<5000ピースのジグソーパズル 14>
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電話をかけてきた鬼道は珍しくパニクっていたので、オレは車を飛ばして駆けつけた。日曜の午後でも幸い道は止まるほど混んではいなかったし、それほど遠い場所にもいなかった。
車を降りると走って地下駐車場からエレベーターに乗り、でかいデパートの上の方の階にある見晴らしの良い休憩用ベンチに座って頭を抱えているのを見つける。近くに他の客はいないが、声は落とした。
「おい。有名人がこんなとこで何やってんだ」
足音でパッと上げた顔が相当参ってるだろう時のそれで、オレはそれ以上場の空気を軽くしようと無駄に言葉を使うのはやめ、隣へ腰かけた。
「ここでいなくなったんだ。戻ってくるかもしれない」
外出許可をもらった宗一朗を連れて買い物へ来たはいいが、トイレへ行くから待っててと頼まれ、このベンチで待っていたらいつまでも帰ってこない。迷うはずはないし具合でも悪くしたのかと思ったが、トイレには誰も居なかった。トイレの横には全フロアへ続く階段があり、館内放送もしたが連絡はない。一人では探しに行ってもここで待機する人間がいないからと、助っ人を呼んだのだった。
真っ先にオレにかけたのは一番可能性があったからだろう。暇そうで頼みを聞いてくれて事情も知っていてある程度信頼のおける奴。鬼道の中でオレがどういった位置にいるのかなんて考えたくもないが、とりあえず来ても、この状況にオレは役に立たないのではと思った。
「おれは宗一朗を探してくるから、ここにいて待機していてくれないか。もしあの子が戻ってきたら連絡をくれ」
二人で探しに出たほうがいいんじゃねぇの、と思ったが黙って頷いた。
「分かった」
「すまないな」
鬼道は速足で玩具売り場へ向かっていく。オレはベンチに腰かけたまま、トイレの方を見た。めかし込んだ金持ちそうな婆さんが二人、話しながら出てきたところだ。また後ろを見ると、鬼道の姿は見えなくなっていた。玩具売り場の手前にある文房具売り場に、若い女と幼い男の子がいる。男の子は五歳くらいで、欲しいオモチャを買ってもらえなかったらしく、ぐずっているが聞き取れない。母親らしき若い女は小学校に持っていくための鉛筆セットを買ってやりたいらしく、どのキャラクターがいいか息子に聞くが扱いは適当だ。しまいには泣き出した息子に泣くなと叱りつける始末。ああいう時はどうしたら一番いいのか、欲しい物を片っ端から買ってやれば傲慢に育つだろうが、少なくとも他人の物は奪わないだろう。但し金がある場合に限る。
与えずに我慢させることを覚えさせ、そのために叱るようでは、ひねくれ、他人の機嫌を窺うことがうまくなるだろう。その場合、目下の者には横柄に振る舞うかもしれない。
結局、人格を形成する事象はこういったことだけが全てではなく、日頃からバランスを取っておくことが大切なのだという結論に至り、ふと自分はどうだったろうと思い出した。
母親は早くに両親を亡くし、親戚の援助が多少あったかもしれないが、ほとんど一人で世間の波に怯えながら生きてきて父親に出会った。すがるように結婚して オレが産まれ、父親の両親も他界して孤立無援になってからも家族三人何とか仲睦まじく暮らしていたと思う。そう、束の間の幸福は存在した。
引っ越した後に小学校へ入ったのだが、入学式から一緒に居たって余所者は転校生と同じ扱いで、不動家の三人は無人島に暮らしているも同然だった。
子供というのは意外と大人のことをよく見ている。オレは元々親が裕福ではないと何となく知っていたし、それでも大丈夫だと思っていた。これは性格の問題か もしれないが、家に危機が訪れたのも察していたし、それについて両親に文句を言ったりすることはなく、代わりに態度で示した。職人気質な父親に似て、元か ら口数が少なかったこともあり、自立できる力を身につけ何もない港町を飛び出してきた。
そんな昔話を思い出していたら、宗一朗の失踪理由に思い至った。オレは立ち上がって、まず男性用トイレに入った。誰もいないのと窓が無いのと隠れる場所が無いことを確認して、外へ出る。階段から下のフロアを覗くと、質の良さそうなスーツが並んでいるのが見えた。オレは階段を弾むように二段飛ばしで上がり、屋上へ向かった。
午後の陽射しが暖かい。遊具を自由に使いはしゃぎ回る子供たちの横で、お洒落したママさんたちがベビーカー片手に立ち話をしている。ベンチに腰かけた老人は呆けているのだろうか空を眺め、別のベンチではデパートの柄が入った紙袋を三つも足元に置いた男性が、子供を遠目に見ながら携帯をいじっている。
そんな屋上の風景の端に小さなペットショップがあり、入り口からは見えない奥の薄暗い水槽が並ぶ棚の前に、宗一朗はしゃがんでいた。
「なにしてんの。グッピーちゃんとお友達になれたか?」
はっと顔を上げ、宗一朗は立ち上がった。どうも、この子供の性格が掴めない。
「違うよ。カージナルテトラだよ」
「カージナルテトラね。何でもいいけどさぁ。喉渇いただろ? なんか飲もうぜ」
宗一朗は不動について大人しく出てきた。肩をぽんぽんと叩くだけにとどめ、今は掴まないでおく。
ペットショップの外壁にある自動販売機で缶のグレープジュースを二つ買った。空いてるベンチに腰かけて、缶のひとつを宗一朗に渡す。
「開けて」
「自分で開けらんねーの?」
宗一朗は戸惑った。オレは手本を目の前でゆっくり見せてやる。真似しても少し力が要るらしくもたついたが、すんなりとできた。
「ホラ、できるんじゃん」
達成感に浸りながら飲むジュースは格別なはずだ。オレは喉が潤うまで少し待ってやった。
「あとな、人に何か頼む時は、開けてください、だろ。鬼道に嫌ってほど言われなかったか?」
「うん」
その「うん」は、肯定の返事っぽい。つまり言われなかったのだ。オレはよその子だし仕方ないかと息を吐いて、鬼道に報告しようと携帯電話を取り出した。
「あっ、だめ!」
宗一朗が携帯電話を奪おうとしたので、すかさず届かないように手を高く伸ばす。しかしこれでは連絡できない。
「分かった。鬼道には言わないよ。分かったから、落ち着け」
宥めながら手を下ろす。宗一朗は警戒したままだが、奪おうとするのは止めてくれた。
「バカやってんじゃねーよって言いてえトコだけど、それはあいつに任せるわ。オレにはソウの気持ちも、分かるような気がするからさ」
見ると、宗一朗は俯いて両手で膝の間に置いた缶を支えていた。
「ママと出掛けた時もよくやってたんだろ。でも見つけてもらえなくて、オレも寂しかった」
宗一朗が顔を上げてオレを見たので、少し微笑んでおく。ヤローの笑顔なんて大した価値も無いが、無愛想よりはいい。
「あのな。鬼道のパパとママは、飛行機事故で死んじまったんだ。今のソウと同じくらいの歳だったんじゃねぇかな。なのに普通に飛行機乗ってFFIに出たし、イタリアのチームに入ったんだぜ。オレだったら大人になっても怖くて飛行機乗れねぇよ」
少し沈黙した。背後では幼児たちのはしゃぎ声がする。さらにその遠くに、車が行き交う音が聞こえている。
「ソウのママだって、酒飲まなきゃ優しいきれいなママだろ? きっと見つけてくれたと思うぜ」
ちょっと無責任な言い方になってしまったかもしれないが、不思議なことにオレは宗一朗に対して情を感じていた。自分と共通する部分を見つけたせいだ。
「鬼道は両親がいなくて一人で育ったけど、優しさがどういうものか知ってるだろ。こんな面倒くせぇことしなくても、あいつなら分かってくれるって」
携帯電話を操作して、今度こそ電話をかける。
「屋上にいた。何も問題ないしオレが付いてるから、ゆっくり来いよ」
宗一朗は黙っていたが、携帯電話をポケットにしまうのを待って口を開いた。
「不動はどうして見つけてくれたの?」
それを聞いて、ちょっと苦笑する。
「あきお兄ちゃんだろ。ったく」
問いには答えられなかった。
「宗一朗!」
オレたちを見つけるなり、鬼道は飛んできて宗一朗を抱き締めんばかりだった。
「心配したんだぞ! ああ、無事でよかった。頼むから勝手に居なくならないでくれ。行きたいところへはどこへでも連れてってやるから」
必死な様子には、関係ないオレまで謝りたくなってくる。
「……ごめんなさい」
よーし、偉いぞ。関係ないのに誇らしくなって、オレは頭をぐしゃぐしゃ撫でてやった。鬼道は宗一朗を挟んでベンチの反対側に座り、小さな肩を抱く。
「それで、何をしていたんだ?」
こんなに頼りない鬼道を見るのは初めてだろうか、かなり珍しい。よっぽど参ったのだろう、早く連絡してやればよかった。
「グッピー見てた」
「違うよ! カージナルテトラだもん」
オレのボケにすかさず突っ込んでくるとは、なかなかやりおる。
「あそこの奥にいた」
ペットショップを指すと、鬼道は納得した。宗一朗に屈んで言う。
「熱帯魚が好きなのか?」
宗一朗は首を横に振る。
「お腹空いた」
思わずオレは吹き出した。子供はこうでなくちゃ。
「オレも空いたー」
「お前は……」
便乗すると怪訝な顔をされたが、すぐに困ったような微笑に変わった。
「じゃあ、三人で食べに行こう。何が食べたい?」
「お寿司!」
「お、いいねえ。さすが、カモるポイントを分かってるぜ」
囁いて、宗一朗の背を軽く叩く。
「おい」
呆れた制止の声は聞こえないふり。車を飛ばして駆けつけてやったんだ、寿司くらい奢ってもらう権利がある。
「兄ちゃんの車に乗れよ」
屈んでひそひそと囁くと妙な親近感が芽生えたのか、宗一朗は共同戦線風が気に入ったようだった。立ち上がり、苦笑いするしかない鬼道の隣に並んで歩き出しながら、数歩先を行く小さな背を眺める。
「お前の親のこと、話しちまった」
我先にとエレベーターのボタンを押しに行く姿に、幼き日の自分が重なる。オレが連れてってもらったのは、こんな立派な九階建てのデパートなんかじゃなかたし屋上にペットショップなんか無かったが。
鬼道は思ったよりやわらかい声で答えた。
「かまわんさ。どうせいつか話した」
プライベートへの干渉はある程度慣れているのだろうが、それにしても。
すっかりはしゃぎ始め、今度は水族館へ行きたいなどと話している子供と鬼道を見守りながら、オレは深刻な考えを段ボール箱に押し込め、なんとかパンパンに膨らんだ箱の蓋を閉じようとしていた。
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高級住宅街に広々と敷地を取る鬼道家の屋敷は、塀に囲まれているため外からは屋根の上の方しか見えないが、三階建ての立派な洋館であることが窺える。江戸 時代から続く敷地は災害や空襲を免れたが、洋物が流行して貿易に着手し、真っ先に洋館に建て替えたらしい。それが義理の曾祖父に当たる人物である。
この家に帰ってきたのは一年ぶりだ。十二年間暮らしていた広すぎる家は静かで、懐かしい香りと空気に満たされている。
居間にも書斎にも庭にも居ないのでメイドに尋ねると、義父は急に用ができて出掛けたらしい。いつものことなのでそれ程驚かないが、少し心の温度が下がった。メイドを労い、荷物を持って自分の部屋へ向かう。
(眠くない。けれど、早く時差ボケを直さなければ……)
ベッドにスーツケースを置いて、カーテンを開けに部屋を横切ろうとした時、壁にかけられた大きな額入りの絵が目に止まった。鬼道は佇んだままそれを眺める。
素朴な湖畔の家と美しい幻想的な風景が見事に描かれたその絵が、未完成のパズルだと知っている。足りない一ピースの件でメーカーに電話していないのは、何 かずるい気がしたからだ。失くしたものは必ず出てくるはずだと信じていたが、一方では自分の落ち度もあると思い、戒めの為にそのまま飾っていた。
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引きこもっていることに飽きた不動が、たまにはもっと別の場所も行くべきだと騒いだので、遠出することにした。
「べつに市内観光でも何でもいいよ、どっか行こうぜ」
そこで来たのが海辺の町。家から車で二時間、イタリア最大の貿易港で様々な店があり、リグリア海にはコンテナを積んだ貨物船が沢山浮かんでいる。
大聖堂の美しい内部、市庁舎でパガニーニが愛用したヴァイオリンを眺め、町外れにある彫刻だらけの大きな墓地を覗いた。観光者たちとすれ違い、何千何万の彫刻たちが見守る静謐な墓地を抜けていく。
「オレが死んだらこんなとこに埋まりたくないね」
「どうするんだ?」
「燃やして無くなった方がよくね? 跡形もなく」
遠くに見える墓石は綺麗に掃除され、あちこちに花が置かれているのが見える。青々と繁った芝生の真ん中にできた小道をゆっくりと進み、門から出て町へ戻る。
「だって何もねぇじゃん。骨が埋まってるからって、何だってんだよ」
「お前な。バチ当たるぞ」
「ああ、棺桶でそのまま埋まってる場合もあんのか。にしても、石とかでかくて、いちいち場所も取るしさぁ」
彼らしい言い方に、不謹慎だと思いながらつい吹き出した。
白い十字架を象った墓石の前で、ロザリオを胸に跪くふくよかな婦人が見える。
「生前に縁のあった人が会いに来るための場所が墓だろう。ただの冷たい石で、例えその下に何も埋まってないとしても、ある人にとっては意味があるんだ」
不動は半分くらい納得したようだったが、まだ不服そうだ。
「とにかくオレの墓は必要ないね」
「なぜだ?」
「あってもしょうがねぇよ。誰も来ないし」
フッと少し笑って、青い空を見上げる。道の向こうで、歌いながらギターを弾く若い男がいた。
「おれが行くさ」
そう言うと意外な答えが返ってきた。
「オレはオレの知ってる奴らよりめいっぱい長生きして一番最後に死ぬから、オレの墓には誰も来ねぇって意味だよ。特にお前は。オレより先に死んでんの」
「縁起でもないことを言うな。そして人を勝手に死なすな」
諌めておいたが、込められた想いを感じ取れたために、震えるほど嬉しかった。無性に、どっちが先に死ぬかについて尽く反論してやりたい気分になる。この先何が起きても、今彼と過ごした時間はかけがえのない記憶になる。そう思わせてくれるような想いだった。
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不動明王という男は、滅多に他人に心を許さない。嫉妬心があれば尚更だ。競争心を抱く相手は山ほどいるが、寄り添いあえる存在は無い。自ら他人と関わることを避けているわりには、自分から喧嘩を売り買いしてしょっちゅう問題を起こす。
そんな彼の激しい攻撃と罠を掻い潜り和らげ、信頼を得ることができたのは、ひとえに愛情の成す妙技だ。
「鬼道クーン、バインダーは?」
戸口から部屋を覗き、ベッドの上に広げていた資料を見て、不動は許可を待たず隣へやってきた。
鬼道が広げていた資料の中で確認したいことがあっただけらしいが、一通り見終わってもまだ居座っている。パジャマ姿で枕に背を預け膝にノートパソコンを乗せてグラフデータを作成していた鬼道は、一段落ついてファイルを保存した後に閉じた。
「緻密な管理、お疲れ様」
メールチェックをしながら嫌味っぽい労いに答える。
「サッカーも数字で管理する時代が来ている。彼を知り己を知れば百戦して危うからずと言うだろう」
「ウーン。まあな」
パソコンの電源を切り、ノートやファイルと共に机の上へ片付ける。いつの間にか、下着とTシャツだけで来ていた不動は、人のベッドに寝転がっていた。
「あのさぁ」
「ん?」
やれやれと思いながら、天井の電気を消す。明かりはサイドテーブルのランプだけになった。
「鬼道クンの幸せってどんな? 具体的に」
「おれの幸せ……?」
危うく、今十分に実感していることについて本人に言いそうになる。深呼吸して、少し考えた。
「そうだな、愛する人と一緒にいられて、サッカーがいつでもできて、春奈や周りの人たちが幸せなら、言うことはないな」
「ふーん」
帰る気配を見せないので、隣に寝転がる。話が終わったら帰るだろうと思った。
「そういうお前はどうなんだ?」
「オレ?」
まさか聞かれると思っていなかったような声を聞き、密かに苦笑する。
「オレは、まず一流として認められるだろ、超美人の恋人にメロメロになってもらって、何の縛りもなく気ままに暮らしたいね」
「お前が考えそうなことだな」
少し笑って言うと、フフンと得意げな声が聞こえた。
「鬼道クンはじいさんになっても変わんなそー」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味だよ」
もぞもぞと、不動は足元に畳んであった毛布を引っ張ってくる。
「おい。寝るなら戻って寝ろ」
「めんどい」
「狭い」
「うるせーな……」
欠伸をしながら背を向け、肩を丸めて寝る態勢に入られては、ため息を吐くしかない。
仕方なく、ランプも消した。やっと部屋に夜が訪れる。
「おれは死にかけて人生を振り返った時、やり残したことがないようにしたいんだ」
暗闇で不動の声だけが聞こえる。
「人生なんて、やり残したことだらけじゃねぇ?」
「多少は、仕方ないだろう。人間だから過ちも犯す。しかしそれより、どう死ぬかが重要なんだ。この間読んだ本に書いてあったんだが――やはり、人間は死から逃れられない。それならば、どう生きるかはどう死ぬかに関わってくるということだ」
不動はもう眠ってしまったのかと思ったが、少し後にくぐもった声がした。
「お前っていっつもそんなんなのな。何が起こるか分からねえのが人生だろ。一回パラシュートでもやってみれば?」
暗闇の中で、隣に温かい体温を感じる。こんな状態じゃ眠れないと思ったので、不動の使っているベッドへ自分が移動するかとも考えたが、だんだん目蓋が重くなってきた。
「今が幸せだから、幸せでなくなった時のことを考えてしまうんだろうな――」
規則正しい寝息が聞こえていて、念のため肩に触ってみるが反応はない。丸みを帯びた筋肉を撫で、無意識に顔を近づけた。目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。布団や石鹸の臭いに混じって、ほのかに漂う不動の臭いがした。
1904
当然のことながら、下位チームは争いが激しい。誰もが上へ行き、一部リーグに入るために必死になって戦っている。同期で海外に出たのは鬼道や円堂の他にも 数人いたが、強豪だが外国人には過酷な環境と言われるスペインへ何のコネもなく度胸だけで乗り込んだのは不動だけだった。
プロ選手に必要なのは強い精神力。足が思うように動かなかったり、息切れでくじけそうになる度、恐怖が襲い掛かる。一文無しになりかけながら言語も民族性も違う場所で、摩擦の中でひたすら上を目指し進む。
無力感、絶望、見下されること、鬼道有人と比較されること。
(オレからサッカーを取ったら何が残る?)
彼と共に一度沈んだ帝国学園を日本一の雷門中とほぼ同じところまで引き上げ、戦いにおいて感情は二の次だと思っていたことが間違いだと悟った。
これは戦いでも争いでもない。これは自分を表現するもの、人と人が繋がるための一つの手段。鬼道が目の前からいなくなって、自分の存在意義を考え直した。
サッカーが好きかと聞かれたら、分からないと答えるだろう。
(これがオレの全てだ)
この国は特に外国人への待遇が悪い。それどころか不動が半ば無理やり身をねじ込んだニ部リーグは給料も雀の涙で、殺伐としたロッカールームでは嫌がらせなど日常茶飯事。だが見知らぬ土地でも差別があっても、良いボールを回せばすぐに打ち解けることができる。
愛媛へ引っ越したばかりの頃、住宅街の隙間にある小さい空き地のような公園で、ボールを蹴る少年たちを眺めていた。ただ出鱈目に、無邪気に薄汚れたボールを蹴り合い、戦略や駆け引きはおろか勝敗の概念すらない。
好きな選手の称賛合戦を繰り広げ、すごい技を真似して再現しようと一生懸命に両足を動かす。
いつも鬼道と比べられ、ステータスもルックスもどちらがインパクトがあるか、より強く賢いのはどちらか、常に監視され管理されていた。それは今も続いている。不動は同時期にプロを目指す日本人の中では、そこそこの選手でしかない。
(自分らしさって何だ? オレのサッカーって何だ?)
鬼道は相手の上を行き、翻弄して落とし穴へ突き落とし、絶対的に的確で圧倒的な戦略によって勝利を掴む。
不動は相手の思考の裏をかき、誰も思いつかないような、むしろ馬鹿げてさえ見える奇抜な戦略を立て、ボールを奪い自分のペースへ丸め込むのが得意だが、それを周囲が理解するのに時間がかかり、チームが彼に協力するまでは一流のトラップも成功しない。
運が良かったことに、監督が不動の実力を見抜いて信じた。一つ一つクリアして前進する度に、自然と不安定だった土台は固まっていき、いつしか飛び入りで強豪国に単身乗り込んで行ったことを馬鹿にしていた奴らも口を閉じるようになった。
不動が脇道に逸れず己を高めるために一切手を抜かなかったのは、彼の目が常に一つの方向を見据えて動かなかったからである。対照的な存在は、道標に役立つ。
「さすがに敵わない」と思った相手は円堂や豪炎寺を始め大勢いるが、「絶対に彼に対して負けを認めたくない」相手は少ない。不動の場合は、一人だけだった。
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なぜおれは鬼道有人なのだろう。なぜおれはここにいるのだろう。なぜおれは男に生まれたのだろう。答えを探すのは愚かだと言う人がいるかもしれないが、答えは探し続けるべきだとおれは思う。たとえ見つからなくても存在しなくても、探すことに意味がある。
もしおれが女性だったとしたら、別の世界でお前に出会っていたら、結婚して子供も儲けたかもしれない。だがその別の世界のおれは男ではないし、サッカーも やっていないかもしれない。それにきっと、おれが女だったら、お前はおれのことを対等に見てくれないだろう。おれのことを崇め、見下し、その尊い本能を もって守ろうとするだろう。そんなのはご免だ。
おれはおれとして、雲心月性、青々としたフィールドの上で立っていたい。他の誰でもないひとりの人間、ひとりの男、ひとりの魂として。
愛する人と共に過ごした時間は永遠に輝き続ける。宇宙の片隅に刻まれ、時を彷徨う。何度生まれ変わっても、おれはお前を見つけるだろう。何度出会っても、お前はおれを呼ぶだろう。季節が移ろい、生き物たちが繰り返す営みと同じように。
いつかは報われる時が来るかもしれない。お前がそれを望むなら。
昨日洗ってベランダで干したばかりの清潔なタオルで顔を拭き、ベンチに座って水を飲む。ペットボトルのキャップを閉めてふうと一息吐くと、下着姿のニノとマルコが目の前へ並んだ。鬼道は座ったまま彼らの会話に耳を傾ける。
「けっこうマジで惚れたとかって、もうメロメロだったよ」
「ホントに? 一ヶ月前はアンナさえいればいいとか言ってなかったか」
「ウン、俺も信じられなくて、何回も聞いちゃったよ。アイコンタクトのしすぎで、好きだって錯覚してんじゃないかとか」
適当に聞いていただけだったのが、思わず体が強張った。どうやら、二人の共通の友人である男性は生粋の女たらしだったようだが、何がきっかけか急に同性への愛情に目覚めたらしい。その彼もサッカー選手のようだが、いつも聞いている名前ではないので別のクラブなのだろう。
確かに、アイコンタクトの威力は絶大だ。普段でも、目を見て話すのとそうでないのとでは、潜在意識的な信頼度に雲泥の差がある。
「まあ、うちのチームにも似たようなのがいるから、今更驚かないけどさぁ」
ドキッとして、冷や汗が背中を伝った。マルコが神妙に頷くのを見て笑うニノは着替えを済ませ、アイシングバッグをケースへ戻しに行く。よく考えれば、このチームのゲイ代表と言えばキャプテンのことだ。もし自分たちのことなら、からかいの視線を鬼道に送ってくるはず。
赤くなった顔を撫でて妙な思考を振り落とし、軽く深呼吸する。やっとシャワーから出てきた居候に「外にいる」と伝えて、皆に挨拶したあと駐車場へ向かった。
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スペイン語へ切り替えるのに少し戸惑ったが、慣れてしまえば何ということはない。監督はイタリアでの活躍を見ていてくれたらしく、ひどく労ってくれた。
チームの皆も相変わらずで、不動の帰還を歓迎してくれた。次は日本代表として彼らと渡り合える日が来るかもしれないと思うと、血が騒ぐ。
「アキオ! 来るか?」
よくつるんでいた三人組に誘われて、馴染んだバルへ向かった。好奇心は新しい刺激を求め始めている。ドイツのスタイルも学んでみたいし、イギリスで伝統的な本場の空気も味わってみたい。
フィールドの半分、どちら側にいるのかで感じ方は大きく変わってしまう。
程よく酒が回ってバルを出てからも、不動は自分のこれからのことを考え続けていた。
「じゃ、気ィつけてな」
「ああ。そっちこそ、転んだりしねぇようにな」
笑い声が暗闇に響く。いつの間にか、彼らの隣には美女が寄り添っていた。どこから湧いて出たのかは知らないが、恋人ではない。
数年前だったら、自分も同じことをしていた。沸き起こる性欲を抑えきれなくて、可能ならば手当たり次第に部屋へ連れ込んだ。日本人もいた。
己の変化を知り、不動は小さく溜息を吐く。街灯を頼りに歩きながら、ポケットの中の携帯電話を握りしめる。
(絶対に、オレからはかけねえ)
鳴ったらいつでも出るつもりでいた。とびきり愛想よく。
だが、どちらにしても彼とは距離を置かなくてはいけない。チームメイトとしての絆以外は、アドリア海の底へ鎮めておくべきもの。
それを鬼道も分かっているはずだ。手のひらで温まった小さな電子機器が、彼からの着信を知らせることはなかった。
3894
両親の墓はない。義父が作ってくれると言ったが、空の墓を作っても場所を取るだけだと言って丁重に断った。
その代わり、数年に一度二人で時間を作り、墜落現場へ行くことにしている。車で二時間、静かで小さな町の向こうに海を眺める。
春奈と並んで手を合わせ、しばらく黙祷した。
海の幸が所狭しと並ぶテーブルにつき、猪口に酒を注ぐ。
「父さんと母さんに」
春奈が言い、猪口をかかげて共に飲み干す。兄妹水入らずは久しぶりだ。旅館へ来たのは、教師のみならず雷門中サッカー部の顧問としても奮闘する彼女への労いの意味もあった。
「久しぶりだね。兄さんとゆっくりするの」
「そうだな。前はいつだった?」
火を付けながら、鬼道は記憶を辿る。春奈が浴衣の袖を押さえながら、蓋を取った。
「イタリアへ行く前だから――」
「年前か」
「そう。私も忙しかったなあ、教師免許取るのに精一杯で」
春奈は自分の母校で教えを引き継ぐことを選んだ。それは帝国学園総帥となった鬼道も同じだ。
「あ、でもね、兄さんの試合は全部見てるんだよ。録画もしてあるけど、できるだけリアルタイムで見るようにしてたの」
鬼道は嬉しく微笑んだ。
「すごかったよね。不動さんと息ピッタリで、奇跡が起こったのかと思ったけど、それが一回じゃなくて何度もあって」
その名を聞いて、微笑がやや苦々しく歪むのを止められなかった。春奈は刺し身をつまみながら続ける。
「円堂さんがいつも言ってる、本当のサッカーってこういうことなんだなって思ったの」
「あれくらい、みんなやってるだろう」
何でもないような素振りをして、ハマチを大葉で巻く。
「ううん、でも……そうだけど、お兄ちゃんと不動さんはレベルが違うの。負けず嫌いの相乗効果なのかなあ。何て言うか」
「レベルが違う?」
「うん。息の合ったプレーがどのコンビより半端ないってこと」
魚はやはり朝取りが一番だ。ハマチと大葉のコンビネーションにわさび醤油が舌鼓を打ちたいのに、どうも気がそれる。
奴の話を聞きたくはない。気付かれないように話題を変えるにはどうしたらいいか思案を始めた。
春奈がうっとりした声で言った。
「私、実は不動さんのこと好きだったことがあるんだあ~」
危うく、酒を吹き出すところだった。
「何?」
「中学の時ね。不動さんって、反抗的なくせに寂しがりやで、強がって一人でばかりいたでしょ? お兄ちゃんと似てたからかな」
兄さんと呼んでいたのが崩れている。
「おれはあんな――ぼっちの皮肉屋じゃないぞ」
抗議するが、春奈が似ていると言った意味はよく分かった。楽しそうな笑い声が転がる。
「えー? そう? 頭のキレとか、皆のこと隅々までよく見てるところとか、負けず嫌い度はそっくりだよ。まあ、不動さんはなぜかそれを皮肉で隠してたけど」
動揺を抑えて酒を飲むが、酔いの回り始めた妹にはあまり意味がない。
「あ、あと第一印象も似てたな。お兄ちゃんのほうが当然、高貴な感じだったけど」
「あれはもう忘れてくれ……」
酷い黒歴史を急にほじくり返されて思わず額を押さえる。
傷をえぐってしまうことを恐れ、触らぬ神に祟りなしと周りの人間はあまり影山絡みの話はしないようにしているため、こんな話ができるのは妹である彼女くらいしかいない。離れていることが多い兄と妹だが、その分信頼し合っている。
「あんな奴のどこがいいんだ……」
腹立たしげに呟いて酒を注ぐと、春奈は嬉しそうに言った。その様子から察するに、好きだったというのは冗談ではなかったようだ。
「見てないようで、ちゃんと見てるところとか。しかも、見るべきところをね。私もあんな風に、皆のこと見れたらいいのにって。強くて素早いカットもカッコよかったなー」
苛々してきて、半ば自棄になって聞く。
「告白しなかったのか?」
春奈は呆れたと言わんばかりに、今まで笑っていた口をへの字に曲げた。
「だって、お兄ちゃんのことしか興味無いんだもの」
今度は噎せた。鼻の奥に入った酒が刺激する。春奈が心配してくれたが、それどころじゃない。
しかし彼女はほろ酔いの気もあって、同じような調子で話を続けた。
「お兄ちゃんは幸せになるべきよ。今まで色々ありすぎたもの」
やっと治まった喉を癒やすために、立ち上がりカバンからペットボトルを取り出して水を飲む。
「今十分に幸せだぞ?」
「こんなもんじゃだめよ! 自分で限界を決めたら何の意味もないって言ってたでしょ?」
「それとこれとは……」
兄が戻ってきたのをきっかけに正座していた足を崩して、春奈は一息ついた。
「ペンギンは飛べないけれど、飛べないことを悔やむことはない、だから思い残すことがないように生きたい。って」
やはり元新聞部と言うべきか、いつかの気取った名言を覚えていたらしい。
「ああ……そうだな」
巨匠と呼ばれる人物たちの言葉も、実はこうして適当な時に呟いたものが大半なのかもしれない。春奈は嬉しそうに笑って、茶碗蒸しの蓋を二つとも取った。