<夜明けの王と紅月の鬼 二十一>
不動は縁側に腰掛け、適当に笛を吹いていた。長く、かすれながら空気に融けていくような単音は、どこか叙情的に鼓膜を震わせる。やがて気まぐれに節が現れ、唄になっていく。その音色に、陽炎のように揺れる熱情と切ないほどの悲哀とをのせて、不動は無心に奏でる。
心を動かされた、と言う月並みな表現では足りない。積もり積もったものが溢れ出て、半ば無意識に体が動いていたとも言えるが、それだけでもない。
鬼道は不動の横を通って、今や露出した土と枯れた苔ですっかり茶色くなってしまった庭へ下りた。満月が真上に輝き、まるで昼間のように明るい。
すっと、片腕を真横に伸ばした。ゆるやかに、空を掴み、風を切り、くるりと回って鬼道は足を踏み出す。笛の音が途切れ、振り向かずに鬼道は言った。
「続けろ」
不動は何か言いたげに沈黙した後に、諦めて再び笛を構えた。まだ驚きと戸惑いと色々なものが混ざっていたが、しばらくして先程まで残っていた無気力さも消え失せ、儚くも力強い澄んだ音が漂ってきた。
時々かん高く上がり、かと思えばかすれて消えていく笛の音のなかで、鬼道は一歩ずつ庭を一周するように踏み出した。流れたゆたうように、鬼道の両手と両足がゆっくりと、穏やかに厳かに空気を切る。衣装も扇も、赦された力もない。だが、この土地でずっと見守ってきた主の真摯な姿に、彼らは応えた。鬼道が踏んでいった土からは小さな芽が無数に顔を出し、木はざわざわと葉のない枝を揺らした。
その光景を目にしたヒロトとリュウジが、小さく歓声をあげて庭に下りてくる。二人が見よう見まねで後をついていくと芽は一気に伸びて、萩が茂った。鬼道は立ち尽くし、枝を揺らす木々を見る。胸がいっぱいで、到底言葉が見つかりそうになかった。
「すごい……!」
この涼しい秋には葉こそ出さないが、枝を揺らして応える木々に抱きついて、リュウジは幹に頬をすり寄せる。ヒロトも辺りをくるくる回り、目を輝かせて鬼道を見上げた。
「鬼道さん!」
「――ああ。これこそが、オニの力だ」
その頭にぽんと手を乗せ、鬼道は微笑む。その姿は彼の師匠が彼にしたのと同じ様だったが、教えることはまるで違った。
「お前たち、今のを忘れるな。ただ踊るだけでは駄目だ。感じただろう? 森を思う気持ち、それが大切なんだ」
「はい!」
「僕らと、お月様と、森のみんな」
「みんな、繋がってるんだな、ヒロト」
ヒロトとリュウジは見様見真似で舞いを始めた。鬼道には見えないが精霊が現れたらしい、二人は宙を舞う小さな友達に触れ合い、笑いながら右へ左へと、厳かに楽しげに手を回し足を踏む。
不動がそれを、好奇心と驚愕の混じった目で見ていた。
「旦那、いまの、」
鬼道は重そうな足取りで縁側に戻り、不動の隣に腰かける。
「続けてやってくれ」
不動は怪訝な顔を向けたが、すぐに再び吹き始めた。彼にも精霊が見えているはずだ。
笛の音と共に、月明かりが照らす庭で、少年たちは舞う。大きな安堵と、重荷が取れた感覚に、鬼道はため息をついて微笑む。隅に立つ咲かない梅の木も、喜んでいるように見えた。
寝込んだり留守にしたりしている間に荒れ放題になってしまった小さな畑は、何とか手入れをして整えた。早朝、不動は誰も見ていないことを確かめてから、その側にしゃがみ込んだ。目の前には一畳分の地面が耕されていて、中には食べ頃を過ぎ芽が出てしまった芋や大根が埋めてある。土に両手をついて、不動は目を閉じた。腹に力を入れ、全神経を両手に集中させる。送り出すような流れを意識して、深く息を吐いた。
しばらく、そのまま静止する。風が吹いて髪を揺らした。不動は目を開けた。目の前の風景は何一つ変化しない。さらにしばらく、待ってみた。やはり、何も起こらないどころか、精霊も姿を見せてくれない。
「くっそ……」
目に見える変化を待つ前に、手応えが全く無いことで結果は明らかだった。不動は立ち上がり、乱暴に手に付いた土を払う。憤りに頭が割れそうだったが、自分を抑制できないことを彼は何よりも恥じていたため、深く息を吐いて実らない畑を後にした。
***
不動明王は善にも悪にも成りうる魂を持っていた。神の子にしてはひねくれ荒んでいた。しかし人間にしては、およそ人間離れしていた。
鬼道はふと見れば楽しそうに笑いふざけじゃれあうマオニの二人を眺め、同じ年頃の筈なのに不動は同じように笑わないなと思う。生まれながらにして見てきたものの温度が彼の目に映っている。傍観と支配を好む冷ややかな目は、時として飢えた獣のように光った。
落ち着いてどこか大人びた風な物腰は、少年たちと空気を隔てていた。それは意図的な上に、彼が生来持つ排他的な空気だ。だが、目立たぬ静穏と同じくらい、凄惨な狂気が潜んでいる。いつでも狂気は不動の全身を覆い尽くし、凶悪になり得るのだ。
彼はもう屋敷の蔵書を読み尽くしてしまい、鍛練も欠かさず十分に上達した。傍から見ても、充実感のある日々を過ごしているように見受けられる。だがひとつ大きなものが欠如していた。
不動は他人に自分から近付くことを恐れている。それは自己嫌悪も含まれていたが、多くは慈愛に慣れていないせいで無意識に不信になっているためだった。
縁側にその姿を見つける。庭の奥に広がる藪を睨み何事か思案しているらしい、やけに真剣な目付きで胡座に頬杖をついていた。その顔は幼さと青さを残しつつ、徐々に大人びて精悍さと逞しさ、そしてそこから派生する色香が微かに漂い始めている。
ゆっくりと近付く鬼道を、顔を上げて一瞥し、特に急用ではなさそうだと判断すると、再びもとの格好に戻って頬杖をつく。妙な感慨とも言うべき、むず痒く甘い感覚が鬼道の胸の内に拡がる。退屈に混迷した何も無かった日々からすれば、こういうちょっとした己の変化がやけに大きく思え、またそれを見つけるのが楽しいとさえ感じた。
なかなか立ち去らない鬼道を再び振り向いて仰ぎ見ると、不動は先ほどからあった奇妙な沈黙をそっと破った。
「何?」
訝しげな翠の眼にぶつかる。鬼道は柱に肩を預け、腕を組む。
「焦らなくていい。おれはお前を信じている」
自分でも不思議に思った。どう聞こえるか、何を意図したかなど、後のことを考えずに発言したのはごく久しぶりだった。不動はさらに顔をしかめる。
「なんだよ、急に……」
「あ、いや」
誤解を招く前に収拾をつけなければ、と慌てて口を開いたが、適当な台詞が出てこない。
「……見てたのかよ」
不動は何かに思い当たったのか、小さく舌打ちして立ち上がった。
「なんのことだ」
「そりゃ、こっちのセリフだ。オレのことは放っとけよ」
「ちがう、」
立ち去りかける不動の肩を掴んで振り向かせ、困惑の中から這い出そうとした。どうやら難しい。
「明王、おれは……」
言葉を失ってしまった鬼道の横を通り抜け、不動は黙ったまま行ってしまった。残された鬼道はその背を眺め、思慮に眉を寄せる。
隣の部屋ではまだ、ヒロトとリュウジが笑い声や歓声をあげて何かしていた。
***
源田の日課は朝昼夕の付近の見回りと、夜中の警備である。鬼道が結界を張らなくなってからは、彼は今までよりも更に慎重に時間をかけて屋敷の外を回っていた。
どこか遠くに何かの気配を感じるような気が、数日前からしている。結界が無いという不安からの緊張が原因で、そんな風に思いすぎているだけかもしれない。靄(もや)がかかったように見通しが悪く、佐久間も毎晩のように何も見えないと唸っていた。
野性の勘に研ぎ澄まされた狼の眼が、裸の枝々からさす木漏れ日を受けながら歩いてくる影を見つける。小さく鳴いて、源田は主人に駆け足で近寄った。
「源田」
鬼道はその首を撫で掻いてやり、心地良さそうに目を閉じる狼の様子に口元を緩ませた。葉のない蔓の隙間から、少し離れた屋敷が見える。
「お前が身を隠す場所も無くなってしまったな」
「平気だよ。守ることに隠れ場所は必要ない」
「……洒落にならないぞ」
苦笑して、主人はため息をつく。ふと見かけた横顔は春を待ち焦がれるような切なげな艶に彩られていて、妙な感慨に耽りかけた。
「俺は今まで鬼道さんに仕えて来れて、本当に仕合わせだよ」
「――いきなり、何を言い出すんだ」
幼馴染みの源田と佐久間は遠い地の小さな妖怪の集落で生まれ育ったが、誰しも必ず覚醒したら天狗や白狐などの上級の妖怪に仕えることを誇りにしており、それぞれ家によって仕える妖怪は定められていた。
二人はその掟に従うことを拒んだため追放された。覚醒どころか二十歳にも満たなかった二人は、自力で人間の目を避けながら何とか旅を続け、この地にやってきた。
オニが残っているとは信じていなかったので、通りすがりの風神に聞いたときは驚いたものだ。最強と言われるオニなら仕えたい、そういう安直だが純粋な考えで鬼道を探したのが始まりだった。
結界で隠されているため並大抵の者には気配すら悟られないこの屋敷を探し出した能力を買い、鬼道は二人を駒にした。それから数十年、現在に至る。
「鬼道さんが笑ったり怒ったり悩んだりしてるのを見てて、嬉しいんだ。俺達にはできなかったことだから」
鬼道は答えに窮したと言うよりはどう言うか迷って、困った顔で俯いた。
「分かるんだ。あいつは、本当に鬼道さんのこと……」
悩ましげな表情にさっと淡紅が広がり、源田は優しく唸った。
「野暮だな。すまない」
背を向け尻尾を左右にゆっくり振りながら、源田は歩き出す。背中に、小さな感謝の言葉が聞こえ、返事の代わりに尻尾を激しく振りながら思わず微笑んだ。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki