<夜明けの王と紅月の鬼 二十四>




 多彩なきらめきを放つ小さな精霊たちに囲まれて、少年は笑う。未だあどけなさの残る純朴な笑顔が眩しくて、影山は温度の上がることのない双眸を僅かに細めた。先程ここに到着した時から鬼道は駆け回り、笑い声をあげ、春の陽光の中で爛漫に満たされていて、流石に足が疲れたのだろう、溌剌としたまま満足に息を吐いて師匠の前に腰をおろした。
 影山が凭れかかっている老いた桜の幹は大人が両腕を回してもまだ少し届かない程の太さで、その立派な樹齢を物語っている。
「師匠、きれいですね」
 鬼道の視線を追えば、なるほど風が吹いて枝を揺らし、淡く儚い色の花弁を雪のように散らした。美しかった花が散ってゆくのを目の当たりにして、常日頃抱えていた恐怖と落胆がこれ見よがしに心を揺さぶる。
 照美に不老長寿の術を施したが、元は人間であるマオニを不死にするのは困難だ。それに、これは不可思議なことだったが、依然として彼に興味は沸かない。心の強さと容姿の美しさだけでも価値があるが、影山が欲したのは限界のある紛い物ではなかった。
「このまま時が止まれば良い……」
 散りゆく花弁がその短い一生の最期を健気に舞うなかで呟いた言葉に、鬼道が振り向く。少年は師匠の心のうちにある深淵に気付くことなく嬉しそうに、ややはにかんで輝石のような真紅を細めた。
「そう願います」
 紛い物だ本物だといくら議論したところで、結局に心惹かれるのは個々の内面性である。強く気高い魂を秘めた少年が自然の妙技に対して心から賛美した微笑、それこそ影山が真に欲したものであったのだが、彼はそれを知るどころか、自分が満たされているとは露ほどにも感じていなかった。
 今一度己を見つめ直し、美しき弟子に慕われていることを実感し、自然界に祝福される生活に再び歓喜を見いだしたなら、散りゆく花を惜しまず再び春を待つことができたなら、運命はその歯車を一つ組み換えたことだろう。だが、そうはならなかった。



***



 久遠道也は突然の来客に驚きはしたが、娘が予想した通り手厚く歓迎することを選んだ。とは言え彼の生来の性格から、きわめて真面目で質素な歓迎であった。
 小さな家に診療以外で他人が来ることは滅多にないため、冬花は緊張しつつも嬉々として彼らの寝床を用意した。
「どちらから、いらしたのですか?」
 夕食の仕度へ向かった冬花を横目に、道也は客たちに酒を勧める。大人が打ち解けるには晩酌が一番効果的である。
「隣の国です」
 寛いだ様子で猪口を傾ける男二人の隣で、女――吉良瞳子は答えた。毅然とした態度は酒にも揺るがず、その目には冷たい炎が宿っているかのようだ。
「あるオニを追って旅をしている途中です。この辺りでなにか噂などは聞きませんか」
 冬花は食事を運びながら耳に届いた言葉に、父親が寡黙であることを初めて感謝した。道也は顔の筋一つ動かさず、酌をしつつ尋ね返す。
「どんなオニです」
「長い白金の髪を持つ、女のような容姿のオニです。そうそう人前に姿を見せないようですが」
 どこか皮肉めいた口調で瞳子は杯を空けた。道也は膳を配し終えて下座に着く娘を横目で見やり、客に人の良さそうな微笑を浮かべる。
「西の方は物騒なようですが、その分、妖怪退治も盛んです。おかげで、この辺りは至って平和ですよ。……さあ、どうぞ御上がりください」
 瞳子はまだ何か言いたげに口を開いたが、部下二人が箸を取ったのを見て仕方なく自分もそれに倣った。実際、この数日まともな食事にありついていなかったし、早く体を清めて休みたいというのが本音だった。
「……本来神聖な存在が憎まれるというのは、哀しいことだ」
 この物静な医師が独り言のように呟いたそれを、瞳子は憤慨と呆気とによって無視した。他人の意見に興味は無いし、くだらない論議によって疲労を深めるのも嫌だった。
 そんな彼女を見て、冬花は不安に駆られる。父親が会ったと言う例のオニについては、あの夜の事件もあって未だ半信半疑だったが、友人を裏切るような真似はしたくないと強く思っていた。



***



 通りかかった部屋で鬼道を前にヒロトとリュウジが正座しているのを見かけ、不動は立ち止まった。鬼道はまとめた紙の束を二人に渡し、小さく一息つく。
「ヒロト、お前は感受性豊かで調和を重んじるようだが、もう少し物事の仕組みを学べ」
「はいっ、鬼道師匠」
「リュウジ、お前は冷静で理路整然と思考するが、たまには肩の力を抜いて身を任せろ」
「はい、鬼道師匠」
 柱に寄りかかり、不動はその言葉の一つ一つに心の中で頷いた。
 忠実に返事をする二人はこの環境にも慣れ、随分と成長したように見受けられる。一人前の面影が垣間見える彼らの顔を見比べ、鬼道は口元をゆるめた。
「お前たちは面白いな。お互いに無いものを持っている。おれがいなくても、お互いを見ていれば自分に必要なことが分かるはずだ」
 それを聞いて、ヒロトとリュウジは輝く顔を見合わせた。
「はい。ありがとうございます」
「ありがとうございます。よし! リュウジ、庭で遊ぼう!」
「おいおい、勉強が先だろ? さっき分からないって言ってたところを復習しよう」
 言ったそばからこの調子では先が思いやられるが、一人ずつ別のことをすればいいとすぐに結論を出したところはやはり仲の良さが表れているのだろう。互いにやり取りできる距離の中でヒロトは机へ、リュウジは庭へ向かったのを見送り、鬼道は微笑する。
 うっすらと二人に感じた嫉妬はどこへやら、改めて分析力に長けた敬愛すべき頭脳に舌を巻きそっと立ち去ろうとすると、やはり気付いていたらしい鬼道がこちらを見た。
 机に向かうヒロトに参考になりそうな書を渡しながら、投げられたその一瞥は不動の全身をあたたかく包み込む。
 半ば無意識に表情筋がゆるみ慌てて――本人はそうと悟られまいとして背を向けた不動を見て、鬼道は面白そうに目線を戻した。
 廊下を歩きながら、不動はつい数ヵ月前の同じ部屋を思い出す。鬼道はすこし柔らかくなったと感じる、その自分もまた変わった。それは心地好い変化であり、互いを近付けるためのものでもあった。



***



 真っ白な紙を前に筆を持たされ、不動は瞠目する。
「書け」
 相変わらず意図が読めないまま、書写をしろと言われて慣れない物に囲まれている。意味は解る。それくらいの脳は持っている。だが、この謎めいたオニがなぜ自分に労力を費やすのか、最大の謎は未だに解けない。不動は風変わりな暇潰しと思うことにして、詮索を諦めた。
「あーあ、やってらんねぇ。こんなの要るのかよ?」
 嘆息をひとつ、仕方なく鬼道が書いた見本を真似して、墨を引いていく。蚯蚓(みみず)が這っているようにしか見えない。
「知っておいて損はしない。おれだって無駄なことはしたくない」
「じゃあ、やめれば? 無駄だから」
 頭を小突かれて、揺れた指先が筆に触れ黒く染まった。
「途中で投げ出すのは愚者のすることだ」
「どっちなんだよ……」
 答えは既に分かりきっていたので、その呟きはただの不平だった。縁側へ移動した鬼道に聞こえたかどうか、どちらでもいい。
 ひたすら見本の通りに書き写し、なんとか格好だけは様になってきた。漢字を書いた紙を持って、鬼道に見せに行く。
「どうだ」
 掲げた紙をしげしげと眺め、鬼道は言った。
「払いがなっていない」
「あーっ……『お前にしては悪くない』とか、なんか無いのかよ。アンタ教師に向いてねえぞ」
 言ってから怒らせてしまうかと身構えたが、鬼道は少し考え込むようにしてから呟いた。
「……そうだな、お前にしては悪くない」
「それオレが言ったまんま……、嬉しくねえー」
 目の前に突き出していた腕をだらりと垂らし、わざとらしくよろめいた。
「不満があるのなら結果を出せ」
「へいへい。師匠には敬意を払いますよ」
 やはり怒らせただろうか。再び小突かれる前に机へ戻る。
 厳しくされることには慣れていたし、それが普通だと思っていた。それなのに、鬼道の口から罰則らしき命令を聞いたことはない。多少不快にさせても、無視したり小言が飛んだり小突かれたりという程度である。
 失敗の範疇に入らない事柄でさえ何かしら理由をつけて折檻するような愚昧な人間たちよりも、月夜に彼らを狩る孤独なオニのほうが遥かに尊敬に値するように思えた。



***



 瞳子は宿泊の礼を言い、無益な村と医者の家を後にした。旅立つ時、道也は言った。
「川沿いに行けば次の村がある。そこで何か情報があるやもしれません。幸運を」
 自分と同じく寡黙なのに、娘の存在だけではない、彼らの家の中は温かかった。瞳子は振り返り、遥か小さくなった村を、その外れにある小さな家を眺める。感傷に浸ることを好まない彼女は、弱音を払い落とすかのように歩き出した。
「……待って」
 もう一度振り返る。二人の部下が怪訝な顔で足を止めた。
「どうされましたか」
「ねえ、あの山の上の方……緑が残っているわ」
 瞳子が指をさし示す方向に二人は目を凝らす。
「確かに……妙ですね。素人の退治屋のせいで、薬が効いているはずなのに」
 もう一人が山を眺めながら、少し思案した後に口を開いた。
「調べてみる必要はありそうです。いかがいたしますか」
 瞳子はじっと山を見据え、歩き出した。真実を追い求める過程において、彼女が下すべき判断はひとつだった。



***



 灯りもつけず、部屋の真ん中に座して闇を睨んでいた佐久間は、襖が開く音で我に返った。
「どうした?」
 いつもと違う様子に、源田の心配そうな声が鼓膜に届く。佐久間は大きく息を吐き、強張っていた体をほぐす。
「誰かが近くに来ているような……気がするんだけど、よく分からない」
 振り向くと、暗い部屋に布団を広げる源田と目が合った。震えそうな声を絞り出す。
「……俺より上位の者なのかもしれない」
「お前より上と言ったら、天狗か、あとはオニか神かだろ? 鬼道さんに敵う奴なんて、そうは居るものか」
 置いたばかりの枕をぽんと叩き自信満々に言う源田を前に、佐久間は眉をひそめる。
「……でも。嫌な予感がする」
「大丈夫だって。な? 俺がついてる。ほら、休める時に休んでおいた方がいいぞ」
 寝床の用意ができたのに動かないので、源田は石のような心配性を抱き上げようとした。しかし佐久間は、伸ばされたその腕を払いのけ、源田の胸元を掴む。
「なんでお前はそう楽天家なんだ? いつも俺ばかり心配して! 鬼道さんだけじゃない、お前のことだって俺は……!」
 それは彼の絶叫だったが、彼の性質から声は低く抑制されていた。見上げた目が真っ直ぐに向けられていて、佐久間は口を閉じる。厳しさと悲しさを持った愛情が薄闇に優しく光っているのが見えた。
「次郎、」
「……ごめん」
「俺は俺にできることを精一杯やる。それでも、なるようにしかならない。だから、お前もできることをすればいいんだ」
 肩を支え、源田は言う。その声はどこまでも穏やかだ。
「……うん」
 抱き寄せられた懐に潜り込んで、逞しい胸板に身を預ける。今までどんなことがあっても二人で乗り越えてきた。だが今はそれも気休めになってしまった。





続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki