<5000ピースのジグソーパズル 2>
2922
昇ってきたばかりの太陽が、今日も大地を焦がす。
新しい発見も無い義務的なランニングから戻ると、携帯に着信が入っていた。 未登録の番号でメッセージが残っている。微かな期待は霧散した。期待なんてするもんじゃない。
フィディオ・アルデナの声はうんざりするほど爽やかで甘く、喋り方ですぐに分かる。最後まで聞き終わらないうちに十五分前のメッセージを削除し、履歴に残っていた番号へかけた。
『チャオ、不動! "おはよう!" 電話、うれしいよ』
FFI以降は直接関わることのなかった彼が、わざわざプライベートの番号を調べてまで直接連絡を取るということは、余程特別な用事なのだろう。でなければイタリア人お得意の気まぐれか。
「何の用だ?」
色々と憶測を立てながら、気抜けた楽なニュアンスで先を促す。
『ははは、相変わらずだなあ。元気? エスパニョーラでの活躍は僕が聞く前に皆が教えてくれるよ』
「そりゃどうも」
片手でコーヒーを淹れながら相槌を打っていると、やがてフィディオが諦めたかのようなため息をひとつ、少し間を作った。
『実は折り入って頼みがあるんだけど……ちょっとこっちまで来れない?』
フィディオの言う"こっち"とは、彼が所属するクラブ《プレスタンテ》のホームタウンであり、八万人を収容できるスタジアムのことだ。
「別にいいけど……いつ?」
『できるだけ早く』
もしや引き抜きだろうかと頭の中に過った期待を慌ててしまい込んで、「ふーん」と鼻の奥で返事をし、苦いコーヒーをすする。
イタリアの他のチームには、鬼道がいる。もしフィディオと共にでも国内リーグ戦でぶつかることができれば、夢が一つ叶う。
「あー……電話じゃ言えねぇってことか」
渋っている様子を出そうと目論む。フィディオはやけに嬉しそうに言った。
『まあね。こっちへ来てくれたら、皆で歓迎するよ。不動の好きなものを用意してあげる』
引っかかる言い方に疑問が沸いたが、このままここでうだつの上がらない時間を過ごしているよりはよっぽどマシだ。しばらく考えるフリをしてから、相手が待ち時間に苛々し始める前に口を開いた。
「わかった。とりあえず話を聞きに言ってやるよ」
『やった! じゃあ空港で待ってるから。到着時間をメールして。チャオ!』
強引で唐突な電話は一方的に終了した。
(そっちも相変わらずじゃねぇか)
不動はやれやれとばかりに、朝食の準備をしようとしていた脳を切り替え、出掛ける支度を始めた。
2923
車を停めて探すまでもなく広場の中心に人だかりができていたので、徐行で近づき窓から顔を出した。
「フィディオ!」
叫んでから少し経ちやっとのことで、群がる女性たちの間を縫って、イタリア一のプロサッカー選手とは思えない細身の男が現れこちらへ向かって来る。しかし顔は彼女たちのほうへ向いたままで、車に乗り込む前に三つキスを投げ、歓声が一際高まった。選手としても勿論だが、あんなに手を振り続け笑顔でいるのに微塵も疲労を見せないところも尊敬に値する。
「お待たせ!」
「ああ。構わないが……」
(ファンサービスも程々にしておけと言いたいところだが)
夢うつつの中で興奮冷めやらぬ老若男女に見送られ広場を後に、通りを進むと景色は街から村と畑へ変化していく。
「なに?」
「いや。――不動はOKしたのか?」
「ううん。聞くだけ聞くって言ってたよ」
わざと直球で聞いたのは、フィディオが気付いていて、隠蔽工作の意味が無いことを分かっているからだ。隣で前を見つめ運転する鬼道を見やり、彼は小さく息を吐く。
「でも、あの面倒くさがり屋が、話を聞くためだけにこんなとこまで来るとは思えないよねぇ」
「あいつは……まあ、面倒くさがりなところもあるな」
つい擁護してしまいそうになり、冷静な思考回路を取り戻す。次の街には入らず、手前で道を逸れて進んで行くと、近代的で大きな建物――国際空港が見えてきた。
「つくづく、君は物好きだね」
皮肉ではなく呟かれたそれには答えられず、サングラスの下で僅かに眉を下げる。八年前から男になんて自分でも馬鹿げているどころの話ではないと、自分でも思う。何度も迷い、考え直した。
監督の提案に彼の名を挙げたのは半ば無意識だった。答えがあるのならとっくに見つけているはずだ。
平日の夕方、空港はそれほど混んでおらず、場所が場所ということもあって、国内スターが二人並んでいても先程の広場のように動けなくなるほどの人は寄ってこなかった。
それに、降りてきた不動もすぐに見つけることができた。
「話題沸騰の人気スターが揃ってお出迎えとは嬉しいねぇ」
何人かが嗅ぎ付けて誰かが写真を撮る音がしたが、本人は軽く手を振ってさっさと歩き出した。
フィディオと並ぶ背を眺めつつ何を言えばいいのか考えたが、どうにもうまくまとまらない。言葉を掴んでは取り逃がし、まず冷静になるにはどうしたらよいか思い出そうとして、しかし目の前にいるという事実がどうしようもなく心を揺さぶる。
(何年ぶりだ? いや、あれから九ヶ月しか経っていない)
空港内を眺めフィディオについて歩くその姿は、黒い短パンにシンプルなロゴTシャツ一枚、スポーツブランドのカジュアルサンダルに、茶色く染めたストローハット。サッカー選手と言うよりはモデルと言ったほうが通りそうだ。
一度高級ブランドのドレッシーなスーツを着せてみたい。怪しまれる前に視線を外した。鬼道は思い出したように歩を速めてフィディオと並び、今日これからの予定について少し話した。空港の通路は出口まで遠すぎると思った。
鬼道がプレスタンテに所属していることには、然程驚いた様子でもなかった。
不動をスタジアムに案内した後は、マネージャーのイルザ、コーチのロドリーゴ、そしてフェルディナンド監督を交えた六人で、フィディオお勧めのラビオリが絶品だというトゥラットリアへ向かった。気取らずこじんまりした店は平日でもそれなりに混んでいたが、フィディオが店主に言って椅子を増やした。舗道に面したテラス席は仕事の話を詰めるのにも、世間話で親睦を深めるのにもうってつけに思える。
結果から言えば、不動明王は移籍を承諾した。彼のことだ、フィディオが電話をかけた時点で気付いていただろう。
ワインが一本空いたところで握手を交わし、監督たちと別れ、フィディオと不動は再び鬼道の車に乗り込む。
空港へ戻る道すがら、助手席のフィディオが後部座席を振り返って尋ねた。
「ねえフドウ、住むところはどうする?」
「どうするも何も……」
「車は?」
「持ってない、つか免許取ってない」
「じゃあスタジアムに近い方がいいね」
「なに、紹介してくれんの」
フィディオは捩っていた体を戻し、鬼道の横顔を見る。
「キドウの家は? あんなに広いんだ、フドウは痩せてるから余裕だろ?」
思わず体が強張った。水か何かを口に含んでいたら、漫画のように吹き出していたかもしれない。
「そんなに広くないぞ……」
「だってどうせ同じ練習だし、キドウは車持ってるし。赤の他人じゃないだろ? ピッタリじゃないか」
制止しようとしたが全く聞かないので睨み付けたが、お構い無しといった様子である。不動が拒否してくれればほろ苦いが、穏やかで安定しつつある日々に変化は訪れずに済む。
だが聞こえたのは久しぶりの日本語だった。
「鬼道クンさえ良ければ」
「おれはかまわないが?」
平然と、少し低めの声を意識してハンドルを切りながら、鬼道はフィディオを恨み、同時に感謝した。
「何だって?」
突然の日本語が理解しきれなかったキューピッドが期待を込めて訊ねる。
「おれさえ良ければ、と言っている」
一人分の歓声が上がり、彼は再び後部座席を振り返った。
「ブラーヴォ! 決まりだね! 皆で遊びに行こう」
ちょうど空港へも着いた。真っ暗な夜の大地に、煌々と明るく道を照らしている。
(本気なのか?)
車から降りた不動に目線を送ると、返事は肩を竦めただけだった。
「じゃ、ビザ取れたらこっち来るから。迎えよろしく」
「ああ、分かった。メールくれ」
「またね、フドウ! 早く一緒にプレーしたいよ」
ひらりと手をひと振りして、不動が見えなくなって空港は静まる。車まで引き返す途中、フィディオが背を伸ばしながらのびのびと言った。
「彼が面倒くさがり屋で得をしたね」
「得をするのは奴の方だ。プレーするまで分からないぞ」
「W司令塔が揃えば世界制覇も同然だよ」
フィディオは勝利の喜びに微笑む。彼にとっては他人の色恋沙汰よりも母国の栄光が重要らしい。
(あいつは効率主義なだけだ)
それがただの事実の分析か、または自分に言い聞かせていたのかまでは、判断することができなかった。
2
強い眼だ。それが第一印象だった。
不愉快でしかない卑怯で下劣な態度に神経を逆なでされて、こいつにだけは隙を見せてはならない、絶対に負けてなるものかと拳を握りしめた。
円堂や皆を挑発し、相手の精神を怒りと不快感でズタズタにしようとするその眼はしかし、下等なチンピラにしては強く光っていたのだ。
惹かれなかったと言えば嘘になるだろう。興味を持ったことは確かだ。だが、こんなゴミの中で埋もれたガラクタに価値があることをすぐに認めることができるような、寛大で先見性のある心は持ち合わせておらず、更にはプライドが邪魔をした。大体、影山のことで頭がいっぱいで、チンピラに構っている暇は無かったのだ。
今思えば、実に愚かだった。不動は、そんな愚かなおれの事をどう思っていたのだろう。
1200
十七歳にもなると、さすがにゴーグルはアジャスターの限界を感じた。
春奈に相談すると、しばらくして新しい、サングラスを買ってきてくれた。
「どう? 頑張って探したのよ。十八歳の誕生日に、って思ってたんだけどね」
「ああ、気に入った。ありがとう」
デザインも悪くない。グラウンドでは芝が消え、選手たちが浮き上がって見えることだろう。
「そうだな、来年から替えようか」
微笑みかけると、妹は嬉しそうに目を細めた。
「いよいよFFU-18だね。決勝はやっぱり、お兄ちゃん対キャプテンかなぁ」
駅に着き、相変わらず雷門高校へ通う彼女に簡単な別れを口にしようとした時、思いがけない質問をされた。
「そうだ。最近、不動さんとはどう?」
こういう時、平常心ならば妙な間をあけず適当に頷いて答えるだろうが、何と答えれば怪しまれずに済むか考えて口を閉じてしまった時点で、もう平常心の対応はできなくなっていた。
「ああ……、まあまあといったところだな」
難しい顔をして答えたにも関わらず、春奈はさらに顔を輝かせる。
「私で良ければ話聞くからね! いつでもメールしてね!」
「あ、ああ」
やけに嬉しそうな妹が弾んだ足取りでバス停へ向かうのを眺め、鬼道は改札を通る。明日学校で会うであろう顔が頭をよぎった。
2980
快晴の暑い日でも、湿度が少ないため日本よりは過ごしやすい。永住権を取ってしまいたいと思うくらいには、この国を気に入っていた。沢山の思い入れもある。
良いことも悪いことも、思い出になってしまえばみんな同じセピア色だ。
不動は大きなスーツケースを一つ引っ張りながらボストンバッグを肩に掛けて現れ、鬼道に向かって片手を挙げた。こちらも片手で応えた。数人の報道記者に向かってぶっきらぼうに手を振り、駐車場へ向かう。
「"鬼道選手直々にお出迎え"なんて、でっかく載るんじゃねーの?」
「さぁ、どうかな。そんなことくらいで」
助手席に不動が乗っているというだけで高揚する。鬼道は早くも、後悔し始めていた。
空港から車で20分、都心部の端にある小さなフラットは賃貸契約で、二~三人の家族向けに造られており、確かに一人では広すぎる。
「いいトコじゃん?」
「フィディオが勧めてくれたんだ。――ああ、適当に寛いでくれ」
靴ひもを解く不動を玄関に残して、室内履きに替える。
「今から、お前の家でもあるのだから」
背を向けて顔だけ少し振り返り、すぐに居間へ向かったのはやや気障だっただろうか。
後ろから「フッ」と笑う声が聞こえ、窓を開けながら否定と肯定どちらの意味だろうと考える。
どうも顔が火照るのは暑さのせいにしたい。冷蔵庫で冷やしておいた水をコップに注いで飲んでいると、不動が廊下から歩いてきて邪魔にならない場所に荷物を置いた。
「あ、オレにも」
棚からもう一つコップを出し、水を注いで差し出すと、不動はコップと鬼道の顔を見比べてから受け取り、手を伸ばしてコップ同士を軽くぶつけた。
「これからヨロシク」
「ああ、こちらこそだ」
家賃、家事分担など話し合わなければと思っていたが、「半々でいんじゃね?」との一言で片付いてしまった。
「それにしても、天才ゲームメーカー様がいるってのに、レンタルでわざわざ呼ぶなんて、イタリア最強チームは随分慎重だな」
「それは、」
「分かってんよ。ヒデが抜けたからだろ?」
「お前に期待しているわけではないと思うぞ」
「ご忠告どーも。どうせ、セリアが終わればお払い箱さ。短い間だろうけど仲良くやろうぜ、鬼道クン」
夕食は歩いて十五分程の所にあるトゥラットリアへ行った。ペンネが美味だった。
不動が来るまでの間、余っている部屋を掃除し、新しくベッドリネンやバスタオルなどを増やした。
「随分な歓迎っぷり」と嬉しそうな不動は、最初の一週間は食事を任せてくれと言い出した。
「何でも、鬼道クンの好きなもん作ってやるよ」ベッドなど大きな家具類は来た時からあったし、最初からいつでも誰かを泊められるようにしていると見せかけたつもりだったのだが、彼には新品のバスタオルで気付かれてしまったかもしれない。夢が一つ叶った今は、それでも一向に構わなかった。
2981
まさか同じチームでイタリア一を目指すことになるとは思わなかった。しかも、泊まるところは鬼道の自宅という、とんでもないオプション付きだ。早くも後悔が頭をちらつき始めていた。
大体、向こうが自分のことをどう思っているのか全く分からない。第一印象が酷かったせいで中学の頃は嫌われていたような気もするが、FFIが終わってからも何かしら交流はあった。
同じ高校だったのでイヤでも半日一緒に過ごすことになる。部活のせいでほぼ毎日顔を合わせていた。おかげでお互いを知ることができ、ギスギスした空気は無くなったように感じた。
だがやはり妙な距離感は残ったままで、鬼道の真似にはならないよう綿密に計画を立て、高校卒業後すぐにスペインへ向かった。それがどう影響したかはまだ分からない。
風呂に入る時はさすがに意味もなく緊張したが、ここはホテルだと思えば平気だった。やはり、きちんと湯船に浸かる習慣は身体が落ち着く。
寝る前に軽く打ち合わせをしておいたので、朝起きてリビングへ行くと鬼道もやってきた。
「すげー、全部プロシリーズだし。使ってんの?」
キッチンに立って、一流の道具が揃っているのをしげしげと眺める。ピカピカの鍋を覗いてから見ると、鬼道はムッとした一瞥を寄越す。
「使っているさ。大きい鍋を使う機会が無いだけだ」
「へぇ? じゃあオレ様が思う存分使ってやるよ。リクエストは?」
「ラーメンが食いたいな」
「いきなり超難題かよ。材料がねぇだろ」
「買いに行こう」
ランニング、シャワー、簡単な朝食を終え、買い物ついでに近所を案内してくれるという鬼道について出掛ける。
明日から練習に参加するように言われているので、オフの今日は思いっきり羽根を伸ばしておきたいが、相手が鬼道だと何も考えずにというわけにはいかない。
彼は何を考えているのか、自分のことをどう思っているのか、昨日までの思い出をどう感じているのか、行動や表情、言葉の端々に手がかりを探して神経を張り巡らせる。
とは言え、例え彼が特別な感情をこれっぽっちも抱いていないとしても、今回の出来事は夢のようだった。