<夜明けの王と紅月の鬼 二十二>




 不動が暮らしていた小さいが栄えた村は山間の谷に広がっていて、三日歩けば城下町へ出ることができた。そのため町へ行く途中の商人、旅人、運び屋などを相手にした宿や店が多く、不動が行き来するのもその裏だった。
 往来は賑やかというほどでもなく静かで穏やかな様子をしていたが、常に人通りは絶えない。不動は商人らしき格好の男とすれ違い、無表情を変えずに通りすぎる。建物の隙間に入り、男の懐から盗った財布を確認した。中身はほぼ無い。舌打ちして、空の財布を路上へ放り出した。そのまま薄暗い路地を歩き出す。
 裏道をずっと行くと家と家との間に小さな空き地があり、子供たちの格好の遊び場になっている。今日も数人が固まって何やら石ころで遊んでいた。
「なあなあ! 見ろよ、すっげーだろ」
 ちょうどそこへやってきた一人の少年が、手にした一株の茸を自慢気に見せびらかしている。不動はそれが激しい腹痛を引き起こす毒茸だと知っていたが、黙っていた。
「すげーっ! 何それ、ヒラタケ?」
「ああ、一株だけ採ってきた。すげえあったぜ」
「うまそう!」
「なあなあ、どこで採ったんだよ?」
 通りすぎるうちに、興味が無くとも彼らの会話が耳に入ってくる。茸に夢中で、元々特に関わりの無い不動の事は彼らの目に入っていないようだが、それはむしろ好都合だった。
「母ちゃんに食わしてやるんだ! 今日はご馳走だぜ。場所はな~……ただじゃ教えられねぇな」
「なんだよー!」
「ケチ」
「当たり前だろ。何かを得るには何かを払うのさ」
 旨い飯と腹痛とは、人生はうまく出来ているものだ。不動は半ば呆れながら、家とも言えない住処へ向かって足を速めた。
 後になって、腹痛で休んだ少年の母親が奉公先で重すぎる罰を受けたと知る。それが原因かどうか、程なくして彼女は病にかかり、数週間後に息を引き取った。彼らは何も得られなかった。



***


 毎度騒がしいヒロトとリュウジが、やけに興奮しながら台所にやって来た。彼らは見回りをする源田について出かけるのが日課になっていて、今日はその途中で茸を見つけて採ってきたらしい。
「明王くん! 見てよ、これ」
「うまそうだろ。俺が見つけたんだ」
 それは、明らかにあの時の毒茸だった。いつも僅かな違いを見分け識別しているのだから、間違う筈はない。考えるより先に手が動いた。
「貸せ、馬鹿野郎」
 もぎ取るようにして奪うと、軸を手で割いて確かめさせる。芯は毒々しい青色をしていた。
「こんなモン食える訳ないだろ、死にてぇのか!」
 貶されたことよりも害を教えてもらったことの方が重要に感じた二人は、普段距離を置いている不動の内面が垣間見えたことに驚き喜んだ。
「よく分かったな! 危機一髪とはこの事だ」
「ありがとう明王くん!」
 不動はふんと鼻を鳴らし、毒茸をまとめて竈に放り込む。諸悪の根源はあっという間に小さく萎み、真っ黒な灰になった。
「ヒラタケと違ってカサの下に白い毛みたいなのが付いてんだよ。分かったら二度と採ってくんな」
「うん、気を付けるよ」
「なるほど……しかしお前にも思いやりがあったとはな」
「何を言ってるんだい、リュウジ。明王くんはいつも全体を見て皆のことを考えてくれてるじゃないか」
 台所がむず痒い雰囲気に充たされ、不動は奥歯を噛んで目を吊り上げた。
「勝手なこと抜かしやがって。オレは自分の安全を考えただけだ!」
「またまた。もっと素直になればいいのに」
「てめえに言われたくねぇよ!」
「自分の安全を考えたなら、そう簡単に毒茸だなんて教えたりしないよな? だって俺たちがいつお前に毒を盛るか分からないじゃないか?」
 リュウジが自信に満ちた笑みを浮かべる。自分の事をこんな風に分析されるのは大嫌いなのだが、如何せん、二対一では分が悪い。
「オレは毒ごときで……ああもう、うるせぇな! ひでぇモン採ってきた罰だ、仕度はてめぇらでやっとけ!」
 罰と言って逆に信頼の証になっていることにとうとう笑い出すヒロトとリュウジを押し退けて、不動は居心地の悪い台所を飛び出した。自分でも意味不明だと分かっていたが、とにかく早く解放されたかった。
 廊下に出ると、ちょうど鬼道が歩いて来るところだった。聞こえたか聞こえなかったか、微妙な距離を認識して不動の頭は沸騰する。
「どうした?」
 明王、と言い終わる前に、不動は黙って肩を怒らせ脇をすり抜けて行く。
 一片でも内側を暴かれたことへの羞恥、感情を抑制しきれていないことへの羞恥が折り重なって、すぐには片付けられない。誰もいない部屋に飛び込んで、畳に寝転がりやっと頭が冷めた。
 全体を見て他人を思いやることが出来ているのなら、もっと豊かな暮らしを営めている筈だ。鬼道のことを考えるなら、ただ苦しめるだけの存在など排除すべきだ――例えば、自分のような。
 ひたすらに落ちていくだけの迷宮から這い出し、冷めすぎた頭を抱えて不動は起き上がった。



***



 温かく濡れた檜材にゆったりと身を預け、鬼道は湯気のたつ風呂場の天井を眺めるでもなく眺めていた。湯加減を聞いた佐久間に、もう上がるから充分だと答え下がらせたのは先刻のことだ。どこか没頭してくるのは、絶妙な湯温の所為だけだろうか。
 不動が避けるようになった原因はきっと自分にあると、鬼道は確信に近いものを抱いていた。それは自惚れでも何でもなく、一つの恐怖だった。
 随分と生活は変わり、慣れない賑やかな空気に疲れはあれど、平和だと感じることが多くなった。身も心も、戸惑いながら曙へ進み始めている。だが、恐怖もまた影のように寄り添い、同じ道を追って来るのだった。
 血の渇きが抑えきれなくなった――否、なりかけたのはあの夜だけだ。それまでは何とか耐えることができていた。
 昔の夢を見て魘されたことも理由の一つかもしれないが、満たされない体に共鳴して獣が一瞬現れたのだろう。不動の目を見つめているうちに、邪悪な衝動や血の臭いは、欲望と共にまっすぐな地平線に溶けて消えて行った。我が儘を認めもう迷わないと決心した時、平然とした不動の中で何が起きていたかなど考えもしなかった。
 鬼道は己の、かつて無かった短さの爪、人間と同じように見える手を見た。息を吐いて顔に湯をかける。すると、指先に冷たくて硬い角が触れた。爪は切れても角は死ぬまで折れない。闇が無ければ光は見えない。答えは常に目の前にある。鬼道は肩の力が少し抜けたのを感じた。



 部屋に行き襖を開けると、不動がいつものように立て膝に顎を乗せて、宙を睨んでいた。いつもと違うのは、不動の布団だけが畳んだままだということだ。目の前にしゃがみ、鬼道は彼を憂愁から引き上げようと試みる。
「明王」
 不動は顔を上げない。彼の中に渦巻く憤懣は姿が見えず、鬼道を再び不安にさせる。
「おれならもう大丈夫だ。だから心配ない」
 落ち着いた声を意識して、不動の丸い背に風呂で温まった手を一瞬置いた。
「そうかい」
 素っ気ない返事が、何か喋らなければという焦燥を高める。伝えたいという気が早って焦るなどということは、鬼道が生きてきた数百年のうちには無かった現象だった。
「最近、満たされていると、思う。人を喰わなくてもこうしていられる。……お前のおかげだ」
 不動はやっと顔を上げたが、その目は布団を敷く事を躊躇させるほど複雑な思いが沈み、薄暗い部屋の鬼道の陰の中で、行灯の明かりを微かに灯していた。
「アンタが自分で選んだ道だ。オレは何もしてねぇよ」
「そんなことはない。それに、お前には力がある。こうしておれを……」
 宥めるには少し方法を誤った、と気づいたのは、不動が自嘲に軽く笑ったからだ。
「またそれか? オレにできるのは、傷つけることだけだぜ?」
 そう言って不動は、鬼道の胸を突き飛ばした。畳んだままの布団に倒れ、容易く重力に従った鬼道に驚きつつ、それを隠して不動は近付く。
「オレは半神なんかじゃねえ。アンタの身も心も滅ぼす疫病神だ」
 鬼道の浴衣の胸元を掴み、低く押し出すような声には憤怒がこもっている。鬼道はいとおしいその目を見つめ返した。
「違う」
「違う? じゃあ、オレに何ができるってんだよ――!」
 言葉を探す鬼道の肩を押さえつけ、顔を歪めた不動はその首筋に舌を伸ばす。鬼道は彼の腕を掴んだが、押し返しはしなかった。苦痛の中で繰り広げられる待ち望んだ状況に全身が震える。
「あき――ぐぁ……ッ!」
 首筋に焼きごてを宛てられたかのような激しい痛みが生じ、鬼道は手足に力を込め歯を食い縛って耐える。しがみつかれて、不動は瞠目しつつ舌を引っ込めた。てっきり突き飛ばされると思っていたのだろうが、鬼道は敢えて気の済むようにさせた。
「もう……分かっているだろう」
 吐息と共に耳元で囁いた穏やかな――抑制の利いた切ない声にはすべてが込められていて、まるで一滴の聖水が濁った井戸水を浄化するかのように、不動のなかに浸透してゆく。
「くそ……っ」
 それまで抱えていた言葉は行き場を失い、彼は力なく座り込んだ。慣れない感情に包まれ、少年は後悔と安堵と憤りとに涙を滲ませる。鬼道の白い首の付け根に、自分がつけた傷に手が伸びたが、何もできずにさ迷った。
「傍に居てくれ」
 その手を掴み、抱き寄せる。不動は簡単に崩れ、腕の中に収まった。
「お前がここに居てくれれば、それだけでいい」
 胸に頬を預け、不動は苦笑と共に溜め息をつく。
「ったく……、しようがねぇなぁ……」
 この期に及んでまだひねくれた台詞を吐き出す、その声はしかしどこか頼りない。自分自身へ向けたとも思えた。
 鬼道は自分より一回り小さな身体を抱き締め、深く息を吸った。腕の中は静かにしている。予想通りの流れに、つい口元が緩む。それをちらと見てから、呆れ顔で不動は呟く。
「湯冷めしちまったじゃねぇかよ」
「ああ、……優しいんだな」
「どこが」
 そう言うところだ、とはこれ以上言わないでおいた。
「布団は敷いてやるから、お前も早く風呂に入って、温まって来い」
 名残惜しみつつ腕を解放すると、やがて不動はしかめ面のまま浴衣を持って出ていく。
 鬼道は布団を畳んだままにしておいた。戻ってきた不動はやっぱりとでも言いたげに溜め息を吐いて、黙って鬼道の背に己の背を合わせた。



***



 久遠冬花は相変わらず、微笑を絶やすことなく医師である父親と二人で、健気に暮らしていた。家事炊事と、小さな畑の手入れ、近所の子供たちの面倒を見るのに加えて薬学の勉強にも励む彼女は時たま、川で会った少年を思い出す。あれから姿を見ないが、恐ろしくも美しいオニとは無事に仲直りできただろうか。
 冬花は受容力のある性格だった。それ故かどうか、彼女には優れた感覚が備わっていて、例えば人の心の様子が嘘をついている・ついていないなど白黒はっきりと見たり、本質を直感したりすることに長けていた。
 答えの無い思考を振り落とし、台所に野菜の入った籠を置く。戸を叩く音が聞こえ、期待に胸が膨らむのを押し留めながら玄関へ向かった。
「はい、どちらさま?」
 そこにいたのは一人の女と二人の男だった。
「我々は妖怪退治の旅の途中です。どうか一晩、泊めて頂けないでしょうか」
 身なりからして退治師である。追い返す理由はない。
「はい、構いませんよ。さあ、どうぞ、粗末な家ですがお入りください」
「かたじけない。有り難う御座います」
 確かにその女の目からは、疲労と混迷とが見てとれるだけで、邪悪には見えなかった。同じとまではいかなくとも受容力を持ち合わせた聡明な父親の返答を予測し、冬花は客人を招き入れる。月は昇ったばかりだった。





続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki