<夜明けの王と紅月の鬼 二十三>




 陽が落ちるのは早くなり、夕暮れにはひんやりした空気が押し寄せてくる。源田が庭に伏せて大きな尻尾を揺らすのを視界の隅に、そろそろ止め時かと思いつつ縁側に腰かけた佐久間が縫い物をしていた。滑らかな動きで器用に針を使う様を、興味津々といったリュウジが隣で眺めている。その隣には寝そべって書を解読しようと、場にはそぐわないしかめ面のヒロトがいて、彼らから離れた日陰の畳に不動が座って笛の手入れをしていた。
 溜め息を吐いてヒロトが、書に飽きたのか起き上がって伸びをする。
「ねえ、ところでこの屋敷って、何か霊力でも働いてるの?」
 佐久間に尋ねたのを聞いて、リュウジがヒロトを咎めるような目で見た。
「いや、ここは至って普通の屋敷だ」
 佐久間は唐突な質問に疑問符を浮かべながら答え、縫い終えた糸を縛って歯で切り、手を休める。
「ほら。幽霊なんかいないってさ」
「ばっ……余計な事言うな! ヒロトのせいだろ」
 ヒロトの背を軽く叩き、リュウジは赤面して小声で叫ぶが、ヒロトは笑っている。そのやり取りを見て、佐久間はそっと苦笑した。
「ここは昔、鬼道さんが懇意にしてもらった妖怪たちに頼んで建ててもらったらしい。俺は詳しくは知らないけど、わざと妖力などに頼らずに造ったようだから、特別なところは何もないよ」
 咳払いをして、気を取り直したリュウジが尋ねる。
「佐久間はどうしてここへ来たんだ?」
「……成り行きだな」
 一度言葉を切って、佐久間は適切な台詞を探す。
「あのひとは強いくせに世話が焼けるし、それに……何より、俺たちの能力を認めてくれた。命を懸けても仕えたいと思ったんだ」
「命を懸けてもっていうのは、僕たちが照美様に思ったのと同じだね」
 ヒロトが感慨深げに呟いた。佐久間は思わず微笑する。
「そうだな。それは幸せなことだぞ。なかなか、素晴らしい出会いというのは多くないからな」
 ヒロトとリュウジは嬉しそうに笑って、顔を見合わせる。
「鬼道師匠(せんせい)と照美様、どっちが強いかな?」
 好奇心が先走ったようなヒロトの問いにリュウジはうーんと考え込み、二人は想像の中で果てしない憶測を始めた。
 徳とはどういうものか、理論的に説明するのは難しい。佐久間は、今では遠い昔に思いを馳せた。彼はその目で見えるものを信じる。長きに渡り血に染まっても、鬼道は誰にも汚せない魂を持っていると思った。
 そして実際、その通りだった。ちらと振り向くと、不動は目を逸らす。礼を言うのは癪だが、彼が鬼道を変えたことは確かだ。
 佐久間はマオニの二人に向き直った。
「照美様というのは、どんなひとなんだ?」
「とっても綺麗なんだ」
「お星様に囲まれたお月様みたいにね」
「でも料理がてんで駄目だから、俺たちが頑張って上達しなければ」
「僕らの作ったものを美味しいって褒めてくれるんだ」
「そうか。早く会えるといいな」
「うん! もっと色々美味しいものの作り方教えてね」
 微笑んだ佐久間の背後で、不動が勢いよく立ち上がる音がした。見れば彼にしては珍しく、もう少しであっと声が出そうな口の形をしている。
「不動?」
 どうしたと問う前に、不動は半ば走り出すようにして動き出した。
 奥の襖を開けると座していた鬼道が思わず目を見開いて迎えたが、それに構わず「退いて」とだけ伝えると、真ん中にある正方形の畳に爪を引っ掻けて剥がしにかかった。追い付いた佐久間はそれを見て理解する。二人がかりではがした畳の下からは、立派な囲炉裏が現れた。不動は満足げに口元をゆるめ、立ち上がる。
「源田! 火ィ起こしてくれよ。お前らは茸採りに行ってこい。佐久間はオレと台所」
「分かった!」
「毒に気を付けるよ!」
「冗談でもよせ、ヒロト……」
 リュウジとヒロトはふざけ合いながら玄関へ向かう。
「偉そうだな、なに仕切ってるんだ」
「うるせぇよ」
 佐久間は微笑を浮かべ、さっさと台所へ向かう不動を追いかける。いつの間にか不動を囲む空気は、柔らかく温かくなっていた。
 そんな彼らが台風のように訪れまた去っていくのを見ながら、当惑気味に取り残されている鬼道の元に、源田が二本足でゆっくりとやってきて溜め息を吐いた。その困ったような優しい目線に、そっくり同じものを返す。これではまるで保護者だなと思いながら、賑やかな空気を嫌っていない自分を見つけた。



 天井の鉤に下げた大鍋から取り分けた椀を不動から受け取り、ヒロトは嬉しそうに箸を取った。外はもう真っ暗だが、小さくとも火の周りは顔が見えるほど明るい。
「いただきます!」
「あちっ」
 声を揃えた直後、口を付けたリュウジが体を揺らす。それを見て佐久間が苦笑した。
「ほらリュウジ、気を付けろ。それから、ちゃんと座るんだ」
 立てた膝を指して言うと、リュウジは反抗的な目線を投げつつ大人しく従う。
「そうだよ、リュウジ、明王くんみたいになっちゃうよ」
「うわーやだ」
「オイ、てめぇら……」
 笑い声が、温度の下がってきた空気を震わせる。
「次郎はお母さんみたいだなあ」
「ばっ……!」
 源田の何気ない言葉に第二の熱源体となった佐久間を無視して、不動は鍋に具材を足し入れる。
「ほんとだー」
「おい、ヒロト、茶化すと怖いぞ」
 囁いたリュウジの肩を佐久間がそっと掴む。
「誰が怖いって?」
「えっ」
「次郎母さんは怖いぞ~」
「だから母さんじゃないっ!」
 今にも恐ろしい事を始めそうな佐久間を、うまく宥める源田はさすが長い付き合いなのだろう。しかし、団欒には一人足りない。不動はおもむろに立ち上がり、笑い声を背中に聞きながら縁側で酒を飲む相変わらずの姿に近付く。
「おい」
「ん?」
 腕を掴んで、弱い力で僅かに引っ張ると、鬼道は希望通りに移動してくれた。隣に座らせ、猪口ではなく箸を持たせる。澄んだ結晶のような赤い目が戸惑うのを見て、彼が口を開く前に鍋を覗きながら言う。
「旦那も食えよ」
「おれは……」
 躊躇う鬼道に、湯気をたてる椀を差し出した。
「毒にはならねぇんだろ」
 彼の手が椀を受け取り、面白いものを見た時のように微笑する。
「ああ、悪くないな」
 遠い昔、家族で囲んだ囲炉裏を朧気に思い出した。それは崩れた後の瓦礫の中から見つけた小さな破片に過ぎなかったが、まだ美しく輝いていた。



***



 気配がして、円堂は振り返った。振り返らずとも分かったが、滝を眺めながら近付いてくるのは、人間の姿を借りた白狐だ。数日前に部下と妹を連れて訪れた彼は、椿のような赤い着流しをまとい尻尾を揺らしながら、寛いだ様子で歩いてくる。同じく焦げ茶の着流し姿の円堂は、屈託のない笑顔で親友を迎えた。
「豪炎寺」
 涼やかな黒い眼を細め、豪炎寺は微笑む。肩を並べ、しばらく沈黙に任せた。
 円堂が豪炎寺を呼んだのは、普段のような近況報告がてらの息抜きではない。退治師が活発化してきたことにより混乱に陥った妖怪たちをまとめ、対応を教えたり避難させたりといったことに数日追われていたが、ようやくそれも落ち着いた。孤立してしまうと無力な者達も、天狗の結界の元に固まっていれば安全であるし、いざというときには強力な軍勢にもなるだろう。
 しかし寛いだ様子でとは言えそれは外見だけで、族長としての圧力に平然と耐え常に燃え上がるような強靭な力を維持している豪炎寺もここのところは流石に疲労が見える。それは円堂にも当てはまる状態で、二人は恐らく同じ理由で此処へ来たに違いなかった。
 円堂はふと気になっていた事を思い出した。
「なあ、人間になったもののけの話、聞いたことないか?」
「うん? ないな」
 いきなり脈絡のない話を持ちかけてくるのは円堂の癖だが、旧知の仲である豪炎寺は敢えて突っ込まずに答える。
「そもそも、そんなこと不可能だろう」
「じゃあさ、人間になりたがってる奴は?」
「数えきれないほどいるだろうな」
 記憶の中をぐるりと回り、出会った妖怪たちを走馬灯のように思い出す。追憶から覚めて、豪炎寺は円堂を見た。
「どうしたんだ、急に」
 円堂は一時目を合わせてから、空を見上げる。
「この間さ、鬼道が来たんだ」
「なに、鬼道が?」
「あ、お前、知り合いか?」
「知り合いどころか……何度か、泊めてやったことがある」
「そっか」
 安堵が漂う声に豪炎寺が訝しげな顔をする。
「あいつは何故ここへ?」
 円堂は頭の中を整理するために、一つ呼吸を置いた。
「子供を連れて、特効薬をもらいに来た」
「子供……まさか、明王と言う奴か」
「そうそう。で、半神には特効薬は効かないって言ったんだけど、何でもするからって頼まれてさ。俺、嬉しかったんだ」
「……嬉しかった?」
「アイツなら大丈夫、そんな気がする」
 豪炎寺は黙って逡巡していた。適当な言葉を見つける前に、再び円堂が口を開く。
「お互いがお互いを必要としてる。アイツならきっと、迷わないように導いてくれるさ」
 止めどなく落ちる滝の周りを、風が緩やかに流れていった。日だまりの岩は少し温かい。
「まさか、アイツが半神だったとはな……」
 知らなかったのかと覗き込むと、鬼道はあの性格だからなとでも言うように豪炎寺は苦笑した。それを受けて、円堂も困ったように笑う。
「俺が夏未と出会った時のこと、話しただろ? あの時のオニって、鬼道だったんだ」
 豪炎寺が目を見開いたのに頷いて、円堂は微笑んだ。
「全部、分かってるんだ。それでも大切なものを守ろうとして、鬼道は頑張ってる。だから嬉しかった。ここへ来てくれて、また会えたことがさ。ずっと友達になれそうな気がしてた」
 心底嬉しそうな笑顔につられて、豪炎寺も微笑んだ。
「今度、三人で飲もう。俺とお前と鬼道で」
「ああ! そりゃいいな」
 円堂は豪炎寺の肩を軽く叩く。目線を前に戻すと、屋敷に続く道から三つの影がこちらへ向かってきた。
「円堂さん、豪炎寺さん」
 二人の姿に駆け寄ってくる虎丸の後ろから、夕香と風丸が追ってくる。
「探しましたよ。風丸さんに聞いても分からないって言うし……」
「休みすぎたな」
「もー、お兄ちゃんってば。休むのはいくらでもいいけど、どこへ行くかくらい言ってよね」
「すまない、夕香」
 妹に引っ張られ、苦笑しつつ豪炎寺は立ち上がる。円堂も倣おうとして、追い付いた風丸が不安げな表情を浮かべているのに気付く。
「円堂、巫女が近くに来たらしい」
「そうか……」
 歩き出した豪炎寺が、動かない円堂を振り向く。円堂は笑って手を振った。
「ちょっと一人で考えたいことがあるんだ。すぐ行くよ」
 風丸は頷いて狐衆と遠ざかっていき、再び円堂は一人になった。
 滝は真っ直ぐに、薄暗い岩の間へ落ちていく。
「正しい道を歩むならば、救いの女神は必ず微笑む。――だよな、じいちゃん」
 呟いた声は滝に掻き消され、円堂はゆっくりと立ち去った。





続く







戻る
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki