<5000ピースのジグソーパズル 5>







3014



幼い頃の夢を見た。春奈が小さなプラスチックのティーカップに、プラスチックのティーポットを傾ける。
周りにあるものはカラフルで、全てが本物を模したミニサイズだ。
空気を飲んで簡潔な感想を述べると、妹は嬉しそうに微笑んだ。

はるなね、おっきくなったらいっぱいおしごとして、うんめいのひととけっこんするの!
だれと?
おにいちゃんも、けっこんしきにきてね?
なあ、だれとけっこんするの? うんめいのひとって、だれだ?
しつこく尋ねると、春奈は思い出しているらしく、一瞬考えこむ。
えーとね、うんめいのひとは、うまれるまえからいっしょのタマシイがあるんだって
ぼくがはるなとする
お兄ちゃん、"ぜんせのきおく"ある?
……ない
じゃあだめ。おにいちゃんにも、うんめいのひとがくるよ

まだ春奈は何か言っていたが、目が覚めてしまった。本当にあった記憶のはずだが、少し曖昧になってしまっている。
運命論なんて信じてもいないが、もしそんな相手がいるなら、一体誰なのだろうか。

「キドウ、携帯鳴ってないか?」

思考を中断され、現実へ戻るのに僅かに時間がかかった。

「あ、ああ。ありがとう、ファビオ」

通常ならそのまま出るのだが、着信は義父からだった。ベンチで談笑する皆から離れながら、通話ボタンを押す。

「はい」
『有人か。どうだ、調子は』

何事かと思ったが、相変わらず爛漫で狡猾な声に、安堵すると同時に叩き切りたくなる。

「良いです。どうしたんですか? 眠れないんですか」

少し態度に出てしまったのを悔やむ前に、笑い声が聞こえた。

『これでは親と子が逆だな』

つられて、少し笑った。寂しさは同じなのだ。

『今日、見合い写真が届いてな。なんと、あの高杉のお嬢さんだ。別嬪に育ったようだ。今度パーティーに呼んであるから、楽しみにして――』
「父さん、すみませんが今は練習に戻らないといけません。また電話します」

調子に乗っていた義父の声が止まり、少しトーンが下がった。

『そうか』
「すみません。それでは」

返事を待たずに切って、振り向くとフィディオがいた。

「ごめん。聞いてないよ。今来たとこ」

微笑みながら自分とベンチの間を指でなぞってみせる。そんなことはどうでもよかったのだが、彼の持つ快晴の青空のような雰囲気に癒やされた。

「君にしては乱暴だったね」

二人して並び、ガードに背を預ける。

「イタリアも伝統を重んじる国だ。職人が多いせいだけどね。くつ職人の息子はくつ職人。パスタ職人の息子はパスタ職人。だけど、僕はそんなの関係ないと思ってる。伝統は、守るべきだけど」

鬼道が言葉を咀嚼するのを待つかのように、間を置いてから、フィディオは先を続けた。

「僕は父がサッカー選手だったから、サッカーをやっているわけじゃない。君だってそうだろ? 難しく考えることなんて無いのさ」

皆がぞろぞろとグラウンドへ出ていく。じゃれ合ったりわざと野次を飛ばしたり、気合いを入れ合ったりして、それぞれのポジションへ散らばる。

「行こう! キドウ。美味しい夕飯まで、あと少しだ」

走りだしたフィディオにつづいて、鬼道も駆けて行く。

(あいつ、何か用があったんじゃないのか?)

半ば呆れつつ、彼なりの気遣いに感謝する。今は、ボールに集中することにした。






3033



義父に電話をかけたが、いつもと同じく疲れただけだった。
こうして国外という手の届かない場所で好き勝手やっているのは、ある意味反抗的な理由からである。
自分が引き取られたのは影山の策略の一環であったと言えよう。しかし義父は実の子のように厳しく躾け、愛情をもって育ててくれた。
それは分かる。鬼道有人として生きることを選んだ時点で、重い鎖帷子を着こみ仮面のような兜を着けるのだということは分かっていたのだが、それでもまだ、本当の自分を捨てきれずにいる。
義父が期待しているのは、鬼道家長男としてのあるべき理想の姿だ。それを避けられない運命にあるとしても、最後まで諦めることだけはしたくなかった。この信念を教えてくれたのは、初恋の人である。
こういった真剣な思考をぐるぐると回していたものだから、自分を呼ぶ不動の声がバスルームから聞こえていることに気付くまでに、少々時間がかかってしまった。

「何だ?」
「リンス無いんだけど」
「ああ……すまない、昨日使い切ったままだった」

シャワーは止まっていて、半開きのドアから不動の腰までが覗いている。

「どこ?」

バスルームに入ることを躊躇すると、不動が中へ戻って戸棚に向かってくれたため、その必要はないことが分かった。よく見れば、腰にはバスタオルを巻いている。

「上の……一番左だ」

タイルの床は水浸しなので、鬼道が入ってくるとは不動も思っていないだろう。

(何をやっているんだ、おれは)

ビンやボトルがゴソゴソと音をたてた。

「あった。サンキュ」

こちらを振り向きもせず、不動はバスタブへ戻っていく。タオルがひらりと舞ったのを最後に、ドアを閉めた。
別段、特別なことでも何もない。Tシャツに袖を通しながらリビングにやってくることもままあるし、練習場のロッカールームなんて全員ほぼ裸のようなものだ。
男の体なんて見慣れているはずなのに、ドキッとしたのは状況のせいだろうか。

(状況なんか関係ない。あいつに欲情しているんだ)

鬼道はリビングの椅子に座り、額に手を当てた。見知らぬ土地で交差点に立っている気分だった。






1206



不動は下宿に借りている部屋で、畳に寝転がっていた。唇に柔らかい記憶がずっと残っていて、忘れようにも忘れることができない。仕掛けたのは向こうだが、応えたのは自分だ。
つくづく、阿呆だなと思う。

(お坊ちゃんのお戯れに付き合ってる暇はねーんだよ)

眠気よ来いと祈るかのように、不動は携帯電話を薄目で眺める。メールするべきか、電話するべきか悩み、我に返ってどっちもやめた。
代わりに検索エンジンを呼び出す。三十分後には、大体の知識は頭に入っていた。

(ああ……くそっ、なんでオレが)

あの時、無理やり続けていなくて良かったと改めて思ったが、もう次はないかもしれないと思うと、鳩尾の辺りが握り潰されるかのようだ。
嫌悪なんてどこかに置き去りになっていた。相手のことを考える余裕など無くなっている自分が恥ずかしくて、短い叫びに恐怖を見透かされたようで驚いたのだ。
伝えない言い訳を並べても、いつも節約しているパケット代をかけてまで調べたとしても、何にもならない。

(クソッ……)

携帯電話を机の上に投げる。
どうしても鬼道の顔を頭から追い出すことができなくて、後味の悪い自慰になった。






3002



洗濯物を畳んでいた不動が、通常のトーンで「あ」と口にした。

「どうした?」

何かあれば聞かなくても言ってくるだろうし、相手に関係のないことなら聞いても答えないのだから、尋ねる必要はないのだが、すぐそばのリビングテーブルで紅茶を片手にサッカー雑誌を読みふけっていたこともあってつい聞いてしまった。
何とかして不動とコミュニケーションを取ろうという意識を悟られないようにしたい鬼道の心など露知らず、不動は手に持ったジーンズをしげしげと眺めている。

「あのさぁ……Dのジーパン、お前も持ってる?」
「ん? ああ、持ってるが、どうかしたか?」
「イヤ、ここに二本あるから。同じのが」

重要でないらしいと判断し話半分で聞いていた鬼道は、雑誌から顔を上げて改めて不動を見た。
床に座ったまま、両手に一本ずつジーンズを掲げて見せる。

「これ同じだろ?」

深刻そうな顔に、思わず小さくだが吹き出してしまった。

「そうか。そういうことか……」

笑ったことで安心したのか、つられて表情を緩ませた不動は、テーブルに二本のジーンズを持ってきて並べる。裾の同じ部分をつまみ比較して、諦めたように放り投げた。

「どっちがどっちのか、全ッ然わかんねーんだけど」
「本当だな。元から加工してあるせいで、色落ち具合も同じに見える」
「あー、何でよりによって……どうする?」
「どうするも何も」

一本二万円のジーンズは、身嗜みに気を遣う自分が穿くならと真剣に選んだつもりだったのだが、まさか定番の型とは言え様々なデザインがある中で、同じものを選ぶとは。程よいダメージ加工がロックな雰囲気で、彼の好みはともかく、普通じゃない物が欲しかったのだ。

「じゃんけんで決めるか?」
「くだらない。同じなんだからいいだろう、これがオレのでそれがお前のだ」

強引に片方を取ると、不動は肩を竦めて残った方を取った。

「なんか印つけとかなきゃ、また分かんなくなるなぁ」

呟いたそれに対して、後で赤い糸で×印でも付けておくかと考える。

「それにしても、今どきお前、ジーパンなんて言わないだろう」
「なんだよ、おかしいか? つうか、鬼道クンがこんなの持ってる方がオドロキなんだけど」

呟きながら去っていく不動に、田舎者だとバレるぞとまで言いかけて、忍び笑いに消しておいた。サイズまでも同じだったことに妙な親近感を覚えながら、自分の服の山を抱えて部屋へ向かう。結局これがどちらのジーンズなのかは、永遠に不明のままだ。






815



不動がFFI終了後すぐに帝国学園へ転校したのは、サッカーというものにすっかり魅せられてしまったからだ。フィールドを舞うボールを操り、駒を使って勝利と栄光を手に入れる。母の言葉はまだ彼の心をきつく縛っていたが、やり方は明らかに変わった。見渡す世界にはカラフルに彩られ、空っぽだった胸には大きな夢を抱いていた。
円堂守の影響力はまさに超人的だ。コトアール代表との決勝戦ではベンチから見ているだけでも相当の気迫を感じたが、後半で芝を踏んだ瞬間、雷が体を駆け抜けるのを感じた。革命が起ころうとしている。
そして実際、それは起こった。世界一のトロフィーを手にして、その重みの中に自分の努力や思いも入っているのだと思うと、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
影山に目論見を見破られ捨てられた時に、屈辱と怒り、憎悪を感じた自分が、情けなくちっぽけに見え、不動は恥じた。再び顔を合わせた源田は、初めこそ良い表情をしなかったが、元からの性格と佐久間が仲介をしてくれたこともあり、今ではただのクラスメイトと呼ぶには足りない仲である。
入学式が過ぎてすぐの頃、昼休みに高校生という響きにも慣れてきた皆が不動の机の隣に集まっていた時のことだ。
佐久間が「コイツわざわざ下宿借りて、奨学金取って入って来たんだぜ。大した奴だよまったく」と、どこで知ったのか余計なことを喋っていたので無視したが、一語一句その通りなので誤魔化そうにもできない。

「雷門のほうが入りやすかったんじゃないか? わざわざ色んな意味でハードルの高い方選ぶなんて、さすが不動だな」
「わざわざわざわざってうるせぇよ。アッチは性に合わねーんだ」

皮肉をうまく使えるようになってきて、まだ何か言いたげにしている佐久間の後ろから、楽しそうに聞こえる鬼道の声がした。

「雷門は雷門で、不動も馴染めたと思うがな」

全員が振り向くと、弁当箱を鞄にしまっているゴーグルと赤マントのお馴染みの姿が見えた。
不動が帝国を選んだ理由の一つに、彼の存在があった。FFIが終わっても鬼道は雷門イレブンに残り、雷門中の生徒として卒業式を終えた。てっきりそのまま仲良し三人組で同じ高校へ行くものだと思っていた不動は、入学式で赤いマントを見つけて驚いた。雷門イレブンと戦い、彼を完膚なきまでに叩きのめすことを夢見て帝国へ入ったのだ。
FFI終了後も数回練習試合を行ったが、全員の癖や性質を細かいところまで知っているとは言え結束もスキルも世界一をもぎ取ってきたメンバーが大半の雷門イレブンと、レベルアップしてはいるが選抜にも呼ばれなかった帝国イレブンでは差がありすぎる。
唯一の戦力である佐久間と二人では、連携も糞もない。毎回惨敗する帝国の惨状を哀れに思ったのかどうか知らないが、高等部になって戻ってきた鬼道とはとてもじゃないが馴れ合う気はしなかった。
去年のクリスマスパーティーも散々だった。それなのに、ここのところというか入学式以来見かける彼は、嫌味でなくいつも楽しげにしている。不思議でならない。






917



わざと距離を置いていたのに、向こうから突然「駅前を通るだろう?」と、了解もしていないのにいつの間にか一緒に帰るはめになった。高校最初の夏休みまであと一週間、蝉はまだ鳴いていない。黙っているのもどうかと思い、必死で話題を探した。

「鬼道クンってさぁ、何で電車通学してんの?」

強制的に自転車を手で押しながら、夕暮れの住宅街を抜けて行く。

「なぜって、普通だろう。家から自転車では三十分以上かかるが、電車なら十五分だ」
「そーじゃなくて」

住宅街の隙間に設けられている階段を、走り出したげな自転車を押さえながら一つ一つ確かめるように降りた。遠くに車が行き交う音が聞こえている。

「鬼道家の普通っていうのは、黒いベンツとかビーエムとかでご送迎なんじゃねーの? よく知らねぇけど」
「そういうことか」

鬼道は声をたてて笑った。それによって震動した空気が肺に送り込まれる。

「おれが、やめて下さいと言ったんだ。できるだけ、皆と同じように過ごしたいからな」

どこへ行っても何をしていても家名の重圧からは逃れられないと分かっていて、そんなことを言う。

「へぇ。財閥御曹司クンも大変だねェ」
「どうも、昔の癖が抜けないというか……やはり幼い頃に染み着いてしまった価値観は、直すことはできても根本には残ってしまうな」
「昔の価値観?」

会話が噛み合わないのは、理解材料が足りないからだ。
歩道は二人分の幅しかなく、鬼道は自転車を押す不動の前を歩く。ドレッドが目の前で揺れている。

「ああ……何と言うか。あるだろう、家の持つ空気というか、雰囲気というか」

その言葉を理解するのは、今までのどんな疑問より難しかった。何かを訊く事を恥だと感じていた不動だが、この時ばかりは質問しようと口を開いた。しかしそれより先にヒントが得られた。

「すまない。何でもない」

鬼道は大失態をしてしまった時のようにこめかみを押さえ、小さく首を振った。どうやら話すはずのない話だったらしい。

「え? ああ……」
「じゃあ、また明日」

いつの間に駅まで来ていたのだろう、鬼道は改札への階段を逃げるように上がっていく。
自転車に跨がって、違和感の正体を突き止めるにはどうしたらいいか考えた。






595



十五歳のクリスマスのことだ。少し前に、円堂や豪炎寺と同じ雷門高校に行きたいと駄々を捏ねたことで義父との間がギクシャクしていたので、まさかプレゼントがあるとは期待していなかった。
サインをして放置していた形式だけの帝国学園高等部サッカー部の入部届の上には、前々から欲しいと思っていた物がデパートのロゴと雪の結晶柄の包装紙に包まれリボンをかけて置いてあった。
幼い頃からパズルが好きで、多すぎる小遣いを無駄遣いする唯一の理由はジグソーパズルだった。しかし持っている中で一番大きなものは2000ピースのもの、それ以上はさすがに値段もそれなりで勇気が出ずに、いつもデパートの玩具売り場でうっとり眺めては帰っていた。それに、もし作るならきちんと額に入れて壁を飾りたい。
そんな鬼道のささやかな趣味を眺め、「パズルが好きなんだな」などとそういう話になったこともあっただろう、大きいのに憧れているとぽつりと呟いたのを覚えてくれていたのだろうと思うと、思わず目頭が熱くなった。
ベッドの布団を整え、平らにした上で箱を開ける。表に描かれている絵をしみじみと眺め、大きさを見て驚いた。自分の身長くらい幅がある。
さらにピースの数を見て、胸が躍った。ベッドの上の何もない壁に、完成した額入りのパズルが掛かっているところを想像する。急いでパジャマを着替え、階下に降りた。

「父さん! おはようございますっ」

義父は珈琲を片手に、もう片手に新聞を持ち、ガウン姿でダイニングテーブルに掛けていた。

「おはよう。メリークリスマス、有人」
「あっ、はい。メリークリスマス、父さん」
「ゴーグルはどうした?」
「あっ」

興奮していて、思わず部屋に置いてきてしまった。義父は微笑んだまま、珈琲をすする。

「たまには、今日くらい外していたらどうだ」
「そういうわけにはいきません。みんなが来るので。着けてきます」

妙に優しい義父に対して動揺しながら、鬼道はゴーグルを取りに慌ただしく部屋へ戻った。
思えば義父は、滅多に見られなくなってしまった義理の息子の素顔を、自分への思いがけないプレゼントと思っていたのだろう。鬼道にはそんなつもりは全くなく、帝国学園高等部で鬼道家の一人息子として成長する期待だと受け取ったのだった。






611



鬼道は試験を免除されているが、入学時に簡単なテストがある。遅れている分を取り戻すために勉強をしておかなければならない。
その前に完成させてしまおうと、年末から正月中、予定の無い日にまったりした時間を使って、小さなピースをひたすら繋ぎ合わせた。額の中で一つずつ合う場所を探していく、色と形で場所を推理するのが楽しくて、つい夜更かししてしまったこともあった。

「……あれ」

とうとう完成と思ったが、最後のピースが一つ無い。飛んでいってしまったのかと思いベッドの下など部屋中を三回も探したが、どうやら本当に無いようだ。鬼道は立ち尽くして茫然とした。
厳重に注意してくれと頼んでおいたので、信用のおけるメイドたちが掃除の際に紛失したとは考えにくいが、彼女たちも人間である。
それとは別に、心当たりがあった。クリスマスパーティーの時だ。結局自分が原因だと認めたところで、ピースは出てこない。
せっかくここまで努力したので、とりあえず透明のアクリル板をはめて壁にかける。そのうち出てくるだろう、もし半年経っても出てこなかったらメーカーに送ってもらおうなどと考えた。
壁にかけた大きなパズルはまるで本物の絵画のようで、それを作ったという満足感は1ピース足りなくても十分得られた。それっきり忙しくなり、足りないピースのことは忘れてしまった。






1571



頻度は低いが、寝る前に書斎へ来たときは何か大事な話があるというのがお決まりのパターンになりつつあったので、鬼道がノックして入った時には既に義父は静かに椅子を回転させ、読書を中断していた。
その姿に嬉しくなって口元をゆるめ、隣に行く。義父は鬼道が口を開くまで、待っていてくれた。

「卒業したら、イタリアのオファーを受けます」

少し沈黙があり、「そうか」とだけ返事があった。立ったままの鬼道はサングラスを外し、手の中のそれを眺める。

「サッカーを続けることは影山総帥の願いでもありますし、おれ自身、このまま極めてみたいと思っています。今まで頂いたお金がいくらかあるので、父さんに迷惑はかけません。約束もちゃんと果たします」

早口というわけではなかったが立て続けに喋っていて不安を感じたため、言葉を切る。義父からの異論は無いようだった。

「もし、入団テストで不採用となった場合は、もうプロになる道は諦めます」

しばらく経って、義父がゆっくりと息を吐いた。

「寂しくなるな」

心の底からふわりと広がった安堵に包まれ、同時に胸が締め付けられた。

「おれもです、父さん」

優しく微笑んでくれとは言わないが、時折見せてくれる愛情をしっかりと拾ってきた。義父は息子の肩をぽんと叩き、椅子を元へ戻した。






918



昼休みの教室は意味なく騒がしい。
食事をするための時間のはずなのに、静かな時は一秒たりともない。いつもはうんざりしていただけだったが、今日初めて発情期の犬たちに感謝した。
本人が居ないのを確認して、不動は小声で言った。

「鬼道って養子だって聞いたんだけど」

普段あまりつるまない澄ました顔の男子生徒――きちんとした身なりでありながら冷徹な印象を与え、知能は低くないがそれ故に他人を寄せ付けない感じの、いかにもどこかの令息という彼は長方形の縁なし眼鏡をかけ、撫で付けた髪を気にしながら教室の一番後ろで弁当を食べていた。
目の前に座って、金があるくせに学食へ行かないのは病気持ちか、親が過保護かどっちだろうと、どうでもいいことを考えながら待つ。溜め息を吐きつつハンカチで口を拭いて、彼はやっと口を開いた。

「不動君。他人の食事中に話しかけるのはどうかと思いますが」

これだからコイツに話しかけるのは嫌だった。しかしこんなことを尋ねるのに、他に適した人材はいない。辛抱強く待っていると、また口を開いてくれた。

「そして、情報を聞く時は、謝礼を用意するのが常識ですが」
「何なんだよさっきから? もういい。大したことじゃねーから、他の奴に聞くわ」

立ち上がりかけた不動に、絶妙なタイミングで待ったがかけられる。

「他の奴、に聞けないから僕の所へ来たんでしょう」

立ち上がった体をゆっくり元に戻し、不動はやっぱり放っておけばよかったと鼻から息を吐き出す。

(どうでもいいことだから、もういいんだよ)
「そして、君にとって大したことであるから、わざわざ昼食時という絶好のタイミングをカモフラージュに使い、他の生徒と接触が薄く秘密性の高い人物――僕を選んだ。つまりこれは、君にとって極秘の重要事項ということですよね。このまま絶好のチャンスを逃し立ち去ってよいんですか? 永遠に」

不動は思わず口を半開きにしたまま固まっていた。

「分かったよ、しつけーな。早く教えろ」

クールなメガネ――水嶋恭一は、淡々と続ける。

「奨学金を必死で取ってまで入ってきたような君に物品を購入してもらうのは非常に心苦しいですし、君は一年生で、何か特別な権限が与えられているわけでもない」

頭に来て荒い声を出しそうになったところで、水嶋は続けた。

「しかし僕は、同姓愛者ではありませんが、博愛主義により彼らのことも応援しています。君は鬼道くんのことが好きで、もっと知りたいと思っている。自分との共通点を見つけたことで――」
「黙れ!」

周りの目を気にする余裕はあった。不動は顔を近付け低い声で言う。

「誰がホモだ! 得意気にのさばってるあいつを頂点から引きずり下ろしたいだけなんだよ、オレは! 好きでもなんでもねえ!」

凄んで睨みつけても、相手はビクリともしない。それどころか、ニヤリと薄く笑みを浮かべてみせた。クールメガネが笑うことはないと思っていた不動の方が驚く破目になった。

「まあ、いいでしょう。そういうことにしておいてあげます。君のことは興味ありませんが、僕は鬼道君のことを尊敬しています。彼に相応しい男性を応援することは僕の名誉であり役割だと思っています――君が相応しいかどうかは、まだデータ不足ですが」

怒りよりも面倒臭くなってきて、不動は頭を抱えうんざりして言った。

「で? もういいから早くしろよ。教えてくれんのか、くれないのか。早く自分の席に戻りてぇんだけど」

机に頬杖をついて、さりげなく周囲の目を気にしていると、再び大袈裟すぎる溜め息が聞こえた。昼休みを台無しにした自覚はあるが、こっちだって妙な長話を聞かされたんだからチャラというものだ。

「僕らにとっては驚く話でもないですし、鬼道家の事情は当然把握しているものなのですが。君は例外ですから、仕方ないですね」

嫌味は無視して、我慢する。代価は多すぎるほど得られた。

「鬼道有人君は、確かに養子です」

ちょうど昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ったが、不動が立ち上がったのは動揺を隠すためだった。これ以上ここに座っていることに恐怖すら感じた。

「監督の持っている公開選手データを見れば、彼の略歴が分かりますよ。精々の健闘を祈ります、不動君」

教室に喧騒が増える前に自分の席へ戻った不動は、眠気もどこへやら急速に回転し出した脳みそに手を焼いていた。
新しい重要な情報に憶測ばかりが飛び交い、今までの思考回路を根底からくつがえされ、再構築する必要が生じた。いくつかの絶望は希望に変わり、増幅した親近感によって執着は強まり、芽は伸びて葉を増やした。






1285



深夜のコンビニは不思議な空間だ。暗闇の中にぽっかり空いた小さなウサギの穴、若者たちの救いの場、悪の波動が交差する。常連はまだ意識の働く酔っぱらいや柄の悪い連中だけかと思いきや、案外日常的に平凡に時は流れていくもので、今のところトラブルが起きる気配はない。
ボサボサ頭にスエットに健康サンダルの二十代を過ぎた独り身の警備員を毎日見かける。学校が終わり家へ戻って着替え、陽が昇る前までが不動の献上時間だ。深夜労働を選んだのは勿論その方が報酬が多いからと、出席を最低数取らないと卒業できないからである。ステータスは重要ではなかったが、持てる武器はすべて利用するのが賢いやり方だ。だが、一番重要なことは能力であるということも忘れてはいなかった。
そんな退屈な深夜の戦友である浪人生の永田英昭に頼まれ、仕事始め早々に外のゴミ箱を入れ換えに行った時のことだった。

「なかなか、様になっているじゃないか?」

時刻は夜の九時過ぎ、暗闇から現れたゴーグルとマントに、飛び上がる程驚いた。

「おどかすなよ。こんなトコに何の用?」

家から離れたビジネス街、クラスメイトたちが滅多に来ない、エンターテイメント性の恐ろしく低い地域を選んだにも関わらずバレたのは、彼の観察眼が世界レベルだからだろう。

「父さんの取引先がこの近くにあってな。こんなところに不動が居るとは思わなかった」

もしかしてコイツ、尾けてきたんじゃあるまいか、そう思わせるくらいには鬼道にも動揺が見られた。

「勤務中なんで」

わざとらしく言って、ゴミ袋を担いで逃げてくる。もうダメだと思ったが、バイトそのものを辞める気は無かった。また別の場所を探せばいいだけだ。
永田先輩に念のため聞いておいたが、ゴーグルにマントの帝国生徒は中には入らずに帰ったらしかった。






1289



彼は黙っていた。校則違反は退学か、よくて停学処分だが、職員室や校長室に呼び出されることは無かった。代わりに、ややこしいことになった。

「お前、ちゃんと食ってるのか?」

昼休みにただ座っているだけの不動を見て、鬼道は眉をひそめた。見慣れたその表情は、たまにふと思い返して愛おしくなる。

「なんで?」
「体力が落ちてる。顔色もあまり良くない」
「そお? そのゴーグル外してから言えよ」

机に上半身を投げ出して寝ようとしている不動の耳に、腹立たしいと言わんばかりの強い溜め息が届いた。

「そのうち体を壊すぞ」

努力を知っているその声はやけに優しく響いた。

「お節介が好きだねェ……」

目を閉じて、腕に乗せたままの顎を気怠げに動かす。鬼道が隣で腕組みして立っているのを想像する。

「おれたちは、五年後、十年後を見て現在を考えなければいけないんだ」

それ以上は傲りになると気付いたのだろう、口を閉ざし、それ以上は何も言わなかった。
いつもならここで弁当を広げるのに教室を出ていったので、余程燗に障ったのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
家に帰ってその弁当が鞄に入っているのを見つけ、不動は呆然とした。寝ている隙に入れたのだろう、彼と一緒によく見かける紺地にデフォルメされたペンギンの白抜き柄が和風にプリントされている大判ハンカチに、丁寧に包まれた二つのわっぱには、バランスよく作られた煮物や焼き魚、漬け物と、真っ白なご飯が詰まっていた。
教室を出て行った鬼道は学食へ行ったのだろう。もしそうなら、食堂はかつてない盛り上がりを見せたに違いない。そんな騒ぎにも気付かず寝こけていた自分に呆れ、鬼道の言葉を反芻する。
ともかく不動はコンビニの残り物生活から脱し、貧しい中でも自慢の脳を使って計画的に自炊するようになった。
頭痛など細やかな不定愁訴は次第に消えていき、体が軽くエネルギーに満ちて、思考がクリアになったのを実感する。食べ物を疎かにすると時間の無駄になるということが身に沁みて分かった。
一歩先を行っていた鬼道のことは頭に来るが、彼によって助けられたことは紛れもない事実であり、命の恩人と言っても過言ではない。ハンデがあったと言い聞かせ、一人でひたすらボールを蹴った。








つづく





戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki