<夜明けの王と紅月の鬼 十一>
鬼道は森の中をふらふらとあてもなくさ迷っていた。足の裏を、折れた木片で切った。まるで、いつだったか疲弊しきって雨に濡れたあの時のようだ。だが、白狐の寺にはもう行けるはずがなく、そのつもりもない。逃げて甘える生活は楽だったな、と自嘲するうち、いつの間にか自分の屋敷に着いていた。
結局、居場所はどこにも無い。孤独は最初から最後まで影のようにつきまとい、寂しさなど疾うの昔に忘れたはずなのに、ずっと蝕まれていたと知る。
半永久的に不老不死であるこの身体で産まれた時から呪われ、神に見放されていたのだ。すべての神に。勝利以外の何かを望むなど愚かで低俗な行為だと、師匠に教えられ分かっていた筈だった。
ふと空を見ると、山のはるか彼方、暗闇の果てが白み始めていた。疲労が全身にまとわりつく。と、背後で細い枯れ枝を踏む音がして、一瞬で身を翻し、そこに現れた裏切り者の首を片手で捕まえた。不動の両足が浮き、喉に爪が食い込んだ。
「ぅあ、が……ッ」
「ほら。どうだ。こうして、いつでもできたんだ」
己に言い聞かせるかのような言い方に思え、鬼道は戸惑う。生かしておいても何の得もないはずのこの少年を、殺す気がしなくなったのはいつからだっただろうか。
「それなのにお前は、」
弱音を吐きそうになるのを奮い起たせ、手に力を込め直した。不動は思わず鬼道の手首を掴んだものの、抵抗はしない。痛みか心か、苦痛に歪む目には強く燃える光を宿していて、真っ直ぐに鬼道を見据える。最初からこんな眼をしていただろうか、と眺めるうち唐突に、怒りの原因は自分の内にあったと気付く。
「……行くなら行けばいい」
滲んだ彼の血が爪を溶かす寸前で、鬼道は手を離した。
「うぇ、ゲホッ……ってぇ……」
支えを失って尻餅をついた不動は、咳き込んで喉をさする。指先に血がついても、平然としていた。よく見れば、もう一方の手に赤い花を一輪持っていた。
「あのさ。さっきの女。話せば長く……なる。けどオレは、どこへも行かねぇ」
絞めた喉のせいか掠れた声で、目線も合わせない。掠れた声は震えているような気もした。鬼道は地に膝を着き、明るみ始めた空の下で再会を称えている彼岸花の、赤く細長い花びらを眺める。そのまま、不動を強く抱き締めた。
「なぜだ」
震える声で呟いた問いの答えは、不動が戻ってきた時点で知っていた。
「さぁね」
肌寒い夜明けの空の下で、腕の中にある体温よりも背に回された手のひらから、体の奥まで沁みわたっていくのが分かる。目を閉じて、深く息を吸い込んだ。安堵が穏やかに広がっていくのを感じる。朝焼けの中で、コオロギがなぜ鳴くのかを思い出した。
鬼道は不動の首を撫でたが、不動は手を退けて立ち上がり、こりをほぐすように首を回した。安堵の次には疲労が訪れる。そのまま黙って欠伸をしながら屋敷へ入っていく不動を追って、片足を引きずりながら廊下を進む。足音に疑問を抱いて、振り返った不動が眉をひそめる。
「足――」
「なんでもない」
簡素に答えて、不動の目の前を通りすぎる。
そのまま自分の部屋に戻るのかと思いきや、彼は後ろについてきた。鬼道は襖を開け部屋に入ってから一歩下がり、口数の少ない少年を見た。不動は黙って中に入り、襖を閉める。
太陽が昇って気温が上がり、世界は再び明るくなってきていた。敷いたままだった布団に横たわると、不動は鬼道の足の裏を見て部屋を出、濡れた手ぬぐいを持って戻ってきた。泥と血を拭った後は、不思議と痛みも気にならなくなった。
目を閉じる前に一瞬、視線を交わした。不動はゆっくりと深く息を吐いて、隣に横になる。一粒の滴が落ちてゆき、波紋が胸の奥に優しく広がっていく。浮いていた不安も悩みも、どこか彼方へ押し流された。
うだるような暑さで目が覚めた。恐らく午後のようだ、陽はやや傾き、蝉の鳴き声が響き渡っている。起き上がって隣を見ると、鬼道が静かに寝息をたてていた。その寝顔はあまりにも無防備で、大人びた端正な顔も少し若く見えてしまう。
浴衣の襟元からは白い陶磁器のような肌が覗いている。おとこのわりに薄い胸板は、それでも適度についている筋肉に綺麗に彩られ、まるで造り物のようだ。
その胸に添えられた白い腕に己の手を重ねて、気温はこんなに高いのに随分と冷たいと思った。皮膚の下には、ちゃんと血流があるのだろうか。愛撫したら、どうなるのだろうか。孤独になった森の中ではっきりと自覚した感情が、一気に心を占領していく。手を離し、立てた片膝に頭を抱えてうずくまった。
***
何事もなく、数日が過ぎていった。
「どうした」
勝手口から少し離れたところに立つ不動の後ろから、鬼道がゆっくり歩いてくる。藍染の薄い長着に黄土色の細帯、芝生を踏む素足が気温の高さを物語っている。珍しく髪をまとめ上げ、黒いかんざしで留めていた。
「ん、畑でも作ろうかと思ってさ」
しゃがんで、芝生の下の土を確かめる。耕す必要はありそうだが、植えれば何か育つだろうと計画を練る。
「それは良いな」
見上げると、やけに機嫌の良さそうな顔が目に入った。不動は怪訝な顔で立ち上がる。
「……なんだよ?」
「ん?」
「随分とご機嫌じゃねぇか」
「ああ、」
言われて初めて自覚したのか、鬼道は少し驚いた表情を見せたあと、花ひらくように微笑を浮かべる。
「嬉しいよ」
何が、と問う前に彼は背を向けて、屋敷へ戻ってしまった。
不動は畑を作ったが、当然すぐ育つはずもなく根気よく待たねばならなかった。頼んでもいないのに鬼道が魚や兎を獲ってきたり、芋や大根を台所に置いておいたりすることがあった。どこから、などと野暮はせず、黙って笛を吹いた。
――ここで生きていくことを決めた。
それは不動にとって十五年間の中で一番大きく、重要なことだった。食事をしながら、稽古をしながら、己の鼓動を感じる。振り向いた先で鬼道を見つけると、それはわずかに強くなった。冷たく鋭かった血のような瞳は奥にあたたかいものが灯り、不動はむず痒い気持ちで視線を逸らす。ずっとこのままでいられないことは、分かっていた。
だが不動は何も言わず、布団を鬼道の部屋に置いたままにした。毎夜、隣で寝るだけのことだ。それでも不動は鬼道がたまにうなされるのを知り、鬼道は不動が夜中に咳が出て眠れないでいる時があることを知った。
暗闇の中、隣で寝息が聴こえる。それは非常に重要であったが、悩みの種の一つでもあった。手を伸ばせば触れられる距離にいても、すべては手に入らない。望む事すら愚かしくなって、夢に身を委ねた。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki