<夜明けの王と紅月の鬼 十四>




 予感が的中することほど、気味の悪いものはない。翌朝になっても熱は引かず、咳は続いた。
「咳はガキの頃からだよ。風邪ならそのうち治んだろ」
 そう言う不動は口元を押さえ、起き上がる。
「寝ていろ」
「便所だよ」
 鬼道の敏感な鼻孔に血の臭いが届き、不安になってその手を掴むと赤が目に映った。不動は小さく舌打ちする。
「お前! ……黙っていた、のか」
 ある程度尋常でない症状のはずなのに驚きもしないということは、少なくとも二回目以降ということだろう。信用されていないような気分に苛まれ怒ってしまいたかったが、黙ったままの不動を前に怒りも失い、鬼道は渋々溜め息をついた。
「……医者を呼ぶ」
「え、医者って」
「いいから大人しく寝ていろ」
 物言いたげな不動を目線で制し、頭巾を掴んで足早に外へ出て行く。鬼道にも多少の知識はある。だが、事態がどの程度深刻なのかまでは分からない。不安が足に絡みつき、振り払うように歩く。自分が平静を失っていると気付かないほど、気が気でなかった。




 医者の家の前で、鬼道は考える。もしあの娘が出てきたら、果たして理解してもらえるのだろうか。
 躊躇っている猶予は無い、と戸を叩こうとしたちょうどその時、後ろから声がした。
「患者さんですか?」
 久遠道也は、道具入れの籠を肩から下げて、往診から家に帰ってきたところのようだ。鬼道が振り向くと、彼は息を呑んだ。頭巾を被って角が見えなくてもまとう空気は、敏感な人間なら何かが違うとすぐに分かる。
「私ではありません。診てもらいたい者がいるのです。先生、どうか来ていただけませんか」
「……貴方は、この間、冬花が言っていた……」
 強張った眉間に皺が寄る。やはり、と身構えていた鬼道は、迷わず頭を下げた。
「迷惑をかけたことは謝ります。私のことを信じられないのも、仕方がないでしょう。ですが、お願いします。どうか明王を助けてやってください」
 先日の一件を娘の口から聞いた時に、どうやらオニと少年が暮らしているらしいということが、不思議でならなかった。恐怖や心配よりも先に、興味を引いた。また彼は、こうして事実が明確になった今、目の前で頭を下げ敬語を使うオニを疑うような、愚かな人間ではなかった。
「分かりました。明王君にはまだ恩を返しきれていない。案内してください」
「有難うございます」
 鬼道は礼を言い、先に立って歩きだす。オニに礼を言われたのは初めてだと感慨に浸りながら、久遠は後に続いた。




 診察を終え、久遠は静かに言った。
「おそらく、労咳(ろうがい)だ。空気の綺麗なところで、安静にしなければ。まあ、ここは良い場所だから、問題ないでしょう」
 起き上がろうとする不動の胸をそっと押さえる。不動はしかめ面こそするものの、大人しく従う。道具をしまい終え、久遠は鬼道に向き直った。
「労咳とは、結核菌が肺に入り込み、免疫の弱った場合に侵食され、熱や咳、酷くなると吐血など様々な症状を繰り返す病です。明王君の場合は、恐らく随分前から発症していたようだ」
 不動を見ると、誰が知るか、とでも言いたげに布団の中から目を細めた。鬼道は膝に置いた手を握りしめる。
「治癒は……」
 駄目元で呟くように口を出た言葉に、久遠は首を振る。
「今の医学では、原因を突き止めるのがやっと。いつ、悪化するかも分からない。この病気は免疫力が頼りです。だが、一度治まっても、再発する可能性は残ってしまう……激しい運動など、できるだけ無理はせずに養生してください」
 薄々予想していたことを確定され、鬼道は口を閉じた。部屋に沈黙が訪れる。
「先生、ちゃんと診察できるんだな。自分の体は治ったのかよ」
「明王」
 遊んでいるような、挑発するような言い方に、鬼道は諌めるような目線を送る。だが場の空気は、沈黙よりは和らいだ。久遠は苦笑して、不動の肩を優しく叩いただけで立ち去った。
 鬼道は後を追い、途中自分の部屋で箪笥を開け、引き出しの奥から小さな巾着袋を持ってきて、中から黄金の粒をいくつか取り出した。
「これを」
 久遠が驚いてその手を押し返そうとするが、先に口を開いた。
「大昔に大名などから奪ったものだ。薬や道具代の足しにしてくれればと思う。尤も、汚い金は使いたくないと言うなら諦めるが」
 その言葉に、久遠はこの風変わりなオニの意図を汲み取った。息を吐き、金の粒を受けとる。
「そこまで言うなら」
 そして草鞋を履くと、深々と一礼した。




 不動はまだ、どこか憤慨を秘めている。
「ヘッ、オレもただの人間だったってことさ」
 今ならそれは、終焉の見えてしまった己の人生の理不尽に対してだと推測することができた。
「なぜ……黙っていた」
 枕元に腰を下ろし、胡座を組んで鬼道は言う。できるだけ平淡な声音になるように気を配った。不動は答えない。彼なりに動揺し、思案した上で行動したのだと思い至ると、その沈黙も些細なものだ。
「どこにも行くな」
 そっと、不動の腕を掴むように、己の手を重ねる。
「無茶言うぜ。どうせ、人はいつか死ぬんだ。よく知ってンだろ」
 不動は諦めた風な言い方をしたが、それでも離さない腕に溜め息を吐く。わざとらしく聞こえた。
「……オレなんかいなくたって、何だってんだ」
「初めてなんだ」
 抑え込んだ心から無理矢理絞り出した仮初めの言葉などそれ以上聞きたくなくて、鬼道は重ねるようにして半ば叫ぶ。
「初めてこんな気持ちになったんだ。お前と共に居たい。お前の全てを見ていたい。死ぬには早すぎる」
「ハ、馬鹿言ってんじゃねーよ、妄想も程々にしな」
 冗談めかして笑う不動を、鬼道は眉をひそめて見た。その笑みは相変わらず皮肉に歪んでいるが、本気の台詞であるはずがない。
「明王……」
「あのさぁ、オレが迷惑なんだよ、そういうの。分かったら黙っててくんない」
 今は不動の意図も汲み取ることができる。
「馬鹿はお前だ! いい加減にしろ」
 更に口を開いたが、手のひらから言葉がこぼれ落ちていく。慌てて拾い上げようとしても、掴む前に消えてしまう。
「……ッ」
 不動は振り向かず、己の腕を掴んだままの鬼道の手を取った。熱があるのに冷たい手を、何も言えぬまま握り返す。重なった部分がほのかに温まった。




 不動はそのまま強くなった熱にうなされ、一晩を過ごした。朝になって漸く眠ることができたが、未だ荒い息は安眠とは程遠いことを表している。その姿を枕元で見守り、額に乗せた手拭いを取り替えてやりながら、鬼道はある選択をした。
 厚手の羽織をかけて不動を背負うと、軽い旅支度をした彼は人里とは逆方向の山道に向かって歩き出した。
「どこ……行くんだ? 墓でもこしらえにか」
「万能薬を作る奴を知っている。ここから数日かかるが、我慢しろ」
「我慢? ……すんのは、オレじゃねぇだろうが……」
 眠いのと、やはり辛いのだろう、咳をしたきり不動は何も言わなくなった。だが、痩せているとはいえ育ち盛りの少年を背負って歩き続けるには、オニと言えどそれなりに体力が要る。鬼道が道の先を見据えて大きく息を吐いた時、後ろから追って来る者があった。
「鬼道さん!」
 佐久間と源田が走り寄って来るのを見て、鬼道は思わず顔を綻ばせる。
「お前たち……」
 佐久間はまず不動を、鬼道の背から、狼へと変化(へんげ)した源田の背に移した。抱き上げられて抵抗もせず、唯一睨みつける眼光は弱々しく、佐久間は喉まで出かかった小言を飲み込み肩を軽く押さえるにとどめた。
 源田が鬼道に言う。
「急に出て行ったりしてすまなかった。ずっとこの辺に居たんだ」
「ずっと……?」
「ああ。佐久間はほら、こっちが心配になるくらい、心配性だから。鬼道さんに気配を知られないようにするのは、大変だったけどな」
 自分の名が出て、佐久間が慌てて口を挟む。
「俺もすまなかった。源田が俺を引き留めてくれたんだ。本当はどこへも行きたくないんだろって言われて。俺、鬼道さんがどこか遠くに行ってしまいそうで……自分から出て行くなんて、ホント、馬鹿だよな」
 泣き出しそうな佐久間に、鬼道は首を振り微笑んだ。
「いいんだ、おれもあの時は混乱していた。二人が戻って嬉しいよ」
 その言葉に笑顔を見せ、しこりを取り払った佐久間は、改めて不動の様子を見る。目は開いているが憔悴しており、相手が相手なこともあって、やはり口を開く気は無さそうだった。佐久間は元々、視えたもの全てをありのまま口にするよりは考えてから行動する性質だったが、そこには一筋の希望も無く、ただ苦痛と死が不動を囲んでいるだけで、思わず悪臭を嗅いだ時のように顔をしかめた。
「どうだ」
 尋ねる鬼道に、佐久間は向き直る。
「まだ、大丈夫だ。でも……」
 それ以上は口にせず、目線で伝える。鬼道は黙ってゆっくり息を吐いた。口を挟まないところを見ると、不動はもう覚悟しているのだろう。いや、彼はとっくに、鬼道に出会ったその時から、自分の運命に抗うことをやめていたのかもしれない。
「それで、どこへ行く気なんだ?」
 源田が尋ねた。重くなった空気を少しでも軽くしようという意図が、声色から判る。
「天狗の山だ」
 鬼道が重大な決断を随分と平淡に答えたので二人は驚いたが、状況を見れば、妖怪と言うより大地の守り神と言った方が正しい天狗しか頼るところは無いと思い至り、すぐに顔を見合わせ頷き合った。
元より天狗と関わりを持つ妖怪は少ない。だが以前、鬼道が二人にぽつりとこぼした話では、天狗の怒りを買ったまま償えないでいるということだった。当時寂しそうに語った鬼道は素振りこそ見せないが、内は心苦しいに違いない。
「あそこまで、早くても三日か……急ごう」
「ああ」
 鬼道、佐久間、不動を乗せた源田の一行は、天狗の住む山を目指して歩き出した。
「ずっと守ってくれていたのか」
 早足を運びながら、鬼道が言った。源田が返事をし、佐久間が答える。
「ああ。今の鬼道さんは、俺たちがずっと願ってきた姿なんだ」
「……コイツのことは、まだよく分からないし、正直ムカつく。けど、感謝してもいいと思えたんだ。心から」
 チラと不動を見ると、不機嫌な顔が羽織にくるまっている。鬼道は佐久間の肩に手を置いた。
「……有難う」
 そう言って、佐久間を見る目は木漏れ日に輝く。
 佐久間が歓喜に跳ねて行きそうなのを見ながら、不動はぶっきらぼうに、源田の後ろ首を軽く掻くようにしてやった。茶色い狼は返事の代わりに、低い小さな声で優しく唸った。




続く







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