<夜明けの王と紅月の鬼 二十>




 真夜中、ふと目が覚めた。理由は鬼道の荒い呼吸だと、すぐに気が付く。不動が起き上がって覗き込むと、逃げるように布団を被ろうとした。しかしどこか朦朧として覚束ない手つきを押さえ、不動は闇のなかで真紅の光を探す。
「旦那? どうしたよ」
 震える手が不動を押しやる。「来るな」とも口にできないほど苦しんでいる鬼道の様子をなおも知ろうとして、頬に触れた手を掴まれた。
 やけに眼が光っているように思った、次の瞬間押し倒され、鬼道の爪の短い手が不動の喉元を押さえていた。だが苦しくはない、なぜなら、その手は弱く、迷っていた。言葉を発しなかったのは、そのためだったらしい。震えはどちらかと言うと、怒りがこもったものに感じた。
 目の前に餓えた牙が見える。今にも噛みつかんばかりにして、口を開いているからだ。不動は深く息を吸い込み、じっと、半ば茫然と眺める。
 だが、鬼道はもう震えてはいなかった。喉元の手をそっと滑らせ、撫でるようにして、離れていく。
「すまない……」
 消え入りそうな声に、不動はその手を掴まなくてはと焦った。不安にさせたままではおけない。
 恐怖はないと言えば嘘になるが、この気高く強い芯を持つオニはもう自分を傷つけられないと、心のどこかで訳もなく思い込んでいた。自惚れもあったが、実際にそれは正しかった。
 そしてまた、恐怖の中に激しい情欲を感じたことも不動を悩ませた。
「なあ、本当にこのままでいいのかよ?」
 自分の布団に倒れ込むようにする鬼道に、静かに問いかける。
「いいんだ。……何も言うな」
「当事者に向かって何も言うなは無理があんだろうが……」
 すっかり呼吸も落ち着いたらしい鬼道は、小声で呟いた不動の方を向いて、謝るようなすがるような声で言った。
「――明王、今のは、」
「大したことないならいいけど」
 ただの隙間風じゃないか、とでも言うような調子で布団に戻る不動を、先程よりもやや強く、はっきりした声が止めた。
「明王」
 薄闇に目をこらさずとも、伸ばした白い手が見える。取ると少しだけ引き寄せられた。来いと言っているが、拒否する選択を残しているのだ。不動は困惑する。
「なんだよ、無理すんな」
「それはこちらの台詞だ」
 どうやら、選択するまで諦めないらしい。
 不動は手を離し、自分の布団に潜り込む。鬼道は当然の選択だとでも言うように、気付かないほど少しだけ悲し気に息を吐いて、手を引っ込めた。
「ん」
 並べた布団の継ぎ目に片手を投げ出して、不動は喉の奥で呼ぶ。
 少し躊躇ってから鬼道がそっと手を重ねると、顔を背けた。鬼道はふっと笑う。
「落ち着く」
「本当かよ」
 全く手のかかるオニだと苦笑し、ため息をついて不動は目を閉じる。
「……この期に及んで、嘘は沢山だ」
 少しだけ指が折り曲げられたので、折り曲げ返す。最終的にしっかりと繋がれた手の中は、布団からはみ出していても温かかった。




 早朝の気温が下がってきた。不動は雑巾を絞った手を擦り合わせる。佐久間が起きる前に、床掃除を終わらせてしまいたい。何か一つでも傑出したくて、それでいて密かな努力を好む不動は、きわめて静かに働きだした。数日前から始めた早朝の掃除に限らず一日中、誰も気付かないようなところで鍛練するのが気に入っていた。
 それというのも、鬼道を驚かせたいという願望の表れである。
 触れても痛みしか生まないと分かっているのに、繋いだ手を離せなかったのは、鬼道の不安が手を通して伝わってきたからだ。
 どこかで諦め妥協しなければ成り立たない。精神の悟りを開けば煩悩など消え失せると、どこかの心理学者がやたらと堅苦しい言い回しで記した書を思い出す。
「馬鹿みてぇ」
 呟いて、汚れた雑巾を眺める。
 実際、鬼道の傍にいられる事以外は、既に殆ど些末な事だった。
 不動は常に苛立ちを抱えていた、しかし既に飼い慣らしていた。彼は焦燥と憤慨の中で苦悶していたが、それらは全て鬼道が現れるたびに恍惚の炎に溶けていった。
 鬼道が歩く度に起こす一瞬の風に頬を傾け、その凛々しさすら漂う微笑みの中に春の陽光を見た。性も種も超えた布団の継ぎ目の上で朧気に感じたものを、彼は今やはっきりと自覚したのだった。
 先日不動が寝転がって書を広げていると、鬼道が通りすがり、だらしがないとたしなめた。適当に返してそれでも素直に起き上がり身体を伸ばすと、読んでいた書について聞かれたため、自己流の感想を思うさま伝えた。歴史の中で扱われた戦術の書だったのだが、凡人なら気付かないような視点から小さな穴を突いたのだ。すると鬼道は珍しく声をたてて笑った。「まったく、面白い奴だ」そう言って、行ってしまった。その時はただ驚くばかりで、自分の中に起こり始めた変化など気にも止めなかったのだ。
 佐久間が起きたらしい、遠くに声が聞こえている。
 不動は冷たい陰と暖かい朝日とを同時に浴びながら、茫然と座っていた。汚れた雑巾の向こうに、磨いたばかりの床板が光っていた。




***




 雲の流れる午後の空の下、不動は竹刀を持って素振りしていた。武術に集中している間は、他の事を考えずに済む。
「明王、相手してくれないか?」
 そこへ近付いてきたリュウジは、若葉色の長髪をいつも高い位置で結って澄ました顔をしている。
「ああ。いいぜ、来いよ」
 距離を取って向かい合い、竹刀を構える。掛け声と威勢は良いものの、数ヶ月とは言えしっかりと鬼道に教え込まれた太刀筋には敵わない。すぐに一本取ってしまい、不動は呆れた。
「んだよ、手応えねぇなぁ」
「もう一度だ!」
 意気揚々と構え直すリュウジを見て、不思議な心地がした。楽しそうにしているのだ。その相手をしている自分もまた、いつの間にか面倒ではなくなっていることに気づく。以前ならばこんな場合は、既に相手にもしていない。
 何本目だろうか、流石に息が切れ始めて、二人して地面にしゃがみ込む。
「あれ! 何やってるの、二人で」
 廊下の奥からヒロトと源田が歩いてきて、二人を見つけるなりヒロトは走り寄って来た。
「見りゃわかんだろ」
 不動が疲れきって言うと、源田がヒロトの隣に立った。
「偉いな、二人とも。じゃあ今度は俺が相手になるぞ」
「やった!」
 何が嬉しいのか、ヒロトとリュウジはすぐに身構えて竹刀を真っ直ぐ源田に向ける。
「さあ、どこからでもかかって来い!」
 僅かでも訓練を積んできた不動に比べて、二人は明らかに力が不足している。健康で体力はあるが、戦士には向いていないらしい。それでもがむしゃらに向かっていったのを腕で受け止めまとめて吹き飛ばし、源田はやれやれといったていで唸った。
 ヒロトとリュウジは尻を擦りながら起き上がり、あろうことか再び源田に向かっていく。それを何度か繰り返し、諦めの悪い二人もさすがに汗だくになって倒れ込む。
「降参!」
「もう無理だよ、源田」
「なんだ、もう終わりか? じゃあ次はお前だな」
「オレは……」
 傍観していた不動に鉢が回ってきて、面倒だし疲れたと断りたかったのだが、源田が一声吼えて狼へ変化したので有無は言わせてもらえなかった。ヒロトとリュウジが目を見張り、口々に抗議する。
「うわ、卑怯だ!」
「それ有り?」
 変化した源田は、大人ひとりが乗れるほど大きい。そんな狼に牙を剥かれ目の前で威嚇されては、怖くないという方が異常だろう。
 だが、不動の闘争心を煽るという点においては、効果覿面だった。
「へぇ、どうした? 忠犬。お前が来いよ」
 源田はゆっくりと不動の周りを踏んで、唸っている。動く気がないならどうするべきか考え、不動は一歩踏み込んだ。一瞬で、源田が目の前に現れ、
「自分の力量に見あった口をきくんだな」
「くっそ……!」
 間一髪で、自分を凪ぎ払おうとした前足を避けた。
 構え直す間もなく、次の攻撃が来る。避けきれず竹刀で防いだが、圧倒的な力で押し折られてしまった。折った勢いで出来た隙に飛び退いて間合いを取ることはできたが、武器がなくては話にならない。
「降参してもいいんだぜ」
 狼を睨み付け、不動は素手で構える。動じない様子に感心して、源田は少し唸った。笑っているような口の間から、剥き出しの大きな牙が見える。受け身をどう取るか計算していると、源田が今にも飛びかからんばかりのところで、声がかかった。
「そのくらいにしておけ」
「鬼道さん!」
 いつの間にか縁側で見物を決め込んでいたヒロトとリュウジが、現れた声の主を笑顔で見上げる。鬼道がどんな顔をしているか見る前に、源田が飛びかかってきて結局地面に倒されてしまった。
 マオニ達の笑い声の中で、頬を舐める狼をやっとのことで引き剥がし立ち上がった時には、もう鬼道の姿は無かった。
「よーし、腹減ったろ? 佐久間を手伝いに行け」
 源田に向かって酷いだの疲れただのと文句を言いながら、ヒロトとリュウジは立ち上がった。不動は土埃を払い、折れた竹刀を拾う。気付けばすっかり日が傾いている。
 三人の後について台所へ向かいながら、鬼道がさっきどんな顔をしていたのか思いを巡らせた。真剣勝負ではないことなど分かっていたはずだが、止めた声は妙に硬かった、それが気になっていた。




***




 ところで庭は酷い有り様だった。不動は特に気にした事はなかったが、元々から既に芝はまばらになっていたとはいえ、所々疲れきった土が露出してしまっている。花が咲くどころか土竜さえ逃げ出すような、とても美しいとは言えない庭だったが、天狗の山から帰ってきてみるとその荒廃ぶりは拍車がかかったようだった。太陽が照らし出すには哀れで、恥辱とそれ故の歯痒ささえ感じる。
 その真ん中にリュウジが一人佇んでいるのを見かけ、不動は屋根の内からそれを眺めていた。彼が振り返る前に顔を背けようという計画に気を取られていたので、後ろからヒロトが現れたことに気付くのが遅れてしまった。
「リュウジは森や大地のことが大好きなんだ。僕は空やお星様」
 読みかけの書は落とさずに済み動揺したことは恐らく悟られなかったはずだが、ヒロトは不動のことなど意に介さず口を開く。
「どっちもよく見えないなんて、さみしい所だよね」
 言うべき言葉も特に無く黙っていたが、ヒロトは不動と違って干渉を好むらしく、聞いているかどうかも構わず勝手に先を続ける。
「鬼道さんはどうしてこんなところに住んでるんだろう。君が来た頃からこんな?」
「……いや」
「おかしいなあ」
 それきりヒロトは考えに没頭してしまい、有難いことに喋らなくなった。不動はそっと立ち上がり部屋を離れる。
 鬼道から断片的に聞いた話が無くとも、よく見ていれば主人の調子と植物たちが関連しているのは明らかだった。自分が苦しめているのではないか、そう考えるようになった不動は自然と、以前よりも一人でいることが多くなっていた。




***




 北風が吹くようになっても、鬼道は縁側のいつもの場所で少しずつ酒を飲む。ただの嗜好品と言ってしまえばそれまでだ。最初は好奇心からだったと言っていたが、唯一旨いと思えるものであったこともありいつしか習慣になったらしい、こうしている時間が気に入っているようだった。
「寒くないか」
 佐久間は側へ近付きつつ言った。鬼道は三日月を見上げたまま微笑む。
「そうか? お前の酒が旨いからかな、気にならない」
「嬉しい」
 照れたように笑んで、佐久間は隣に腰を下ろした。
「随分、変わったように感じるよ」
 その言葉に、鬼道は佐久間に視線を移した。佐久間は静かに続ける。
「なあ鬼道さん。俺はもう、何も言わない。いや、言えない……だけど、どうなんだ。実際のところ、今はどういう状態なんだ?」
 鬼道は暗い藪の方を眺め、逡巡する。
「いや、分かってるだろうけど、結界を張ってない今は色々な面で危険だ。俺と源田だけでは、気配を察知することしかできない。だから……」
「おれはきっと、元に戻ろうとしているんだと思う。子供の頃――森と共に生きていた、おれが大地の一部だったあの頃に」
「鬼道さん……」
「今は不安定で何もできない。戻れる確証なんてないし、幻想かもしれない……だが、感じるんだ、真っ暗なおれの内(なか)に宿った光を」
「……あいつのおかげ、か」
 佐久間はどこか自嘲気味に、うっすらと悲しげな微笑を浮かべた。それでも彼は歓喜していた。その肩に片手を乗せ、鬼道は言う。
「お前たちのおかげでもある。……迷惑ばかりかけてすまない」
「いいよ。おれは鬼道さんに雇われた時、何もかも捧げると誓ったんだ」
「ありがとう」
 飲み干した猪口に、佐久間が酌をする。
「――明王が嫌いか」
 静かな問いだったが、鬼道の声にはどこか申し訳なさそうな、一種の不安とも言うべき色が含まれていて、それが自分たちを思ってのことだと知る佐久間は、思わず微笑んだ。
「いや? まあ確かに時々、あの偉そうな態度に物凄く腹がたつし、無礼だし、わざわざ仲良くしようとは思わないけど」
 鬼道が考え込んでしまったので、佐久間は慌てて先を続ける。
「鬼道さんがどんな風に思ってるかはよく分かってるから……、わざわざ傷つけたりはしない。嫌いってほどじゃないよ」
 赤い瞳が真偽を伺い――と言ってもほんの僅かな間だったが、そして柔らかく笑んだ。佐久間は望んだ結果に満たされるのを感じ、自分の心の内から醜悪なものや悲壮なものが消えていくのを感じた。
「飲め」
「え、でも。まだ縫い物が終わってないし、そろそろ布団も……」
「今日くらい良いだろう? たまには肩を楽にしろ」
 それは以前の貴方に言いたい、と言いかけて口をつぐみ、佐久間は喜んで盃を受け取った。




続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki