かったよ」
穏やかな声に顔を向けると、唇に一瞬やわらかいものが触れた。
「へへ、いいだろ? 友情の証」
にかっと笑う円堂を見て、苦笑するしかない。驚いたが、温かい気持ちに包まれた。
「友情は、こんなことしないと思うぞ……」
「そうか? フィディオもしてたぞ」
「あれは……」
ちょっと違う気がすると言いかけて、そうでもないかと思い直した。アメリカ人やイタリア人が気さくでオープンすぎるのかもしれないが、日本人は内気で閉鎖的な面が強い。
相変わらずの円堂に表情がゆるむ。円堂は言った。
「俺、結婚しようと思ってるんだ」
優しいキスに気を取られていたせいか、その言葉はそれ程大きな衝撃を与えなかった。
「そうか! おめでとう」
「うん。ありがと。鬼道と豪炎寺には、一番に知らせたくてさ」
横顔がやけに大人びて見える。誰よりも先を見て、常に全体を見渡し、山のようにどっしりと落ち着き払った風格は出会った中学生の頃から彼に備わっていたが、今はその中でもやんちゃな少年より逞しい大人の男性としての印象が強くなってきていた。
「雷門へ入ってから、ずっとお前のことが好きだった」
サングラスを外して、鬼道は硬い背もたれに体を預ける。
「えっ? それって……」
「ああ。友情を少し超えたものだ。円堂になら、何をされてもいいと思っていた」
半分冗談めかして言うと、円堂は笑った。ツッコミを聞く前に先を続ける。
「だから、心から嬉しく思う。当時は色々と勘違いや思い込みが多かったが、円堂のことが大切なのは変わらない」
微笑んで、見つめ合う。鬼道が先に、前へ目線を戻した。
「幸せになってほしい」
円堂の手が肩に乗せられ、情熱のこもった体温を感じた。
「そりゃ、お前のほうだよ。鬼道こそ、誰よりも幸せになってほしい」
また目を見れば、今度は困ったように笑っていて、今までの生い立ちや一番辛かった時期を共に乗り越えてきた彼だからこそ口にした台詞なのだとその目が伝えていた。
「じゃあ円堂が幸せになって、その姿、生き様を、おれに見せてくれ。それでおれは十分幸せになれる」
「えー? 俺は、鬼道が幸せになってるとこ見なきゃ、幸せになれないよ!」
「それじゃあ堂々巡りじゃないか」
笑いながら、サングラスをかける。円堂が「じゃあさ、」と何かを言いかけた時、後ろの出入口からフィディオが歓喜に叫んだ。
「マモルーッ!」
いつものやりとりとその後のサッカー三昧に埋もれてしまい、続きを聞くことはできなかった。きっとなにか、冗談を言うつもりだったのだろう、そんな表情だった。
一つ区切りがついたことで、晴れやかな心で楽しむことができたのは大きな収穫である。こうして少しずつ、人は成熟していくのだと思っていた。
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不動との関係は特に変わらない。ように思っていたが、実際はそうではない。
当人たちは意識的に、意識しないようにしていたし、周囲からは二人がやけに親密である雰囲気が顕著に伺われた。元から親密であるが、それ以上に。
得意げな顔をするフィディオの横で、それを快く思わない人物が顔を逸らす。イギリスから引き抜かれたMFロバート・ホランダー、彼は自分がゲイだと公言しながらもその人懐こい愛嬌のある性格で周囲から可愛がられていた。
DF が受け止めたボールを素早く司令塔へ繋ぐのが得意で、パス成功率はずば抜けているため鬼道は一目置いていたが、同時に警戒もしていた。自分ではなく不動に 対して、どうも態度が気になるのである。だからどうと言う資格は自分にはないことを分かってはいたが、彼の存在によって思考が乱れるのはどうにもできな かった。
「アキオ! さっきの、もう一回やろう!」
「あ? ああ……いいぜ」
ロバートに誘われて一足早くピッチへ出ていく不動は、何かを企むような笑みを浮かべていて、鬼道は眉を顰めた。
(あいつには自意識や危機感というものが欠けているのか? それとも節操が無いのか?)
倫理観について考えるなら、まず自分を棚に上げなければならず、鬼道は小さく溜息を吐いて手元のバインダーに集中しようとした。
「やきもち?」
「違う! ……フィディオ」
「分かりやすいねえ」
楽しそうな顔をサングラス越しに睨みつけ、バインダーを置いて水を飲む。
「ここまで来てるんだから、とっとと言うこと言ってくっついちゃえばいいのにさ」
「なっ……そんなんじゃない。勝手な推測をするな」
付き合ってられないとばかりに立ち上がる鬼道に口を尖らせ、フィディオは何か言いかけたが、それより早く封じてやった。
「おれは不動と、恋人とかそういうものになるつもりはない。勘違いしてもらっては困る」
ピッチへ向かう鬼道の背に、フィディオが聞こえるように呟いた。
「ふぅん? 誰もそんなこと言ってないのに」
カッと顔が火照ったが、無視して歩を速める。分かりやすい性格だとは自分でも気をつけているつもりだが、不動にどこまで見破られているかは全く検討がつかない。
(まずいな)
目線の先で、ロバートが不動の肩を抱き、連携の成功にはしゃいでいる。同じくらいのテンションで応えている不動を見て、このまま自分の中の想いも自然消滅すればいいのにと願いたくなった。
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「不動、どう思う?」
「へぇ? 珍しいねェ。天才ゲームメーカー様が他人に意見を求めるなんて」
「ずっと一人で考えていると、分からなくなる時があるんだ……
一種のゲシュタルト崩壊だな。お前が一番理解力があると思ってな」
そして、挑発されて黙っていられるタイプでもない。思った通り、不動は得意気に見えるように笑んで強がりを隠した。
「人は誰しも完璧じゃないってか」
「フッ、そういうことだ」
「オレにこそ聞かねえ方がいいんじゃねぇの?」
「確かに、全く関係ないと思われる所にこそヒントがあるということは往々にしてあるが、敢えてお前に聞くのは反対意見が欲しいからだ」
「成る程? 粗探しして欲しいワケか。妙なご趣味をお持ちのようで」
マントが風にたなびく。西日に目を細めながら、不動は余裕綽々といった風で言った。
「いいぜ、言ってみろよ。尽く潰してやるぜ」
「やってみろ」
ゴーグルの下がにやりと歪む。並んでベンチに腰を下ろし、マネージャーが呼びに来るまで陽が沈んだことにも気付かずに論議を繰り広げた。
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朝から、もっと言えば数日前から鬼道の機嫌が悪いのは、自分のせいじゃないと言い聞かせていた。あんな不完全燃焼の行為をした後で自分は関わっていないと思うのは些か無理があるが、気にしていたら無駄に神経が磨り減るだけだ。しかし二人きりで同居している以上、状況はかなり厳しい。助っ人がいればまだしも、言語も種族も政治も違う場所で知り合いも限られた中、閉鎖的に暮らしているのだ。排他主義なのかと疑いたくもなる。
本人は「気にするな」と言っていたが、お互いに気分で衝突ができるほど器用ではないし、不動には訳の分からない些細なことでいちいち突っかかってきたりする。さっきもピッチで口論になりかけ、早々に切り上げた鬼道の異変は周囲にも明白なほどらしい、いつ見かけても楽しそうなフィディオがやってきて尋ねた。
「なに、夫婦喧嘩? 大変だねぇ」
話しかけた対象を確認するため振り向いただけなのに、フィディオはサッと両手を上げて攻撃するつもりはないと畏れを示す。睨む前にうんざりして、着替えを続けた。
「生理なんだろ」
ユニフォームを頭から脱ぎながら言うと、フィディオは隣のロッカーに寄りかかって吹き出した。
「止してよ、あり得そうで怖いから」
濃い緑のTシャツに袖を通し臍の下まで覆いジーンズを履くと、ベンチに座ってスパイクからスニーカーへ履き替える。
「お前は万年ハッピー野郎で悩みも無さそうだよなぁ。羨ましいぜ」
嫌味ったらしく言っても、万年ハッピー野郎には通用しない。フィディオは寄りかかったまま、胸の少し下でゆるく腕を組んだ。
「まさか! 僕たちだって喧嘩するよ。でも今は離れてることが多いから、一緒にいる時間を大切にしてるのさ。心は離れないように、無意識に意識してるんだ。ただでさえ彼の周りには人が集まってくるんだから、神経がいくつあっても足りないよ」
やや憂いを含んだ微笑に「あっそ」と言いたかったが堪えてやった。惚気話は聞きたくないが、これ以上いざこざを増やしたくもない。
「もちろん、いつも恋人の側に居られる方が羨ましいけどね」
ショーケースの中のケーキを眺める少女のような顔に、焦燥を覚える。そんな風に思われる筋合いは微塵も無い。
「ああ、言っとくけど、元々くっついちゃいねぇからな。くっつく気もねぇし」
「そうなの? もう君たちはとっくに、毎日ベッドの上でぴったり体を寄せあって、愛と数奇な巡り合わせについて語り合う仲かと思っていたよ」
おぞましいと大げさに顔をしかめたが、いつだったか似たようなことを望んだ気がする。バカだった。
「だーから、知らねえつってんだろ。お前のお姫様思考にはついていけないね」
ロッカーを閉めてバッグを肩に担ぐ。フィディオは肩を竦めた。
「何度も言うけど、オレはあいつとくっついたりなんだりする気は更々ねぇんだよ。一緒に住んでるのは便宜上ってだけ。変な誤解すんな。仲良しの男が全員ゲイで、全員いちゃついてるわけねぇだろ」
横を通って歩き出すと、しつこくついてくる。途中で自分のバッグを拾い、仲間たちに挨拶をしてから来た。不動もロッカールームを出るとき、仲間たちに一声掛けておく。
「真面目な話、君と彼は不器用すぎるよ。意見のぶつけ合いも結構だけど、発展的じゃないのは望んでないだろ?」
急に笑みを消したフィディオに心の中で頷きながら、溜め息で答える。
「知らねえよ、あいつが勝手に始めたんだ」
溜め息で返された。
「人間関係って難しいね。でも、プロの世界も難しいんだ。分かってるだろ」
言いたいことは痛いほど分かる。鬼道が何をそんなに気に入らないのかさえ分かれば、こっちだって苦労しないのだ。
ひらりと手を振って、駐車場を左右で別れる。車の中を覗いたが、先に出たはずの鬼道は見当たらない。バッグは後部座席に置いてあったので、すぐ戻るだろうと携帯電話を一応取り出した。もしいきなり鬼道がいなくなったら、どうすればいいんだろうか。家に戻らなければ、パスポートも何も無い。隣で車に寄りかかっていたセルジオが声をかけてくれた。
「小便。すぐ戻るってさ」
「了解」
タバコをふかしていたベテランの彼は、フィディオの兄貴分とも言えるやや大柄な男で、二十年間世界を渡りながらFWを務めてきた鷹のような鋭い眼は、普段は恵比寿顔のように垂れ下がっている。その眼で先程までのやり取りを観察していたのだろう、携帯電話を確認する不動に、彼は言った。
「ある兄弟が居てな、兄はよくできた優等生で、弟は兄ほどではないがまあこれもよくできた奴だった。弟は兄にコンプレックスを持っていたが、兄は弟を愛していた」
タバコを吸う間、話が途切れた。何も言わなくても先を続けてくれそうだったが、顔を上げて携帯電話をポケットにしまい、ちゃんと聞いていることを示す。
「ん、それで?」
「兄が良い仕事に就いて稼げば稼ぐほど、弟は悪事に手を染めていった。まともでない仕事はほとんど請け負い、荒稼ぎしたんだ。だが本当は、兄は弟が不自由なく暮らせるように二人分稼ごうと一生懸命になったがために、弟は兄と肩を並べて自立したいがために、お互いを思いながらすれ違ってしまったんだ。この教訓が分かるか?」
セルジオを真似して車に寄りかかり腕組みして聞いていた不動は、少し口元を歪めて頷いた。
「それアンタの話?」
「俺か? 俺は何にも不自由なくのびのびと育ち、普通の苦労しかせずに光栄なる活躍の場を得て、立派すぎる女房をもらった幸運な男さ」
タバコを足元に落として踏み消し、「チャオ」と残して赤いBMWは去っていった。経験者は嘘も上手いものだ。練習場の横から鬼道が歩いてくるのが見え、車から体を離して彼を待つ。
(分かってるけど……、何を話せってんだよ。気持ち的には言いたくても、何かの理由で言えないことだってあるだろ)
鬼道は相変わらず口を引き結んでいる。
「待たせたな」
「ん。晩飯さぁ、ボンゴレが食いたいんだけど」
あんなに肩に力を入れたままでよく疲れないなと思い、そんなわけないと思い至って、また少し眉間の皺に深さが増えた。
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終業を告げるチャイムで目が覚めたあと、すぐにサッカー棟へ行かず、肘の向こうの廊下を眺めながらぼーっとしていた。
「どうかしたのか?」
「あ?」
辺見に顔を覗き込まれて、やっと我に返っているようでは、司令塔どころか平凡なMFすら務まらない。
「あ? じゃねーよ。なんか最近おまえ、ヘンだぞ」
「ヘン? なにが」
「なにがって……心ここにあらずっつーか、なんつーか」
慌てて見えないようにゆっくりとバッグを掴んで肩にかける不動と、考え込む辺見の後ろから、成神が割り込んできた。
「もしかしてそれは……恋の病とやらでは」
「はぁ?」
「恋だよ、こ・い。恋に落ちるとどんな屈強な男もその相手しか見えなくなって、まるで魔法にかけられたようになってしまうと言う……」
「魔法なんかねーよ。思い込みだろ」
叩き切った不動を辺見と成神が非難した。
「ひっでー」
「夢のカケラも無いね」
「くだらねーこと言ってねーで、練習行くぞ」
廊下から顔を半分出して聞いていた佐久間が、腰に手を当てて眉を吊り上げた。
「お前が来ないから迎えに来てやったのに」
「へぇ。ご苦労さん」
三人の脇を通り過ぎて、廊下を先に行く。
「むかつく! やっぱりこんな恋煩いの木偶の坊放っといて、先に行けばよかった」
佐久間が憤慨した様子で呟いた。辺見が腕時計をわざとらしく見せて言う。
「本当だよなぁ。誰かさんのせいで五分過ぎてるぞ」
「わあったよ。悪かったよ。早く、行くぞ」
ついてこない一同を振り返ると、驚いた顔が三つ並んでいる。
「あんだよ? 謝ったろ」
「やっぱヘンだ」
「不動が謝るなんて……明日は雨かなぁ?」
「おい、ふざけんな。人がせっかく同じ土俵に降りて来てやったのに」
偉そうに笑って、足を速めて誤魔化す。
「あー、台無しだぞ、せっかくいいカンジだったのに」
「負け犬の遠吠えって言うんだよ、それ」
すかさず突っ込む成神と佐久間に、辺見が呆れて呟いた。
「お前、それ言いたかっただけだろ? 決め台詞的な。しかも微妙に合ってないし」
「うるさいー」
くだらない迷信は信じない。恋愛なんてものは、一時的な幻だ。現実から逃避したい奴らが勝手に夢を見て、自己満足に浸り合い、理想の生活を壊さないようにどれだけ努力できるかを競っているだけだ。
愛情は大切にしてきたつもりだ。間違えはしたが努力はしていた両親、まともな道へ戻るきっかけを与えてくれた響木、皆と同じ台へ上がろうともがいていたところへ真っ先に手を貸そうとしてくれた円堂。
誰よりも理解してくれた鬼道、過ちを許してくれた源田と佐久間、受け入れてくれた帝国イレブンの皆、クラスメイトの皆。
居なくても良かったなどとそっぽを向くほどひねくれちゃいない。だが彼らは偶然そこにいたのではなく、自らの行いに免じて必然的に配置されていたのだと思う。
響木の手を振り払ったら、その先は無かったかもしれない。円堂の手を取らなかったら、鬼道に心を許さなかったら、その先は無かった。帝国に転入するどころか、サッカーだって続けられたかどうか分からない。
恋と愛は表現が違う。だからといって、愛情と友情もまた違う。
履き違えないように確認に確認を重ね、慎重に行動し発言することを意識してはいたが、第三者から見た不動は隙だらけの思春期の青少年に過ぎなかった。
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ここのところ不調が続いていたネロが、とうとう足首を痛めた。二人一組で練習中に抜きがうまくいかず、ひっかけて強打してしまったのだ。
そのことでペアを組んでいたマルコに敵意を向け、言い争いに発展した後、ネロは休養となった。
「MFが減っちまったからまた組み直さねぇと」
溜息と共に呟いた不動とすれ違い、マルコの様子を見に行った。ネロを家へ帰したコーチから釘を刺され、今はロッカールームのベンチで休んでいる。
「マルコ、大丈夫か?」
鬼道がプレスタンテに入る前から、マルコは主要DFとして活躍している。入った時期と歳が近いこともあって、鬼道と仲間とよく飲みに行ったりもした。
いつも陽気な彼が珍しくうなだれているのを見て、隣に座って肩を叩いた。
「ネロは最近、調子が出にくかっただろう。それでピリピリしていたんだ。おれは生憎、一部始終を見ていなかったが、皆はマルコに落ち度は無いと言っているじゃないか?」
「ああ……」
彼は心優しいので、他人を責めるのは好まない。
「ネロも、休むべき時だったんだ。彼が自分で選んだのさ」
頷いて微笑むのを見て、グラウンドへ戻る。一人にしてやったほうがいい時もあるのだ。
他のメンバーたちはドリンクを飲んだりストレッチをしたりして待っていた。ネロがいなくなって悲しんでいる様子はあまり見られない。
「マルコもすぐ戻ってくる」
メンバーを見渡して言った時、不動だけが睨むようにして目線を返してきた。一瞬だったので、見間違いかとも思うほどだった。
言ったそばからマルコが後ろから現れ、練習を再開する。
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最近の鬼道はどうも変だ。先日ピッチでミスした時も、すぐに飛んできてこう言った。
「お前は今のままでいいんだ。連携よりもトラップスキルを磨いてくれ」
イギリス人MFロバートとうまい連携方法を思いついたはいいが、なかなかタイミングが合わず、しかし二人とも希望の尻尾を掴んでいて、捕まえられると確信し始めた矢先のことである。
「やってるよ。でも、ロブともうまくやれそうだぜ? チャンスがあればモノにするのがプロってもんだろ」
何が気に入らないのか、真一文字に結んだ口から小さく呟きが漏れる。
「……勝手にしろ」
「おい、待てよ。チームでやってんだろ。お前が一番分かってると思ってたぜ?」
黙って行ってしまう鬼道を眺め、不動は眉間のシワを深めた。
次の日謝ってきたが、どうも変だ。確かに微妙な関係だし、中途半端なことが好きじゃないのも分かっているが、それだけじゃない何かが鬼道を悩ませているらしい。
(他人を巻き込むなっての。面倒くせえ奴)
自分はどうなのだと、もう一人の己が問いかけてくる。
(オレはどうしたいんだろうな)
鬼道有人は彼と同じくらい機知に富み外見も整った女性と結婚して健康な子供を産み、日本一の資産と家名を引き継ぐのだと思っていたが、今までの彼を見ているとそれはどうも不可能に近い気がする。これは決して、希望的観測なんかではない。
(だからって、場の雰囲気に流されちまうオレもオレだよな……)
チームメイトに、況してや親友に手を出すなんてことはしないと高を括っていたのは、どこのどいつだったのか。しかし客観的に見ると、一緒に過ごしているメ リットの効果は計り知れない。彼のわずかな表情、十本の指が示す先、行動のタイミング、思考回路が、手に取るように理解できた。うまく言えないが、全て感 覚である。
それと同時に、深入りし過ぎている自分も自覚していた。
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夜遅く、サラリーマンや独身男で混む少し前の時間に、雷雷軒の引き戸がカラカラと静かに開けるのは、大抵決まって一人の人間だ。
「いらっしゃい」
「……どうも」
一度丸刈りにした頭を隠すためにニット帽を被っているが、目つきは相変わらずの少年がカウンターに座る。響木は密かに少し笑んで、どんぶりを一つ取り出した。
「剃ったのか」
不動はうるさいとでも言いたげなむくれた顔に頬杖をつく。
「似合ってたのになぁ、モヒカン」
「寒いんだよ」
彼は大会で優勝できたことの一因を、この商店街で干からびているラーメン屋の店主に結びつけているらしく、金が無いくせに小遣いを溜めてはこうして、顔見 知りに出くわさない時間帯を選んでやってくる。友達との交流に使わないところを見ると、彼なりの恩返しのつもりなのだろう。
響木はやや大盛りのラーメンを不動の目の前に置いた。
「いただきます」
無愛想だが手を合わせて小さく呟くところも、普段の言動や目つきにそぐわず几帳面で情に厚い心を持っていることを表している。響木は自身の経験から、粗暴な少年たちにはそれぞれ事情があり、必ずしも外見と内面は一致しないことを嫌というほど理解していた。
「なあ、不動。この星に哺乳類が何種類いるかなんてこたぁ俺は知らねえが、これだけは知ってる。口で言葉を喋るのは、人間だけだ。このことがどういうことだがお前、分かるか?」
口いっぱいにラーメンを頬張って咀嚼しながら、不動は店主を見上げる。
その目を見、小さく頷いて、餃子が5個乗った皿をどんぶりの横に置いた。
「成長期だ、これも食え。サービスだ」
不動はフッと笑い、それを隠すように言った。
「そのうち潰れんぞ」
「うるせぇよ、クソガキ」
響木は調理場の奥へ向かう。サラリーマンが入ってきて、カウンターに一人座る中学生を不思議そうに一瞥した。
3170
眉間にシワを寄せて、鬼道はベンチに腰掛けていた。手にしたドリンクは既に空だが、彼の意識は別のところにあった。
一人一人の感情は年齢や性別や種族を超えてチーム全体で繋がっている。誰のせいなどと無意味なこじつけはしないが、明らかに共同体として未完成の部分がある。
こんな時こそリーダーがしっかりしていなければいけないのだが、フィディオは「何とかなるさ」と楽観的だ。これだからイタリア人は困る。
面倒は全部周りの人間に押し付けて、自分は一番良い所を取るような彼のスタイルにも嫌気が差したが、今はそれよりももっと大きな問題があった。
(やはり、おれがあいつを何とかしなければ)
同居してもいいと言った手前、鬼道は責任を感じていた。
不動が入ってからチームはさらなる個性に富んだが、個々が突出したせいで衝突も増えた。まさかとは思ったが、現に自分が精神状態の変化を経験している。不動だからといって、真っ先に疑うのは気が引けるが仕方ない。
事実は事実なのだ。それに前科もある。皆の前で堪忍袋の緒が切れることは何とか抑えることができた。
夕飯を終え、明日に備えてリラックスするための自由時間に、鬼道は思いきって切り出した。
「不動、ちょっといいか。分かってると思うが、最近タイムが落ちてるぞ。パス成功率は先月よりひどい」
バインダーとノートを持ってソファの横に立つ鬼道を、不動は少し驚いたような表情で見上げる。
「自分でも分かってるんだろう? なぜ改善しようとしないんだ」
その顔がうんざりしたようになって、不動はだらしなくソファに身を沈めた。
「うるせーな、オレが自分で分かってると思うんだったら放っとけよ。お前には関係ねぇだろ」
「関係あるからこうして話をしようとしているんだ。まずその態度を何とかしろ」
ここで悪化させることは避けなければと思っていたが、どうやら考えが甘かったようだ。せめて練習場内で話せばよかったと鬼道は苦虫を噛み潰す。
「ハイハイ、分かりましたよ、鬼道ぼっちゃま。でも、オレたちは命令ばっかしてねぇで、もっと他にやることがあんだろ? ほらほら肩の力抜いて~。大切なのは仲間だって、キャプテンが言ってただろ」
「仲間だからこそ、こうして心配しているんだろう……! お前に言われたくない!」
「あっそ。別にいいけど」
怒りが先走って、言葉が出てこない。わなわなと震える鬼道を置いて、不動は自分の部屋にしているゲストルームへ引き上げた。これ以上話しても無駄だ、そう思った鬼道もそのままソファへ腰を下ろす。
(円堂を引き合いに出すなんて。チームで未完成なのはお前だけだというのに。こうなったら本当に放っておくぞ)
追いかけて行けばまた口論になるのは目に見えている。些細な喧嘩なら、少し時間が経った頃に何か別の他愛無いきっかけで会話が始まり、それが自然と関係の修復に繋がるのだが、今回は沢山あったその機会をずっと無視し続けた。
風呂に入るのもバッティングしないよう様子を伺いつつ黙って入ったし、「おやすみ」も言わなかった。
彼が自分に対して攻撃的になった理由はどうせ昔からの劣等感やその他様々な感情からだろうと決めつけたことが、鬼道の唯一の大きな間違いだった。