<夜明けの王と紅月の鬼 一>




 もう、歳を数えるのはやめてしまった。
 敬愛する師を失い、ひたすら人間への復讐のため、気が遠くなりそうな年月を過ごしてきた。今更、過ごしてきた時間に執着しても何も意味がない。今まで通り人の生き血をすすり、身を隠して生きていくだけだ。
 人里離れた森の奥深く、鬼道有人はお気に入りの岩に腰かける。
 何百年という時間、ひたすら人間を喰い、復讐に意味は無いと悟った時には彼の妖力は最強となっていた。今では獲物はごく少量で済み、悪人や眼に光の無い者を選ぶようにしている。人々はオニである彼を恐れたが、討伐に悉く失敗してからはなるべく触らぬようにして祈りを捧げていた。
「……」
 夜の森へ近づくことは、オニに喰われに行くのと同じ。だが、今夜は珍しく、誰かが迷い込んだらしい。鬼道は岩に腰かけたまま、暗闇に紛れる。待ち構えているところへ、一人の少年が現れた。歳は十四か十五、成人の儀を迎える年頃であるだろうに、丈に合わぬ童の着物は継ぎ当てばかりで、薄汚れた坊主頭に栗色の髪が一房垂れ下がっている。
 目は湖のような碧(みどり)だが、何に絶望したのか光も炎も無い。
 鬼道は歩いて通り過ぎようとする少年の前に姿を現した。少年は驚いたが、抵抗は無駄だと分かっているらしく、逃げもせずに力なく立っている。ここで追いかけ回すのもまた一興ではあるのだが、久し振りの食事に静寂が添えられているのも良いだろう。
「オニだ」
 少年がつぶやいた。そして、ちいさく笑う。
 この状況を自嘲しているようにも、望んでいるようにも見える。
 そっと、その顎を掴み上に向けさせる。薄闇にほの白く浮かぶ柔らかい喉の肉に、鋭い爪が食い込んだ。
「痛みは一瞬だ」
 囁いて、一気に牙をたてる。
 鮮血が口内へ流れ込んだ瞬間、内側から灼けるような激痛に襲われ、鬼道は少年を投げ飛ばした。
「ガハ……ッ!」
 吐き出しても、遅い。障気で溶けたような、鋭い痛みが口の中に広がる。
 少年は地面に叩きつけられて気を失ったらしく、倒れたまま動かない。
「グ……うッ……、」
 これは薄くとも、紛れも無い神の血だ。今殺すには情報も道具もない。この薄汚い少年が何者であるにせよ、このまま置いておくわけにはいかないと判断した鬼道は焼けつく舌の痛みに耐えながら、少年を脇に抱えて森の更に奥へ入っていった。




 少年、不動明王は、神の血を引いていた。
 八百万(やおよろず)の神の一人であった父は仲間に裏切られて罪を着せられ、高天原を追放された。堕ちた下界で母と出逢ったことがせめてもの救いだったかどうか、父は罪のせいかは不明だが病に倒れ、不動が物心ついた頃には居なかった。
 堕ちたとは言え神の血を引いている、精霊や亡霊が見えるというだけで、生まれた時から罵倒を浴び続けてきた。父のことは裏切り者の厄病神と言われ、唯一の味方であった母親を亡くして、それは更に酷くなった。子供一人ではまともに暮らすことはできず、領主の奴隷として働かされ、食物は僅かで仕事は多い。人々は彼の纏う空気に畏怖し、嫌忌のために遠かった。やりたくない仕事を押し付け、泥と糞にまみれて、布団さえも与えなかった。
 十五の成人を迎え、一人前の権利を持ってやっと領主から逃れることができ、当てもなくさ迷い込んだのがこの森だった。どこか自分を知らない場所でなら、働いて食っていけるかもしれない。だが、嗜虐から逃れるための手段しか学ばなかった不動にとって、生はもはや意味を成さない。そんな折、目の前にオニが現れても、さして驚きはしなかった。
 それよりも、その美しさに息を呑んだ。陶磁器の如く白い肌に昇りたての月のような緋色の瞳、磨き込んだ銅のような髪は肩へ流れて波打ち、嫋(たお)やかな身体には織りの入った上等そうな灰色の絹織の着流しを纏っている。その額の上には、幼い頃母が描いて見せてくれたオニの角が二本、銀に輝いていた。
 おんな、とも思ったが、違う。体格は細身ではあるが逞しさも感じられる。オニは怖いだけの怪物だと思っていたが、この世にこれほど美しいおとこが居たのかと目を疑った。これほどの美人に喰われるのなら、今までの苦境もさして悪くない。不動は目を閉じ、全てを手放した。




***




 光に目を覚ますと、心地の良い布団に寝かされていた。ぼんやりとした頭を抱えながら起き上がり、冥土は随分と贅沢な造りだと思う。立派な平屋の屋敷は、然程古くはないが何百年も前に建てられたような威厳に充ちていて、縁側の向こうに見える庭、その先の森には、濃い霞がかかっている。
「なんだ……?」
 起き上がると、少し頭が痛んだ。無意識に触って、首に布切れが巻いてあるのに気づく。僅かに痛みがあるのは、咬まれたからだろう。現実かどうか判別しきれていないうちに、背後から声がした。
「やっと起きたか。食え」
 振り返ると、膳を置いた男が無愛想に見下ろしていた。淡い碧に光る銀の髪は結わずに真っ直ぐ腰まで伸ばし、片目を黒い絹で覆い隠している。これも、妖艶な女かと見間違えるほどの美人だ。見えているほうの目は鳶色で、ひどく不機嫌そうに一瞥して立ち去ろうとしたところ呼び留めた。
「おいっ、待てよ! ここはどこだ?」
 彼は深緑の長着に黒の袴を穿いていて、衣擦れの音を立てながら振り返りもせずに去ってしまった。不動はひどく腹が減っていたことを思い出し、目の前の飯を本能のままに平らげた。無愛想な給仕にしては、生まれて初めて食べるまともでうまい飯だった。
 一息ついて暇になると、縁側へ出て周りを見渡してみる。造りは武家屋敷のようだが、広いわりには人の気がない。一歩庭へ出るとたちまち霞に囲まれ、目の前にあるはずの森でさえも見えなくなってしまう。不動は怪訝な顔で屋敷の中へ戻り、畳にあぐらをかく。ここが何処であろうと、嗜虐的で残酷な村からは出られたのだ。彼にはそれだけで充分だった。



続く








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