<夜明けの王と紅月の鬼 十>
鬼道が帰ったのは夜が始まった頃だった。やけに早い帰りに、碌でもない考えばかり浮かんでは消えていく。
間違ったことは言っていないはずだ。そして、あの父娘もきっと無事のはず。
ただ単に、できるだけ避けたかった。これで自分が獲物を見つけてくるような役割を任せられでもしたら、と思うと、いくら排他的な不動でも同じ人間だとおぞましく感じる。これでいいと言い聞かせ、意味無く時間をかけて布団を敷いた。
「ただいま」を言いたかった。問題は何もない。もう結界の外へ出かけることも許したから、誰と会おうが彼の自由だ。だが、なぜこんなにも動揺するのだろう。人間の、しかも少年に、振り回されていることに嫌気がさす。
そこでハッとした。様子を見ているだけでは、何も分からない。何を弱気になっているのだろう。鬼道は布団から立ち上がり、真っ暗な廊下へ出た。
「明王、話がある」
やや沈黙を置いて襖が開き、薄暗い闇の中に不動が立っていた。
「何」
行灯の蝋燭に火を点ける。蜻蛉柄の白い浴衣に身を包んだ不動が、布団の上に腰を下ろすのが浮かび上がった。鬼道は布団を避けて、いつものように畳の上に正座する。
「……さっきは、すまなかった」
蝉は静まり、エンマコオロギが控えめに羽音をたてている。不動は苦く笑った。
「へっ、別に旦那が謝ることじゃねぇだろ」
確かに何も言わなかったし、と付け足すところを見ると、不動も気にしていたのだろう。胸のつかえが一つ取れたように感じ、ゆっくりと息を吐く。
「話というのは……お前のことだ」
「は……オレ?」
疑念の色が差す。それをくるしく思い、逸らして、しかしやはり真っ直ぐに目を合わせた。今度は不動が逸らす。
「お前はただの人間じゃない。自分でも知っているだろう」
「……さあ、どうだか。人と違うって言われ続けてきたけどさ、何が違うんだか分からねえよ」
「あの時、なぜお前を殺さなかったと思う? 喰えなかったからだ」
その言葉に、不動は鬼道を見た。
「は? いきなり何……」
「お前には神聖な血が流れている。このおれに傷を負わせたのだから、間違いない」
「まあ、神聖っつーか……傷? おいおい、痛かったのはこっちだぜ」
茶化すように、笑う。鬼道は平静を努めた。
「覚えているだろう。お前の中に流れている神の血は、おれにとって猛毒になる。障気と同じような効果をもたらすんだ」
「んなこと言ったって……」
不動は半信半疑で立ち上がり、障子を開いた。涼しい夜風が月明かりの無い新月の庭から流れ込んでくる。心地良いはずなのに、今は不愉快だ。
「オレのどこが神聖なんだよ……それに、半分人間じゃないったって、特別な事なんて何もできないぜ。安心しろよ」
「そうじゃない」
不動の皮肉めいた言い方を和らげようとコオロギの羽音が穏やかに響いていたが、鬼道は張り詰めた声を隠せなかった。
「森が荒れてきたのには気付いているな」
唐突な話に不動が眉をひそめる。
「お前には、ちゃんと特別な能力が備わっている。それは、使う為に存在する力だ。森を癒せるかもしれない」
「訳わかんねぇ事ばっか言ってんじゃねえよ」
不動は口を開き何かを叫びそうになったが、すぐに皮肉っぽい笑みを浮かべて冷たい声を放った。それを鬼道は残念に思った。
「食えないモンはとっとと捨てろよ。それともあれか、オレはアンタの玩具か何かか? そうだよな」
「違う、」
「何が違うんだよ? オレには何の力もねぇよ。わざわざご丁寧に囲ってまで何ヵ月も生かす価値は無いってこった、残念ながらな」
彼は鬼道がなぜ自分を生かしておいたか、うすうす気付いてはいた。見えていたのは慈愛や、なにか運命的なものではなく、恐怖と自己顕示欲の混在した好奇心。鬼道は答えに詰まり、逡巡する。
「殺せもしねぇなら置いとくんじゃねえ!」
不動は奥歯を噛み締めて庭へ飛び出した。
「明王!」
いつになく情けなく聞こえる鬼道の声が背中に当たっても、暗闇でつまづきながら走り続ける。
本気を出せば、すぐに追いつけるだろう。だが、全身が鉛になってしまったかのようだ。このまま遠く好きなところへ行ってしまえばいい、とさえ思い始めた。二度と会わないで済むのなら、やがて苦痛は治まる。ただ単純に、忘れてしまえばいい。鬼道は空を仰ぎ、そこに何も輝いていない暗闇を見た。
このまま忘れ、無かったことにしてしまうには、少年の存在はすでに大きくなりすぎていた。その感情はおよそ理解しがたい未知のもので、鬼道は混乱した。その混迷のうちに、ひとつだけ確かなことがあった。
屋敷には寂しげなコオロギしかいない。ふらりと立ち上がり、縁側から庭へ飛び降りて素足のまま森へ向かう。真っ暗な闇でも空には無数の星が輝いていることや、コオロギが羽音をたてる理由を、彼は見失っていた。
気付けば毎朝の習慣で無意識に道を選び、川にたどり着いていた。夜の川は昼よりも冷たい。そのせいかどうか、渡る途中で足が止まってしまった。多分怒らせた筈だ、今度こそ殺されるのかもしれない。
ふと見ると、医者の家はまだ明かりがついていた。
裏手に回ると、縁側から開け放した父親の部屋が見える。枕元に、看病をする冬花の姿も見えた。安堵する自分に嫌悪を感じたが、暗い森へ身を引き、木の幹に寄りかかって大きく息を吐く。
問題はこれからだ。鬼道はどうしただろう、と思い、耳を澄ましたが、微かな虫の羽音と風がさわさわと梢を揺らす乾いた音以外、何も聴こえない。
追いかけて欲しかったとは思わない。だが、後悔が心を突つき始めていた。あの夜見つめた昇りたての月のような瞳に、囚われたまま逃れられないでいる。これがオニの妖力で惑わされているだけなのではないかと、何度も考えた。だがもしそうなら、さっき屋敷を出ることすら不可能だった筈だ。
冬花の家にもう一度近付く。まだ迷っている。迷っているなら、いっそ一晩泊めてもらい、明日の朝ほとぼりが冷めたところで帰ろうか。
玄関の戸を控えめに叩いた時、背後に凍える冷気のような気配を感じて振り返った。失敗した、と瞬時に悟った。戸を叩いた音に気付いてくれるなと願ったが、既に玄関の戸は開き、不動は全身が強張るのを感じた。全ては唾を嚥下する間に起こった。
「はい、なにか……明王くん?」
「来るな!」
「えっ。どういうこと……」
「明王……」
鬼道の見開かれた緋色の瞳には驚愕と失望が入り交じり、その奥で怒りの火が燃え上がる。一歩踏み込んだ鬼道の体を、持てる力全てで止め押さえた。冬花に危害が及ぶと思って防いだのだが、鬼道は不動の腕を掴もうとしただけだった。半ば突き飛ばすようにされた鬼道に、混乱が襲いかかる。背後で冬花が息を呑んだのが聞こえた。
「なぜだ?」
歪んだ顔は、凄味を帯びてオニそのものでありながら、狂気的な美しさも増している。見惚れるほど恐ろしかった。
「――そうか」
戸惑う冬花の前に少しずつ移動する不動を見つめ、鬼道は歪んだ笑みを浮かべる。
「釣れないのは、そういうことだったのか」
不動は顔をしかめる。口を開くより先に、暗闇の中で鬼道の右手の関節が鳴った。ぎゅ、と冬花が不動の浴衣を掴んだ。この暗闇でも、目を開けていればオニの角が見えるだろう。
状況のせいで、不動の脳は普段の倍速で動いていた。いざとなれば、家の中に逃げることはできるが、一時しのぎでしかない。
だが、鬼道はなぜか、悲しげにため息をついた。
「お前は、分かっていないんだな」
「分かってないのはどっちだ!」
叫んだ次の瞬間、風が吹いた後の暗闇には、何も無かった。後ろか、横か、と不動は身構えるが、もう気配すらしない。
沈黙のあと、驚異が去って一息ついた冬花が訊ねる。
「明王くん? ……どういうこと? あの、ひとは、誰?」
恐怖に震える声に背を向け、闇の広がるほうへ歩きだす。
「悪い……言えない」
鬼道が選択したのなら、自分も選択する時だ。間違いを正せる瞬間は、逃してしまえば二度と来ない。困惑の中に残された冬花が引き留める声が聞こえたが、もう立ち止まるつもりはなかった。
歯車がぴたりと噛み合わさったかのように、バラバラになっていた心がひとつになって、大きなからくりが動き出す。間に合ってほしいと強く願い、不動は走った。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki