<夜明けの王と紅月の鬼 ニ>




 すっかり宵闇に包まれた屋敷で夕食を終えた不動の前に、ようやく主が現れた。
「あ……アンタは、」
 森で会ったオニが、自分を喰おうとしたところまでは覚えている。何故まだ生きていられるのだろう。鬼道は少年を、探るような目で見つめている。視線にも恐怖にも屈せず、不動は見つめ返す。
「ここはどこだ?」
 真っ当な質問のどこが可笑しいのか、端正な唇が弧を描く。
「貴様にはもう関係ない」
 鬼道はひどくしゃがれた声で答えた。
「ずいぶんひでぇ声だな」
「次から次へとうるさい小僧が。貴様の血がおれの喉を焼いたんだ」
 首をつかみ、一瞬で壁に叩きつける。息ができない上、足が着かず、不動はもがく。物凄い力だ。大人の屈強な男であっても敵わないだろう。首の傷が痛み悲鳴をあげたが、声にならない。
「何者だ」
 耳元のしゃがれ声は怒りを帯びていた。
「がっ――!」
 鬼道は捨てるようにして手を放し、投げ出された不動は酸素を求めて咳き込んだ。
「ゲホッ……知らねえよ、オレはっ……何者でも、ない」
 体罰なら慣れている、と不動は身構えた。
「ただの、奴隷だ……」
 殺すなら、殺せばいい。奴隷にするなら、すればいい。今までと同じことだ。結局自由にはなれないのか、と喉を押さえて転がっていると、襟首を掴んで立たされた。
「風呂に入れ」
 その声にはもう、先程のような怒気は感じなかった。




 木製の――恐らく檜の風呂桶に落とされ、不動は熱さに焦ってもがいた。主人の背を流したことはあるが、自分が入ったことなど初めてである。川で水浴びをするくらいしか知らず、それも暇があればで、自分のことについてはとんと無頓着であった。喉が痛いのか、鬼道は黙って見ている。
 やっと桶から出て狼狽する不動に手が伸びた。叩かれ引き裂かれると思い身構えたが、鬼道は少年の背中を洗ってやった。着物が濡れるのも構わず乱暴に、布きれで擦ったあと湯をかけて汚れを流す。その体は骨が浮いて、痣や傷がそこかしこに目立った。
 不動は困惑したまま渡された布きれを受け取り、自分で残りの汚れを落としにかかった。鬼道は手ぬぐいと着替えを置いて風呂場を出ていく。不動は困惑したまま従う。用意されたのはきれいな仕立ての木綿の浴衣で、丈はあつらえたかのようにぴったりだった。
 何を考えているのだろう。きっと家畜と同じように太らせてから喰うのだと、子供じみた考えが浮かび、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす。いつ死んでもおかしくない日々を生きてきたのだから、今さらオニに喰われるくらい何だというのだ。
 そんな事を考えていたら、どこへ行けばいいのか知らない事に気がついた。昼間、屋敷の中をうろついてはみたものの、いざ夜になると様子が違うせいか、別の場所に見える。廊下はすっかり暗くなり、闇の中を手探りで進んでいく。怖い事など何も無いと分かっている筈なのに、肩を掴まれた時は思わず飛び上がってしまった。その手は鋭い爪が五本並び、氷のように冷たい。鬼道はついてこいと言わんばかりに、先に立って歩き出す。襖を開け、小さな――とは言っても、不動にとっては充分に広い――部屋に入る。
「貴様の寝床だ」
 布団が置いてあるだけの簡素な六畳を横切り、鬼道は障子を左右に開いた。縁側から月明かりがさし込み、部屋を青白く照らす。
「なんで、とっとと喰わないんだ?」
 好奇と自虐から恐る恐る尋ねると、鬼道はふっと鼻で笑い振り返る。
「入れ」
 しゃがれ声に従い、そろりと足を進める。
 冷たい光に、血のような赤い眼と銀の角が輝く。庭から霞も僅かに漂い、側にいるだけで呑まれてしまいそうだ。
「オレはやっと自由になれたんだ。また奴隷にされるなら、死んだ方がましだ。煮るなり焼くなり好きにしろよ」
 挑発によって怒りを買うこともできるだろうと思ったが、鬼道は喉がつらいのか黙っている。無表情というより、それはどこか哀しんでいるようにも見えたが、目の錯覚かもしれない。
「……死にたがる奴は旨くない」
「贅沢言いやがって。確かに肉はねぇけど。若い方が良いんじゃねぇのか」
 虚勢を張っているうちに、抑え込んでいた恐怖が今頃になって頭をもたげてくる。だが鬼道は脇を通り抜け、部屋を出ていった。
「寝ろ」
 残された不動は布団を敷く気にならず、障子を開けたまま、月明かりが照らす畳に横になる。体を丸め不安や憤りを押し退けようとしているうちに、疲れたのだろう、いつの間にか眠りに落ちていった。
 不思議なことに、いつも暗くなると浄化してほしいと出来もしない事を頼みに現れる亡霊たちは、見なかった。それどころか、霊の気配すらしない。それは鬼道の作り出している結界のせいだと、後になって知った。




***




 何日経ったのか、相変わらず何を考えているのか分からないオニの主人と、屋敷に暮らしている。
 朝起きると着物が用意され、一日に二度、時間になると一ツ目が飯を運んでくる。彼は佐久間次郎という名で、ずいぶんと前から鬼道に仕えているらしい。鬼道に対しては世話好きで心配性のようだが、不動に対しては義務的な世話をしつつ侮蔑のこもった目を向け、一切喋らない。不動はそれについて、恐らく自分の所為ではないと考え、気にしないことに決めた。嫉妬は己の中の問題だ。
 鬼道の喉は妖力のせいか程無くして治り、あの夜聞いた、やや掠れた中低音の落ち着いた声で不動を呼ぶ。
「お前、名は」
「……あきお」
「字は」
「知らねぇよ。……よあけのおう、とか聞いたけど」
「明王……か。よい名だ」
 自嘲を多量に含んだ答え方を無視して呟いた鬼道は、どこかもの悲しい美しさに充ちていた。不動は安直に、鬼道にもいるはずの親を思い出したのだと考えた。
「……アンタは」
 直視できないような気恥ずかしさに包まれながら訊ねると、ふっと僅かに口が笑った。
「有人」
 その口は自嘲気味に弧を描いていて、まだ猜疑の残る心に小さな困惑を呼んだ。



続く







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