<夜明けの王と紅月の鬼 十五>




 咳き込む不動の様子を見るついでに足を休めつつ、昼も夜も歩き続けた。体力だけが取り柄と言っても過言ではない源田は論外だが、体が多少疲れても気にせず歩き続ける鬼道を佐久間が無理矢理休ませたりして、それでも翌日の夕方には天狗の山に入ることが出来た。
 美しい頂が聳え並ぶ山々の奥深く、妖怪であっても滅多に寄りつかない道なき道を、一行は進んでいく。
 三人は固まって薄暗い濃い霧の中を歩いていたが、行けども行けども同じような風景だ。先頭を歩く鬼道は不安感を全く見せず、何かを待っているようにも見える。とうとう佐久間が口を開いた。
「こっちで合っているのか?」
「間違いない。これが普通の道ならば、このような目眩ましなどしない」
 言われてみれば、確かに不自然な霧だ。佐久間が見えない方の眼を使っても、何も視えないほどの濃い霧だった。
「その通りだ」
 するとどこからか声が聞こえ、続いて突き刺すような風が吹いた。反射的に閉じた片目を突風に耐えてこじ開けると、佐久間は鬼道と源田を背に身構える。
 目の前には、高く一つに結った空色の長髪を靡かせ、その線の細い凛々しい相貌で険しく睨む忍のような格好をした風神が、翼も無く宙に浮いていた。
「ここから先は、天狗の許可なく通ることはできないぞ」
 またも脅すように周囲で突風が巻き起こり、木々がしなる。林の奥から、異様な程の強い気を感じて、背筋が強張る。風神は恐らく、佐久間と源田二人がかりでも勝ち目は五分五分ではと思われるが、これ程の覇気は彼からではないようだ。
 その風神は言った。
「人間は通さない。その他の輩も、場合によっては通さない。ここへ来た理由を言え」
 その場に居ずして圧倒するほどの、これが天狗の持つ気ということだ。かつて集落を一人で滅ぼしていた頃の鬼道でさえ、敵うかどうか。佐久間は震える体躯を引き締め、潰れそうな肺でなんとか深呼吸をした。
「我々は天狗様に他意はございません。この者は神の子、半神です。病にかかり、今にも死が迫っております故、どうかお力を拝借致したく、参りました」
「……成る程」
 風神が青年の声で呟き後ろを振り向くと、沈黙を挟んだのちに、天狗が現れた。茶と橙の山伏の着物に、高下駄を履いている。面は着けず、天へ逆立つ短髪と目は全てを育む大地の色で、降り立った彼は鷲の翼を畳んだ。
 まだ若く見えるがその剛勇で壮麗たる容姿は、何者も敵わぬ大守護神と畏れられるだけの威厳に既に満ちていて、無条件で服従してしまいたくなるような、理屈や根拠の明らかでない支配力があった。 まさに神、と表現しても足りるだろうか。彼の動作一つで海が荒れ、雨が嵐になり、風が台風になった。
「鬼道? なあ、お前、鬼道じゃないか!」
 ところが、天狗は翼を不思議な力で背にしまうなり、つい数秒前までの威圧的な気までもすっかり隠してしまった。人間――特に若い女子など生け贄を捕らえることもあると言われるその恐ろしい程の力には、生命の息吹によく似た温かみのある清らかさ、燦然たる朝陽のような熱が滾っているのだった。
 鬼道は困惑しながらも立ち上がり、天狗の真正面に立つ。
「なんだ、いきなりどうしたんだよ! 懐かしいなあ、何十年ぶりだ?」
「頼む、円堂。助けてくれ……訳は後でいくらでも話そう。今更おれが頼れる立場ではないことも重々承知している。だが、一刻を争うんだ。とにかく事情を」
 過去に惑わされない明朗で快活な笑顔は、鬼道に僅かならず安堵を与える。それでも未だ蒼白な顔を見て、円堂はやや深刻になり頷いた。
「よし。おい、風丸! 案内してやってくれ」
 呼ばれた風神は辺りに立ち込めていた霧を爽やかな強風で吹き飛ばし、山のさらに奥へと続く道を開き示した。薄暗い空気は清々しくなり、濃い霧の中に光の筋が差し込んで、まるで別の場所のようだ。
「こっちだ」
 円堂に倣って警戒を解いた風丸は地面へ降り立ち、先頭に立って歩き出す。天狗など話に聞いた程度であった佐久間と源田にはまだ困惑と畏怖とが拭いきれていなかったが、不動の様子を見る天狗の気が大きく包み込んでいくのを感じ、何より鬼道が微塵も畏れず寧ろ知り合いらしいのを見て、疑問なく鬼道の後について進むことができた。




 山奥だからというだけでなく、何かとても壮大な神聖な力で浄化され澄みきった空気が、屋敷の周りから内までも満たしていた。
 以前鬼道が来た時は誰もいなかった、修行寺の如く崖の上に立つ大きな屋敷には、退治師から逃げ隠れる妖怪達が働いていた。だがそれは義務でも刑罰でもなく、彼らは彼らの恩義のため心から進んで対価を捧げているのだった。
 しかしその中にもオニは見かけない。客としても珍しいらしく、屋敷の中へと案内される途中、すれ違った全員が鬼道を控えめにあるいは気付かれない程度に振り向いて見たが、当の本人は今は気にする余裕も無いようだった。




 一つの部屋に、磨りきれているが上等な布団が敷かれ、そこへ不動は横たえらえた。霊力で清められた暖かい布団は、それだけで苦痛を和らげたが、長旅の疲れと水以外何も口にしていないこともあって、体調は悪化する一方のようだった。
 憔悴し眠りにならない眠りにさまよう不動を残し、円堂は襖続きになっている隣の部屋へ全員を集めた。
 蝋燭の灯された部屋の真ん中に金糸の織り込まれたこれも古そうな丈夫な橙の座布団が敷かれ、鬼道、佐久間、人形(ひとがた)に戻った源田がそこへ座した。向かい合って円堂と、風丸が腰を下ろす。
「で、つまり、アイツの病を治せってことか?」
 胡座をかき落ち着くなり、円堂が言った。鬼道が頷き、強張った顔を向ける。
「不治の病だと言われた。……昔、お前に万能薬の存在を聞いたことがある。対価ならばどんなことでもいとわない」
「へぇ……そっか、」
 円堂は鬼道を真正面からしみじみと眺め、ふと懐かしむように笑んだ。その視線はどこか試すようでもあり、探っているようでもあった。
「お前に会えて嬉しいよ、鬼道。やっと分かったんだな」
 意味深な言い方をする声色から察するに、円堂は心底感動しているようだった。それもそのはず、以前鬼道がここを訪れたのは遠い昔のことだ。それから見たら、今の鬼道はどんなにか変化が見られることだろう。
 実感の薄いまま赦しと深い慈しみとを受けて、鬼道はわずかに俯き身じろいだ。
「よし。鬼道、お前はもう十分対価を払った。だから、俺はお前の大事なもののために全力を尽くすぜ」
 佐久間と源田が安堵に控えめな笑顔を見合わせる。勿論、鬼道は納得できない。
「円堂……だが」
「いいって。俺はさ、ずっと、お前がそんな風になるのが良かったんだ」
 まだ何か言いたげな鬼道に有無を言わせず笑いかける円堂の横から、風丸が後を続けた。
「問題は、万能薬ってやつは人間にしか効かないってことだ」
「明王は人間の……」
 言いかけて、無用の言葉に口をつぐんだ鬼道に、円堂が再び笑いかける。天狗は妖怪やオニとは違い、一級の神通力を操る。不動が何者であるかなど、一瞥をくれただけで見抜いているだろう。
「明王って言うのか。そう、アイツは妖怪じゃないな。でも、人間でもない。薬が効かないとすると、方法はひとつだ」
「何かあるのか……?」
 佐久間が身を乗り出すと、円堂は頷いた。
「覚醒させるんだ」
 三人の誰もが眉をひそめた。不動には確かに神の血が流れているが、表だって能力があるようには見受けられないし、実際佐久間の千里眼であっても何一つ視えてくるものは無かった。精々、死んだ霊が見えるくらいのものだ。無言の問いに答えるかの如く、風丸が言う。
「普通、妖怪なら本格的に覚醒するのは二十四だ。半神の場合も同じだ。でもアイツが二十四まで命がある保証はない。だから、その時期を早める」
「そんなことをして、大丈夫なのか?」
 前代未聞の案に、鬼道が半ば叫ぶように尋ねた。風丸は深刻な面持ちでゆっくり息を吐く。問いには先に円堂が答えた。
「もちろん、そんな事無理だから、一時的に力をドバーンと引き出すだけだ」
「十年分ぐらいの力を引き出すわけだから、簡単じゃない。けど、何もやらないよりはマシだ。アイツの精神力、生命力に賭けるしかないな」
 風丸の説明を聞いて、畳を見つめる鬼道はそっと拳を握り目を閉じた。内蔵が縮んで、大きく深呼吸する。
「……他に道は無いのだろう」
 円堂は立ち上がり、鬼道の目の前に屈み込む。その静かだが不滅の炎が揺れる焦茶の眼は、何百年も根を張り続ける大木のようで、昔感じた根拠のない安堵を心のなかに蘇らせた。
「絶対に大丈夫だ! だから、心配すんな」
「……ああ。分かった」
 握った拳を包み込むようにして手を重ね、円堂は不動の寝ている部屋へ続く襖へ消えた。残った風丸が三人を、客間へ案内するため立ち上がる。促されて三人は従った。
「どのくらいかかるかは分からないが、回復の為の眠りから覚めれば、アイツはもう人間もどきじゃなくなる」
「神に近くなるのか?」
 佐久間が尋ねると、廊下に出た風丸は振り向いて答えた。
「今は半神の、さらに半人前みたいなとこだ。でも、自然治癒力を高めるために無理矢理に力を引き出すったって、さっきも言ったけどそれも完全な覚醒とは言えない。真の力を発揮できるのは、やっぱり二十四年を生きた魂と肉体で十六夜を迎えてからだろうな」
 言い終えるか終えないうちに、遠ざかろうとしていた不動の部屋からおそろしい声があがった。それはまるで腹わたを抉り出されるかのような、重く痛々しい苦悶の声だった。
「明王……っ!」
 一歩踏み出した鬼道の体を横にいた佐久間が引き留めるより先に、鬼道の肩を風丸の手が優しくだが強く掴んでいた。
「これはある意味、試練だ。アイツが自分で乗り越えなければいけない」
 落ち着いた声と眼差しに、鬼道は深い呼吸を一つ、頷いた。
 風丸の後について歩き出し、振り返る。廊下の端から、一拍置いて再び叫び声が聞こえる。佐久間と源田が両側から鬼道の背を支え、鬼道も二人の肩に両手を置いた。




続く







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