<夜明けの王と紅月の鬼 十三>
不動は毎朝、勝手口の側にある井戸に水を汲みに行く。そこで顔を洗い、使う分の水を持って台所へ戻る。以前、屋敷の主人に聞いたところでは、この辺りには山からおりてきた地下水が流れているのだという。不動にとってはどうでも良かったが、きれいで旨い水を毎日飲めるのは今までの生活からするととても贅沢なことだった。
桶の綱を手繰り寄せながら、以前の生活を思い出す。ここからそう遠くない小さいが栄えた村で、領主に仕えながら、まずまずの暮らしを営んでいた。だが五つの時に父が死んでからは、坂道を転がるようだった。女手一つで育てるのには労が要る。領主に家を取られ、奴隷同然に扱われ、厩の隅で干し草を寝床に親子は眠った。仕事は畑か厨房、その他、厠の掃除や馬の世話など、大量に仕事があって大量に奴隷がいて、誰もが賃金の代わりに罵詈雑言と過剰な体罰をもらった。体力の低い母親はじきに精神から疲弊し、病に蝕まれ、不動が十の頃に呆気なく息を引き取った。
金と支配と疫病の中で育った。それが今は、真逆の生活をしている。
贅沢というわけではないが不動には十分な食べ物は尽きず、心地好い布団もある。この謎めいた屋敷に収納されている豊富な書のおかげで、大根の育て方から人体の構造、よく分からない唄、歴史、ちょっとした薬草の効用まで知ることができた。武術と剣術は、太刀筋は滅茶苦茶だが辻斬りを退散させることくらいは恐らくできるだろう。それも、すべて鬼道が自ら手を墨汁で染め、すぐに治るとはいえ腕に痣を作ってまで教えようとしてくれたからだ。
不思議なものだ、と思う。出会った時は只々、その存在に圧倒され見惚れていただけだった。それも、妖しげな魅力に幻惑させられて、とり憑かれているのだと思った。それが今は、己の中に確かなものを感じる。よくよく思い起こしてみれば、彼は初めから妖術など使わず、単純に不動の一目惚れだったのかもしれない。
「……阿呆か」
相手は歳が離れすぎている上に、人間ではない。浮わついた思考を自嘲気味に笑い飛ばし、水を手持ち桶に移して台所へ戻る。
持ち上げようと力を入れた時、咳が出て噎(む)せ返った。桶を井戸の縁に半ば落とすようにして置き、近くに掴まり片手で口を覆う。おさまった頃ふと手を見ると、真っ赤な血が痰と共にこびりついていた。
「……やべ……」
嗽(うがい)をし、手を洗い流す。減ってしまった水を汲み直す気もせず、力なく井戸に寄りかかる。医学書は何気なく暇潰しに流し読みした程度だったのだが、幼い頃から自分に出ている症状は意識しなくとも気になるもので、咳に関わる項は他よりもよく覚えていた。育った環境がここまで悪影響を及ぼしていると知り、現実の重みが胸を磨り潰す。
「ハン、ざまあねぇよなぁ」
自嘲に笑い見上げた空が僅かにぼやけて、もう一度顔を洗う。
このまま死にたくないと、初めて心の底から思った。
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鈴虫が鳴き出した事に気付いた夜、酒が切れて鬼道は溜め息をつく。縁側に吹く風も、秋めいて肌寒い。そこへずいと押し付けられたのは酒ではなく薄手の黒い羽織で、見れば不動が片手を棒のように伸ばして、羽織を差し出していた。
「黙って肩にかけてくれれば良いものを」
受け取って自分で肩にかけると不動は黙って行ってしまったが、すぐに新しい酒と、猪口をもう一つ持って戻り隣に座った。どうする気なのかと見ていると、鬼道に酌をしながら笛を吹く合間に、ちびちびやっている。微笑むと、照れ隠しなのか酒が不味いのか、睨まれてしまった。鈴虫に加え何種類かのコオロギが、笛を無視して合奏している。
「明王、お前はこのままでいいのか」
「何の話」
「……普通の人間は成人したら、女と結婚して家族を作る。お前は賢いし力がある、なろうと思えば何にでもなれるだろう」
不動は驚き、怪訝な顔で隣を見上げた。
「いきなり、なんだって……まだそんなくだらねえ事考えてんのかよ。大体、普通とかじゃねえし――じゃあ聞くけどさ、今さらオレにどうして欲しいわけ?」
「それは……」
「オレにはなんもねーよ。何の為に生きてるのかも分かんねぇし、どうだっていい」
「どんな生にだって……意味はある」
言いながら、自分こそ今まで過ごしてきた時間は一体、とまで考えて首を振った。果たして、意味がある人生とはどんなものであろうか。余りある時間を使って、成し遂げたことと言えば無意味な復讐だけ。
「家庭? そんなくだらねぇモン……」
低い声に、何を期待したのか、ずきりと胸に鈍痛が走った。横顔に煮えたぎるような怒りが見えて、鬼道は違和感を読み取った。その矛先は、自分にではない。沈黙の中で、不動はゆっくりと立ち上がり去って行った。
求めても仕方がないなどという詭弁を地の底へ捨ててしまいたい。何もかも忘れて、永遠でなくともいい、相反するものでなく相容れるものでありたかった。
角があるというだけで、距離を置かれてきた。それは忌み嫌うというよりも、畏れだった。人々は未知の強大な力に畏怖し、自分たちの身を守るため距離を取ったのだ。だが、そんな過去はとうの昔に断ち切った。今必要なのは、たったひとりの手。
「おれは人間に生まれたかったよ」
寂しそうに笑う独り言は、そっと夜風がさらっていった。
不動は寝床の用意をした後、鬼道が布団に入っても戻って来ない。もう何も言うまいと思ったのだが、眠れなくて様子を見に来た。不動は庭をゆっくりと歩き回っていた。ちらりと見て一周し、立ち尽くす鬼道の前をやっと通っていく。どこかで牛蛙が鳴いている。
「まだ起きてンのかよ」
それはこちらの台詞だと言いたげな赤い眼を見て、不動は呆れたように大きく息を吐いた。通り過ぎたところで、立ち止まる。
「あん時、言ったろ。オレはここを選んだ。そりゃ、いつかどっかには行くかもしれねぇけど?」
その言葉に、先程の悲観は無駄だったと知る。だが、まだ言いたいことは伝えきっていない。
「……おれはお前にした事を悔いているんだ。だから、これからはお前が幸せに生きていけるよう協力したい」
「だーから違ぇっての」
再び不動は離れていく。舌打ちをしたが、幸い鬼道には届かなかった。
「……人の話聞いてンのか」
ぽつぽつと雨が降ってきた。冷気を伴い、次第に雨粒は大きく強くなる。
「さみー」
不動は腕を組むというより縮こめて、早足で屋根の下へ戻っていく。一人取り残された鬼道は、次第に強くなっていく雨を受けながら、不動の少なすぎる返答の意味を考えていた。
「冷えんぞ」
今まで雨を気にしたことはなかった。じわり、と優しさが染み入る。それを受け取る資格は無いと責める、自分の口を塞いだ。もう考えるのはやめよう。
「お前が暖めろ」
不動のからかうような笑い声に、既に願いは叶えられていると知る。植物たちが喜ぶ声が聞こえた気がして、雨は恵みだということを思い出した。
布団に戻ると、鬼道は赤とも青ともはっきりしない微妙な心情を自覚した。知ってか知らずか、不動は先に言われた通り鬼道の布団に潜り込む。触れる体温が熱いほどで、生命を感じてそれだけでも涙しそうだった。
不動は冬花の事を、できるだけ詳細に、客観的に説明した。鬼道は黙って聞いていたが、自分の想像と全く違ったことに胸を傷め、少なからず後悔した。
全て話し終えた不動に「そうか」とだけ言って、かつて苦しめた首をそっと撫でる。その手を鬱陶しそうに柔らかく退けられ、力なく布団へ落とす。落ちた隣に不動の手があり、重ねようか迷いながら眺めた。
「……悪かった」
「別に。オレも隠し事したし」
「だが、」
鬼道が重ねて「すまない」と言いかけたところへ、「アンタ意外と馬鹿なんだな」と不動は言う。
「な……馬鹿とはなんだ」
顔をしかめると、不動はヘッと笑い飛ばしてから急に真顔で、咳払いなぞして言った。
「最強のオニさんにゃ、ちまちました悩み事なんざ似合わねぇよ」
先刻心に貼り出した決意が早くも剥がれそうになったところを、再びしっかりと貼り直されるような感覚に包まれる。不動は普段から真面目に答えなかったり意図的に真意を言わなかったりするが、重要な事には必ずしっかりと向き合う。
「明王」
寝転がって身長差の関係ない今は、目の前に不動の頭がある。真面目な台詞は自分に似合わないと思っているのか、照れくさいために不機嫌な声がした。
「なに」
無愛想なたった一言がひどく優しい響きに聞こえる。ぎゅ、とすがるように浴衣を掴んだ。
「触れるだけなら、痛くない」
唇はすぐ目の前にある。不動はやれやれといった風に、やや大げさに溜め息を吐いたが、そこには隠しきれなかった笑みが混ざった。
「どうせ……痛くてもすぐ治るんだろ」
小さく、息を吸う音が聴こえた。慎重な、触れるだけの接吻。もどかしくゆっくりと近づいて重なり、離れる。十五の少年相手に欲情を覚え、あまつさえ抑えきれない程に膨れ上がっているとは、苦笑するほかない。
「……明王、」
欲張りを自制できなくて、高鳴る身体をわずかに寄せた。恐らく体液に触れなければいいはずだ。額、頬、瞼、次々と唇を押し当てる。不動も控えめに返す。普段の粗暴さはどこへやら、若い激情を忍ばせているのに必死に優しくしようとする姿が、堪らなくいとおしかった。わずかに触れた唾液にチリチリと痛むのも、忘れてしまう。
羽目を外して上体を起こそうとした不動が、ふいに咳き込んで胸に顔を埋めた。
「明王? ……おい」
いつもより長い。どうやら体温が高いのは気のせいではなく、異常だったようだ。
「やべー、冷えたかな」
気まずそうに顔を埋める不動を、包むように腕を伸ばす。明日の朝、自分に出来る事を考えながら眠りにつく。悪い夢を見た後のような、嫌な予感がした。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki