<夜明けの王と紅月の鬼 三>
初夏の空に満月が輝く。鬼道は寂寞と混沌で出来た闇を射る青白い光を避け、焦る心に逆らうがごとくゆっくりと廊下を進む。
僅かに軋んだ床板の音など、眠りの世界に深く沈んでいる少年には届かない。布団をかけず、庭の方を向いて横たわる姿は、この蒸し暑い夜には自然な格好だ。
それでもこの少年はただの人間ではない。念のため気配を消して、鬼道は膝を畳に着け、片手を伸ばした。尖った爪先が喉に触れる前に、躊躇を感じた。布団が汚れる、餌にはならない、労力がかかるなど、様々な理由を当て嵌めてみたが、どれも納得がいかない。何をしにここへ来たのかさえ、最早定かではないのだ。かといって、喰えない者をわざわざ殺めることに、今更罪悪感があるわけでもない。
それでも感じる躊躇の理由が分からず、憤慨と自嘲と困惑を抱えて、鬼道は立ち上がった。真夜中の庭でクビキリギスが鳴いていた。
鬼道は笛や蹴鞠を与え、いつもやや離れた所から不動を眺めていた。
それはいつの間にか、監視から観察に変わった。だが一向に鬼道の思惑は不明のままだ。
今まで知らなかったことを知り、好きなもので好きなように過ごすのは面白く暇潰しにもなったが、意味が不明のまま毎日を過ごすのは誰とて気味が悪い。尋ねるべきか躊躇しつつ曖昧な自由を弄んでいると部屋に呼ばれた。
「明王、読み書きはできるか」
「はァ? 知るわけねぇだろ」
「教えてやろう」
そう言って渡された書とやらは見たこともないもので、不動は面食らった。
「こんなの、訳わかんねぇよ」
怪訝な顔で見上げると、鬼道は隣に腰を下ろし机に紙と筆を用意した。
「お前は賢い。簡単だ」
必要かどうかよりも、興味があった。ひたすら鬼道の言う事を聞いているだけだったが、不動はすぐに平仮名や漢字を覚え、それを便利なものだと思った。
手が墨だらけになるのも構わずわざわざ面倒な事を教えようとしたのは鬼道の矜持が、暇を意味無く過ごすことと阿呆を許せなかったからである。それに、伸ばせば伸びる素質を無視することも、彼の流儀ではなかった。実際、不動は予想通り器用で賢い頭脳を持っていた。
月は厚い雲に覆われ、薄暗い縁側で鬼道は猪口を傾ける。与えられた龍笛で好き勝手に奏でながら、オニも酒を飲むのかと驚いていると、鬼道が呟くように言った。
「笛がうまいな」
吹くのをやめて、側に行き酌をする。意図的なのか、遮断された結界の中でもエンマコオロギの切なげな音色が聞こえた。
「なあ、オニさんよ」
「……有人だ」
「じゃ、有人の旦那。……なんでオレを生かしとくんだ?」
奴隷でもなければ、餌にもしない。ずっと感じていた疑問を口にすると、鬼道は少し考える素振りを見せた。
「そうだな、……いい加減、疲れたんだ」
「答になってねえよ」
面白がっているのか、しかし酔ってはいないようだ。
どうしたら自分がここにいる意味を教えてくれるのか思案していると、ふと額に、冷たく尖った爪が微かに触れた。
「夜明けの王は美しいな」
おかしな事を言う。美しいのは貴方のほうだ、と不動は眉をひそめる。鬼道は無表情のまま目を細め、見えない月を見上げて酒を口へ運んだ。ああ、そうか。と不動は思う。
――このひとは、淋しいのだ。
空になった猪口へ、また酌をしてやった。割れた雲の隙間から、月の光が射し込んだ。
なぜ生かしておくのか。そればかりか、記憶を消すことさえ造作もない筈なのに、なぜ側に置いておくのだろうか。自分でも分からなかった。捨てておけばいい、と佐久間に言われたが、その通りだ。
オニは老いることもなく、寿命も無い。刀で首をはねられたり、八つ裂きにされない限り死というものはないのだが、神の力は別だ。本来オニは神同然の存在であったが、現在のオニたちは――鬼道以外に生き残りがいるかどうかは疑問だが、その身を人間の血によって穢してしまったため、神聖な力の前では妖怪同然の扱いになってしまう。それどころか、天敵、特効とでも言うべき真逆の存在である。
なぜ今頃になって神の子が森へ現れたのかと疑ったこともあったが、どうやら少年は眠っている大きな力について気付いておらず、自分が誰であるかについてはこだわっていないようだ。不動はただ、怯えもせずに、黙って出鱈目に笛を吹いた。
久方ぶりに妖力を満たし真夜中に帰った時、迂闊にも汚れたままの姿を不動に見つかった。お互いの顔がかろうじて判別できるほどの暗い廊下でも、着物の白い部分にべったりと付いた黒ずんだ汚れは判別できる。目を見て言いたいことが分かったのだろう、不動は顔を背け何事も無かったかのように部屋へ戻ろうとした。
「明王、」
「別に……誰が喰われようと、オレを喰おうと、構いやしねえよ」
その後ろ姿にかけた言葉は、下手くそな言い訳に聞こえた。
「病で、もう長くなかった」
「……へぇ」
不動は襖を閉め、廊下に静寂が戻る。言い訳などする必要すらなかった、筈だった。
乾いた血まみれの着物が、花弁が舞うように衣擦れの音を立てて畳に落ちる。着替えを手伝う佐久間が、苛立っているのを感じた。
「なんだって、こんな面倒な事を……」
文句を言うのは勿論着物が汚れたことではなく、わざわざ獲物を選んでいることに対してである。
「佐久間」
「分かってる。でも鬼道さん、」
一瞥して、それ以上は黙らせた。佐久間の隠れているほうの目は、見えないものが視える。霊魂、気配、妖力の軌道、人間の寿命。狩りに出る時は、佐久間を連れていって、丁度良い人間を探させた。今日も、そうだ。
「もういい」
自分は何をしているのだろう、と思う。物言いたげな佐久間を下がらせ、浴衣の帯は自ら締めた。頭のなかに、混沌が生まれる。抑えきれない感情が溢れだし、鬼道は外へ出る。月は無く虫も鳴かず、ただ無言の暗闇が広がるばかりで、普段はこんな夜が好きなのに今は苦痛に感じた。
醜い己が浮き彫りになるのを恐れている。何処か休める場所、何も考えないで済む場所を求めて、鬼道は森へ入って行った。
冷酷無比で残忍な最強のオニ、たった一人の生き残り。何百年という時のなかで、孤独であることさえ忘れた筈。だのになぜ、たった一人の小僧に心を乱されるのだろう。まさか、それが神の力だとでも言うのだろうか。
何時間歩いただろう、気がつくと、空が白み始めていた。半ば無意識にたどり着いたのは山の上の古い寺で、ここにも既に何百年、人間は住んでいない。
門をくぐると、一人の男が待っていた。鬼道を見て端整な顔に笑みを浮かべる、その切れ長の眼は漆黒に輝き、銀の髪の隙間からやや黄色味を帯びた白狐の耳が覗いている。
「どうした、珍しいじゃないか」
「豪炎寺……」
よろめくように近づいて、深紅の着物を掴んだ。明らかに、自分はおかしい。不安を隠すように、声に誘惑を込めた。
「泊めてくれ」
豪炎寺は返事の代わりに、鬼道の肩を抱き寄せた。
部屋に染みついた古い線香の匂いがわずかに漂っている。いまだ微熱を含む心地好い気怠さに身を任せながら、寝そべる豪炎寺の腰からふさふさした白い尾が揺らめくのを眺めていた。
「……で、何があった?」
唐突に訊かれ、やはり見抜かれていたか、と鬼道は苦笑する。朝陽の橙色の光が、豪炎寺の髪を暖かみのある銀へ染めてゆく。逞しい胸に頬を擦り寄せ、鬼道は深く息を吐いた。その頭を、豪炎寺の手がそっと包む。
「あんな格好のまま夜通し歩いてこんなところまで来るなんて、よっぽどのことがあったんだろう」
脱いだ浴衣はどこへやったか、布団の間にしわになっているだろう。ゆっくりと、まるで恋人のように優しく頭を撫でられ、鬼道は答えに窮する。
「なんと言えばいいのか、分からない……」
本心だった。だが、有り難いことに豪炎寺は、それ以上この話を続けようとはしなかった。諦めに小さく息を吐き、困ったように笑む。その顔が昔からとても好きだった。
「厭なことは全部忘れていい」
背が布団に押し付けられると同時に、今日何度目か分からない接吻によって再び恍惚感を味わう。だが、先刻から胸の奥深くで疼く違和感が、今まで幾度となく繰り返してきた行為とは、どこかが違うと訴えている。何度も何度も甘く重ねられる唇がひどく虚しいことに、鬼道はまだ気づけなかった。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki