<夜明けの王と紅月の鬼 十九>




 言うまでもなく、影山零治は哀れなオニであった。
 彼がまだ髪を高く結い子供用の袴を穿いていた頃は、精霊たちと他愛ない話をするのが彼の日課であり、父と同じく隅々まで大地を豊かにしようと日々励んでいた。鍛練を怠らず、規律正しく、一人でどこまで歌を届けられるか父と競い、桜の花を愛でる、物静かで穏やかに笑う少年だった。
 ところが森が悲鳴を上げ、日常は崩壊してしまう。彼は純粋で一途な故に、無断で森を拓き始めた人間たちを誰よりも憎しみ蔑んだ。幾度となく人間たちを説得しようとしたが、欲望の権化のような領主を崇めていたため、誰も聞き入れなかったのである。
 妖怪たちと人間の戦が増え、尊敬していた父親を亡くし、憎悪は増した。誰も助けてはくれない孤独という現実を噛み締め、彼は泣き言を溢すよりも力を蓄え、憎悪を活力にして生き残った。
 人を喰うようになったのも、最初は偶然手に付いた血をほんの少し舐めただけだった。人間の血を吸うと肉体の力が増し脳が冴えたため、精霊が見えなくなったことにも気付かず、ひとり特別な光明を見つけた気分だった。影山にとって神聖なものはもう意味を成さず、勝利をもたらす力だけが唯一の宝だった。その孤独を造り出したのは誰でもない自分だと気づくには、彼の周囲はあまりにも残酷で凄惨だった。
 そんな中、照美が現れた。壊滅寸前の村で自分からオニになりたいと言ってきた幼い美少年は、操るのに容易く簡単に手に入った。影山は照美に己の血を注ぎ、そうして生まれたマオニは大した力があるわけではなかったが、人間たちは未知の新種と言うだけで心底恐怖した。それに照美は機転の効く世長けた部分を持ち合わせていた。若さと、それ故の傲慢さもあった。
 降伏させたら次の村、といった具合に少しずつ移動していくうちに、山奥にオニの集落が残っていると小耳に挟んだ影山は、切り札に照美を隠して集落へ近付いた。
 洞窟に潜み様子を見ていると、懐かしい歌声が聞こえた。その歌声の主が、かの鬼道有人であった。影山はこの幼いオニに、必要のないものを捨てさせ、舞うことより戦うことを覚えさせた。オニたちは力を欲していた。だが、本当に大切なものを捨てさせることを影山は戸惑い、混乱していた。それ故彼はより強く超越した力を求め、拠り処としたがったのである。
 照美が美しき天照ならば、鬼道は更に力も荘厳さも持ち合わせた須佐能だろう。なにもかもが完璧で、理想的に育て上げるのも時間の問題と思えた。
 その鬼道にとって影山は英雄であると同時に、鬼道を陰惨で空虚な闇に貶めた唯一の原因だった。死にゆく姿は弟子の目に大変勇壮に映り、それによって影山の魂は救われたということを、当の影山は永遠に知らないだろう。同時に、残酷な復讐の幕が上がったことも。
 ふと手を見ると、鋭い爪が並んでいた。なぜ師匠に教えられたからといって、慈しむべき人間の血など飲んでしまったのだろう。憎しみと嫌悪は表面だけにしか無かったと、今更になって知る。
 当時の自分は愚かで浅はかで、他人を信じすぎた。影山は自分に何を求めていたのだろう。これほど苦しむのなら、まだ意味の無い永遠に囚われていた方が楽に思えてくる。これが背負うべき業だとでも言うのだろうか。
 苦痛から逃れたいのなら、この爪であの柔らかい喉をかき切ってしまえばいい。元の生活に戻るのは容易いことだ。だが、彼にとっての選択肢は既にひとつに決まっている。鬼道は血を吸って硬くなった爪を時間をかけて噛み千切った。
 悠遠の時を過ごしてきて、やっと自分を理解しつつあるような気がした。円堂が言っていたように、例え明日全てを失うとしても構わなかった。その内面の変化は雪解けのようで、麗らかな息吹さえ感じられた。
 問題は、お互いに通じあっているかどうかだ。傍に居ると言ってくれたが、心中ではどう思っているのだろう。そもそも、少年はいつも、言葉が足りない。
 誰もが理想とするような関係にはなれない。それは地中深く根を張る大木のように、揺るぎない事実である。しかし体の繋がりなど、心の絆に比べたら動物的に単純で幼稚だ。心が通じてさえいれば、得るものは沢山ある筈。そう言い聞かせ、不安定な心を抱えたまま夜が更けていった。




***




 年頃の青少年が、恋慕の対象となる相手と紳士的に夜を過ごすのは容易ではない。それも、毎晩である。不動は寝る前に厠へ行き、自己処理をしてから布団に入るしかなかった。
 満足しているかと聞かれれば、即答はできないだろう。だが不動はこの関係と自分の中の想いには、きちんと整理して結論を出していた。だからこそ、布団を動かさなかったのである。そして、鬼道と同じ一枚の布団に寝ることもしなかった。鬼道も口には出さなかったが、恐らく理解していただろう。
 そんな夜を越えた朝、いつも鳥たちと共に一番に活動を始める佐久間が起きてこないのを不思議に思い、彼の部屋まで様子を見に行った。例の怪しい巫女のこともあり僅かに不安が胸を過ったが、そんな心配をよそに、布団には眼帯を外した無防備な寝顔があった。いつもは見れない表情に、物珍しさと好奇心が生まれてにやりと笑う。
「おい、いつまでも寝てんじゃねーよ」
「ん……」
 開いた障子から爽やかな日差しを受け、ようやく微睡みから目覚めたようだ。失態に気付いた佐久間が一気に体を起こすと、そういえば不自然に盛り上がっていた布団が捲れ、浴衣はどこへやら佐久間の白い腰に抱きつくようにして眠る源田の上半身がむき出しになった。
「やれやれ、お盛んなこった」
「き、貴様! なん……勝手に入るな!」
 寝惚けた目が覚め、すっかり取り乱した佐久間が源田を引き剥がす。何やら寝言をつぶやく幸せそうな阿呆面には、起きる気配がとんと見られない。顔面めがけて飛んできた枕を受け止め、不動は「あー」と面倒そうに言った。
「別に何でもないだろうがよ。どうでもいいから早く起きろっつーの」
 今にも爆発せんばかりに震える茹で蛸のような佐久間に枕を返して、不動は台所へ向かう。後ろで、源田を叩き起こす佐久間の声が聞こえる。
 夜中は何の音もせず今まで気付かなかったが、恋人同士であるなら至って日常的な風景だ。佐久間は気遣いや配慮に長けた男だが、恐らくここのところバタバタしていてご無沙汰だったためつい羽目を外し、夜が更けてしまったというところだろう。仲睦まじいのはどうでもいいが、食事の仕度が遅れては迷惑だ。しかし、ご無沙汰にさせてしまった原因の大半は自分にあるため、何とも言えないところである。それにしても、異性の裸体ならともかく、あんなに騒がなくともよい気がする。
「ったく」
 水を運び終え火を起こしていると、目をつり上げたままの佐久間が大股でやってきて、黙って米を磨ぎ始めた。
 燃え上がる炎を眺めていると、いつかの夜覗いた狐の腕と鬼道の白い肌が脳裏を掠める。不動は額を押さえ、溜め息をついて叶わぬ夢想を振り落とした。




 夕焼けの空を見ながらそろそろ飯の仕度を始めようかという時、不動が芋を分けていると、台所に佐久間が静かにやって来た。
 天狗の屋敷から帰った後は、不動はこの料理という実験めいた作業を気に入っていたし、佐久間は妙な矜持を譲らないので、結局、人数も増えたこともあり、朝夕二回の食事は寡黙な二人で用意するのが常になっていた。お互いに一番弱みを握らせたくないと思う相手だが、持ち前の手際の良さによって味はもちろん、効率が大変上がった。天狗の屋敷でにわかに打ち解けた成果が表れているのかどうか、佐久間はやや控えめな面持ちで口を開く。
「さっきは、その……見苦しいところを、……すまなかったな」
 歯に物が挟まっているような言い方に、思わず不動は吹き出す。
「別に。迷惑かけないで静かにしてりゃ何してようと文句はねえよ」
 佐久間は自分が気になっていた事を言えて安堵したのだろう、ふーっと息を吐いて棚から飯碗を手に取った。
「お前も謝ったらどうだ」
「は、なんでオレが?」
「おれと幸次郎の人権侵害に関わる」
 淡々と言う声には、どこか羞恥が隠れている。不動は手を止めて面白そうに振り向いた。
「断ったらどうなる」
 同じく振り返った鳶色の片目が、ひねくれた分からず屋を睨みつける。
「ただじゃおかない」
 吐き捨てるように言い残して、佐久間は足音も荒く外へ出ていった。
 先程までの楽しい気分はどこへやら、不完全燃焼から生まれた余計な感情を抱えて、不動はため息をつく。馴れ合いは御免だが、険悪なまま拗れるのはもっと面倒だ。自分の失敗を探りながら、不毛だと気付いて芋を置く。
「かわいい奴だろ」
 佐久間が開け放した勝手口に寄りかかり、源田が笑っている。
「のろけ話は他所でやれ」
 不機嫌に返すと、源田が苦笑するのを視界の端に見た。
「おーおー、熱でぶっ倒れた誰かさんを運んでやったのにな。仲良くしようぜ。ちゃんと掴まってくれないもんだから、落ちないように歩くの苦労したんだぞ?」
「蒸し返すたあ、器の小せぇ犬っころだな。礼はしたろ」
 芋を洗いながら答えると、源田は笑って返す。どこまでもおおらかで、能天気な調子につい乗せられてしまう。
「あれで? つか、犬っころは無いだろ。俺には源王ってイカした渾名もあるんだから」
「へぇ。せいぜい番犬どのがお似合いだぜ」
「お前、その口の利き方、何とかならないのか? 誤解されても仕方ないぞ」
 佐久間が去って行った方を親指で指し、源田は困ったように笑って言う。不動はそれには取り合わず、他人事のようにため息を一つ吐いて、洗った芋の皮を剥く。
「……で、番犬どのはわざわざ何しに来たよ? くだらねぇ説教しに来たんじゃねぇだろ?」
 源田は頭を軽くかいて、ここへ来て初めて目を逸らした。
「感謝してるって言いに来たんだけども。歓迎されてないみたいだな」
 予想外の単語に、不動は手を止めて振り向く。苦笑する源田の茶色い髪の輪郭が、背後から夕陽に照らされて黄金に輝いている。
「感謝ァ? なんのことだよ」
「最初は疫病神かと思ってた。でも、鬼道さんを笑わせることができたのはお前のおかげだ」
 優しい表情に、妙な感慨に包まれる。
「ありがとな」
 小さく肩をすくめ、不動は芋の皮剥きを再開した。
「……薪割り頼むわ」
「なんだよ、犬使い荒いな」
「ごちゃごちゃ言うんじゃねぇよ。鬼道さんが湯浴みすんだからさ」
「へいへい、分かってますよ、お頭」
「誰がどこのお頭だよ? つか、今、自分でも犬だって認めたろ?」
 ふと気付くと、源田の笑い声が夕暮れの台所に響いていて、つられて自分も笑っていた。
 戻ってきた佐久間が怪訝なしかめ面で、すれ違いに外へ出ていく源田を見たが、彼の頭をぽんと撫でただけで源田は行ってしまった。
 納得するための材料が足りず不満げな佐久間に「悪かったよ」と言ってやると、息を吐いて不動を見てからいつものように黙々と料理を始めた。少しだけ微笑んだことは不動も気付かなかったが、背中に当たる雰囲気が柔らかくなったのはよく分かった。
 外で斧が薪を割る爽快な音が響いている。台所に立つことに違和感がなくなったように、この個性的な住人たちともうまくやっていけそうだと、不動はいつの間にか僅かに口元を緩ませた。




***




 霧の中を吉良瞳子は歩き行く。彼女には燃えるような信念があった。それはさながら何年もの時を経て削り出された岩のように大きく強い意思だが、一点を突かれれば全体にひびが入り崩れ落ちてしまう穴が空いている。その穴を必死に埋めようとして焦る心に付随するかのように、瞳子はその足を動かす。
「そろそろ日が暮れます、休む場所を見つけましょう」
 部下に言われて初めて肉体の疲労を実感した瞳子は、ちょうど行く手に岩と岩の間に隠れ家のごとく空いた浅い洞窟を見つけ、天からも休めと言われている気がして、大人しくそれに従った。
 洞窟は暗く静かで、落ち着いた。しかし翌朝になって陽光の明るいなか、瞳子は一本の赤い筋を見つける。
「これを見て」
 部下の手に乗せたそれは、朝日にきらめく燃えるような赤の毛髪だった。そして彼等はそれを、見慣れていた。
「近いですね」
 褐色の肌に銀髪の男が感情的に言う。
 青白い肌に黒髪の男が沈着に頷いた。
「ここからずっと東へ行って、川を渡ると小さい村があります。情報があるかもしれません」
 見渡すと、入り口付近に小さな動物の骨が積んであった。古いものに重なって、いくつかはまだ新しい。
 瞳子は立ち上がり、洞窟を出る。生真面目で厳めしい表情をした二人の部下がすぐ後に続く。爽やかな朝の木漏れ日を浴びながら、彼女は重く陰惨で、しかしやっと見つけた手がかりに歓喜していた。それは凶悪な喜びだった。
「独りではないのね、ヒロト」
 何本も重なった新しい骨と入念に隠された焚き火の痕跡から、それらを残したのが狩猟を知らない町屋育ちの少年だけとは考えられない。瞳子はひたすら前を睨み、明るすぎてかえって暗鬱な己を強調するかのような森の中を進んでいった。




続く







戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki