<夜明けの王と紅月の鬼 十二>




 屋敷からさらに森の奥へ、川とは逆の方へ行くと小さな池がある。飲めるほど澄んだ水をたっぷりと溜めた池は適度に浅瀬があり、夏場の沐浴にうってつけである。不動がここを見つけたのは偶然ではなく、例によって鬼道が連れてきたためだった。
 入れと促され、好奇心も手伝って着物も褌も置き、冷たい水へ一気に身を沈める。着水した直後は体が硬直したがすぐに慣れ、心地よく泳ぎだす。
 ふと木に寄りかかっていたはずの鬼道を見ると、彼は帯をほどいたところで、半月が差す薄闇の中で白い肌が輝き、分かってはいたが内心慌てた。ばさ、と深紅の着物が岩に落ち、ちりめんの褌もその上に舞う。下着などいつも洗濯の時に見慣れているはずなのに、状況が卑猥に見せる。泳ぐことに集中しているように装いながらゆっくり離れていくと、重い水音のした後、いつもの落ち着いた声が静かに響いた。
「明王、こっちへ来い」
「なんで」
 即答だけはするまいと思っていたのに、つい反応してしまった。鬼道は間をあけ、ふっと笑う。
「恥ずかしいのか。今更だな」
 からかいの台詞に唇を噛みながら、何食わぬ顔をしてゆっくり鬼道のいるほうへ向かう。伸ばせば足が着くが、泳ぎたい気分だった。鬼道は足を着けて立っても、肩までは浸からない。
「別にそういうの、ねーよ」
 一度頭まで潜って、冷たい水を全身に感じる。火照りの引かない顔の水滴を払うと、鬼道が笑っているのが見えた。
「そういうの、って何だ」
「だから。恥ずかしいとか、今更ねーよって」
 水を吸った髪が顔に貼り付く。鬼道の指が、そっと髪を退けてくれた。
「そうか」
 仄暗いなかで視線が交わる。年頃の少年にしてみれば非常に不適切な状況であるが、不動は欲情を超えたもっと大きなものに圧倒されていた。白い月光が遠くの水面を照らす。闇に輝く緋色の瞳は今、真っ直ぐに自分だけを見下ろしていて、鋭い爪も今はただの飾りと化した手は優しく頬に添えられている。
 ずっとこのまま時が続けばいい、いっそのこと今この瞬間で止まってしまえばいいとさえ、思った。




***




 縁側でいつものように、鬼道は月見酒を愉しむ。湿気が多く蒸し暑い夜には、肩に流れる髪をまとめ上げ、かんざしで留めていた。漆塗りの黒はよく見ると、繊細な飾りが彫ってある。それをちらと見て、夕飯の片付けから戻ってきた不動が縁側へ座った。
 徳利が載った盆を退けると、何も言わずとも不動は近くに座り直す。思わず小さな笑みがこぼれ、少年に怪訝な顔をされる。自分でも阿呆だと思ったが、最早どうしようもない。
「明王は、おれを怖がらないんだな。初めから」
 出会った頃を思い出して、鬼道は言う。不動はやや沈黙した。じっと目の前の闇を見つめる深い翡翠色の眼は、頭上の半月を灯して光っている。
「あん時は逃げるので精一杯で、死んだ方がマシかもしれねぇとか思ってたんだよ」
「逃げる……? 何から」
 不動は間を置いて、鬼道に視線を返すことで回答の拒否を示した。
「それに――アンタはオレを痛めつけない。蔑まない。……人間じゃない奴のほうが合うのかもなぁ」
 軽く聞こえるように言って皮肉めいた笑みを浮かべ、月を見上げる。鬼道は眉をひそめた。
「でもお前、少なくとも半分は人間だろう」
「関係ないんだよ。あいつらは。ちょっとでも自分たちと違うと、ギャアギャア喚いて、自分たちが守ってきたくだらないものを守ろうとする」
 さっと風が吹いた。鬼道は隣の少年をいとおしく見つめる。
「おれには家族も仲間も沢山居たが、人間に退治された。今では、純血種はおれだけだ」
 不動がはっと顔を上げて、目線を合わせた。
 復讐に飽きるほどの長い長い年月、ずっと独りだったのだ。生きる意味を忘れてしまうほどに。そう伝えるかのように見つめ返した。
「アンタは十分強いだろ」
「どうかな。それに、強さを求めたのは身を守るためだ。本当の強さというのは……そうじゃない」
 喋りながら、随分と心を開くようになったなと、自分で自分に驚く。それを心地好く感じていることも意外だった。
 何となく納得したのか、不動は目線を外す。縁側は冷えてきた。
「なんかさ、アンタ、オニらしくないよな」
 ちょうど温もりについて考え始めたのを見透かされたようで、鬼道は自嘲気味にふっと笑う。
「冷酷で残忍なだけがオニではないさ」
 言いながら、冷酷で残忍なもの以外をすっかり忘れていたことに気付く。笛の音も、ただ聴くだけになってしまった。
 孤独には慣れている、愛情だって知っていると、ずっと思っていた。それがこんなにも、間違っていたと気付かされる。
「明王」
 呼ばれて再び目線を合わせる不動の双眸が、まるで洞窟の壁に咲く碧水晶のように見える。鬼道は名残惜しく目を閉じた。それは一瞬の、短い接吻だった。だが何かを確かめるかのように、唇は近いまま、ゆっくりと呼吸する。引かれ合い交錯した視線が絡んだ。
 鬼道はもう一度口付けた。今度は不動も返す。急激な熱に、息も荒くなる。何度も何度も重ねるうち、抑えこんでいた欲望が高まっていく。
 肩の力を少しずつ抜いて、鬼道は不動を抱き寄せたまま床に背を着けた。まるで不動が組み敷いたような格好だ。
 しかし、どちらからともなく口を開き、触れた舌が焼けつくような痛みを残して、甘い接吻は唐突に終わった。弱い力で腕を掴まれ引き離された不動は、口を押さえ今にも泣きそうに顔を歪める鬼道を見て察する。
「……」
 何か言いかけたその表情は、鬼道よりも耐え難い悲痛に歪んで見えた。
「寝る」
 立ち上がった不動は廊下の闇に消え、襖が開いて、閉まる音がする。
「……あきお、」
 舌足らずな声は、遠すぎて聞こえなかっただろう。それ以上何も言えず、痛みに耐える。焼けついた舌などは些細な痛みにすぎなかった。
 すぐに追うことができずに、一時間ほど経ってからやっと重い腰を上げて布団へ向かった。不動はいつもと変わらず、隣で寝息をたてていた。




***




 夢に、五年前の情景が揺らいだ。十歳の不動は、桶に井戸水を汲んで、台所へ届ける。往復するうち、母屋から家来が二人来て、不動は連れて行かれた。投げ捨てるようにされ、寝転がったのは布団の上。若旦那は由緒ある家柄の女子(おなご)を娶られたというのに、どうやら隠れて床に少年を連れ込むのが趣味らしい。
 抵抗するより先に小判を見せられ、母親を幸せにしてやりたいだろう、と耳元で囁かれた。逆らえば反対の事が起きるわけだ。脅迫と変わらない。頷いた不動はたびたび気まぐれに呼ばれ、行く度に空虚な愛撫を求められる。嫌悪感よりも、ささやかな報酬が大事だった。
 だが、あの接吻は違った。永遠の向こうへ続く果てしない世界を感じた。自分の存在は鬼道を傷つけてばかりで、不公平だ、と不動は思う。初めての願い事は恥ずかしいくらい純粋で、絶望の格好の餌食になるだろう。闇に蝕まれる前に奥へ押し込み、布団から起き上がった。




***




 このままでいいのだろうか。そんな事ばかり、ずっと考えている。
 自分で選んだとは言え、本当に不動のためを考えた場合、ここにいるのはよくない。自分で蒔いた種だと言われれば何も言い返せないのだが、想いを募らせれば募らせるほどやはり離れなければと感じる。
 鬼道は暗闇の中、隣で横たわる不動を眺めた。触れられないのに惹かれるのは異常だ。もっと繋がりたいと願っても、お互いの体に流れる血が相容れない。触れようとすれば傷つけてしまい、苦痛が体中にまとわりつき、ぎりぎりと締めつける。
 どこで間違えたのか、何の罰なのか。鬼道は思い当たる己の過去に呻き、布団に顔を埋める。人間を殺さなくなってから、自分はどこか狂ってしまった。いま感じているものは正しい光の筈なのに、そうだと言い切れる絶対の自信が足りない。久しく感じていなかった不安と恐怖の中で不動の寝息だけを聴きながら、一番恐ろしい考えを頭の隅に押し込み、ぎゅっと目を閉じた。目の前の存在すら幻想かもしれないなどと、考えたくはなかった。




続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki