<夜明けの王と紅月の鬼 二十七>
無言のまま屋敷へ戻った一行は、囲炉裏の周りに座した。数日前は笑顔で囲んだ場所が、鬼道がいないことを非現実に仕立て上げようとする。実際、今にも帰ってくるのではと思った。
照美は皆の顔を見渡し、小さく息を吐いて話始めた。
「僕と鬼道くんは、同じ師匠に戦い方を教わった。影山零治というオニだ」
聞きながら不動もまだ呆然と、動揺したままでいた。源田が囲炉裏の火をおこす。薄暗く寒い部屋に、ほんのりと赤が灯った。
「僕は影山に血を注がれてマオニになった。こんな顔と体でこの歳まで生きていられるのも、彼の妖術のせいだよ。とっくの昔に寿命は尽きてるからね。このことだけでも、影山の妖力がどれだけのものか分かるだろう」
そう言って、確かに神秘的だが同時に化け物らしい美貌を苦笑させる。ヒロトとリュウジが困ったように微笑した。尊敬する師匠に自嘲や卑下をして欲しくないのだろう。
「鬼道くんは由緒あるオニの家に産まれた。師匠は当然、正なる血統の彼を贔屓して、まるで自分の子のように手をかけて彼を最強のオニにした。僕はずっと彼に嫉妬して、憎んでいた……この子たちに会うまでね」
ヒロトとリュウジを見て、照美はわずかに微笑む。瞳子が眉をひそめた。
「依存先を変えただけじゃないの。自分勝手な都合で!」
「ちがうよ、姉さん!」
身を乗り出した瞳子に、ヒロトが抱きつくようにして止める。その後ろから、リュウジが懇願するかのように瞳子を見つめた。
「オニも、マオニも、本来は森の守り神なんだ。俺たちは鬼道さんに会って、それを知った。精霊たちと踊れるようになったし、荒れた森も元通りになってきた」
照美が言った。
「この子たちが酷い仕打ちを受けていたのは君も知っているだろう。粗悪な環境のせいで、盗みまでするようになっていたんだ。放っておけなかった」
「偽善だわ。よくも言えるわね」
「君は父親の愚かさを認めたくないだけだろう。――そうだね、確かに僕は大勢を殺したし、許されないことをしてきた。だからこそ、少しでも償いたいと思ったんだ」
「その償いが、他人の子を勝手に化け物にすることだと言うの?」
「化け物じゃない!」
リュウジが叫び、その肩に宥めるように照美が手を置いた。
「そうだ! 姉さん、庭を見て。鬼道さんに教わって、僕とリュウジがやったんだよ」
ヒロトに連れられて、瞳子は困惑したまま縁側へ出る。先刻まで歩いていた森とは違い、子供の頃に日が暮れるまで遊んだ美しい森の一角が、今は夕陽に染められてそこにあった。苔は青々と広がり、赤や茶や黄の落ち葉が散らばり、所々に萩などの草花、南天、山茶花が見える。
「ね、綺麗だろ? 他のところも、これから少しずつ良くなっていくよ。僕とリュウジなら、それができる」
激昂していた瞳子は驚愕と感嘆に肩を落とし膝を折った。ヒロトとリュウジが両側から支え、部下たちがそれを見守った。
先ほど彼女はオニを封印することができて宿願をひとつ果たしたが、弟とその義弟、また初対面ながら戦を好まないらしい人々が揃って顔を翳らせ、俯き、計り知れない悲しみに沈むのを目の当たりにして、原でのヒロトとリュウジとのやり取りを思い出し、心の内で白と黒が混ざり混沌とするのを感じていた。
瞳子は今や灰色の混沌の底に落ちていたが、突如として沸き上がった真実を十分に理解し受け入れるだけの時間が不足しているだけだった。眉間の皺が薄くなり、徐々に表情は変わっていく。弟との再会に微笑み涙することができるのも、もう間近のように思えた。
「で? 昔話は済んだか」
それまで黙っていた不動が、とうとう口を開く。これでも配慮した言い方だった。隠れて拳を握り締める不動を見て、照美は安堵の微笑を消して座り直す。そこまで誠意を示されても、不動は疑惑を籠めて彼を睨み付けた。
「さっき起こったことは、僕にもよく分からない。分かってることは、あの木が影山と鬼道くんの思い出の場所であることと、あの木に異常な邪気を感じたのに、鬼道くんを捕らえた後はそれがきれいさっぱり無くなったということだ」
「んなこたぁオレだって分かってんだ! アンタ、旦那を助ける方法を知ってんだろ? 勿体振ってんじゃねぇぞ!」
それが他人にものを頼む口の聞き方か、と誰もが思ったが、今彼に注意する人物はあらゆる意味で居なかった。先程から不動が平静を欠いていることに佐久間と源田は気付いていたが、止めることをしない彼らもまた平静を欠いていた。
照美は穏やかに不動を見つめ返す。その目はどこか探っているようでもあった。
「それにしても妙だね。鬼道くんは最強のオニだと記憶していた。あんな風に容易く捕まるとは思えないんだけど……」
周りを窺うような照美の言葉に、未だ呆然としていた佐久間が反応した。
「鬼道さんは……ずいぶん前から血を飲んでなかった。それもこれも、おまえのせいで!」
途中から不動に向かって、今にも襲いかかりそうな剣幕を源田が抑える。
「選んだのは旦那だ。オレはそんなこと、どうでもよかったんだ。こんなことになるなら、無理矢理にでも飲ませてたよ!」
今度はリュウジが不動を抑えた。照美は一人納得した様子で、穏やかに不動を見つめる。その目はどこか探っているようでもあった。
「僕たちにはどうにもできない。破魔矢のような術具も効かないし、どんな強力な術も跳ね返すだろう。元弟子であった僕でさえ足が竦んだ、それほどの気を感じたんだ。最強のオニと言われた影山の念が、何十年もあの絶好の場所で、云わば熟成されて機を窺っていたんだ、鬼道くんが容易く囚われるのも無理はないよ。……例え天狗でも破れないだろう」
「なんだって……」
佐久間が呻くように言ったが、不動の耳には入らなかった。見つめ返す照美の目が光る。
「唯一、もしも対抗できるとしたら、曇りや汚れのない真の大神の力だ。何よりも強力で神聖な光があるなら、影山の闇を打ち砕くことができるかもしれない。いや、むしろ、怨念を祓うのに必要なのは、理解や救済だ。しかし仮に封印が解けたとしても、あの状態では、鬼道くんは……」
照美は口を閉ざした。
不動は黙ってその場を去った。誰も、それ以上この件についての言葉を発することは無かった。
息も白み始める夜だったが、ヒロトとリュウジは桜の木のある原へ向かった。彼らの保護者たる照美と、不動もついて行ったが、不動は原の端で立ち竦んだ。気付いた照美が、隣で足を止める。
改めて見ると桜だったらしい黒い木は異様な様相を呈し、不気味で、皮肉にも鬼道が加わったことで超自然的な美をかもし出している。ヒロトとリュウジは改めて見上げた光景に悲痛な顔をする。二人の若いマオニは、歌いながらゆっくりと舞いだした。四本の腕が交差し、ひらひらと着物の袖を揺らして、静謐な空気を穏やかに動かしていく。
「……彼も、君と出会って変わったんだろうね」
照美が呟くのをどこか遠くに聞き、不動は踵を返して歩き出す。それを横目で見送って、照美は二人の舞いに加わった。
不動の踏みしめる土に、彼を追いかけるかのように小さな芽が顔を出す。振り返ればきっと、同じ場所とは思えないほど美しい光景が目に入っただろう。だが、彼は振り返りもしなければ、むしろ歩みを速めた。少しでも安らげるように、苦痛を和らげるように、祈りを込めて、いつまでも歌は聞こえたが、彼は耳を塞いだ。
翌朝、瞳子と二人の部下、ヒロトとリュウジ、そして照美は、父親に事情を分かってもらうために故郷の国へ向かい旅立った。夜のうちに話し合ったとは言え、まだ蟠りがあるようで同行するのも渋々といった様子だったが、数日後地元に着く頃には多少打ち解けていることだろう。
ヒロトとリュウジは名残惜しそうに別れを告げたが、もっと修行して各地を周り、少しずつ森を取り戻していくため、必ずまた来ると言って一瞬笑顔を見せ、去って行った。
静かになった屋敷の中で、佐久間と源田は耐え難い苦痛をいたわり合いながら日常を始める。同じく今までと変わらない日々を過ごしながら、不動はどこか茫然としたままでいた。再び訪れた静穏は以前とは違う意味を携えてやってき、主がいない屋敷は殺伐として色を失ったようで、一気に古くさくなったように見えた。
何のために縁側の床を磨き、玄関を掃き清め、床の間の埃を拭くのか?まだあの場所に存在すると知っている為か、未だに実感がわかない。両腕を懐の中で組み袖を揺らしながら歩く姿、縁側で柱に背を凭れさせる姿、月光を肴に徳利を傾ける姿が、振り向いたらそこに居るのではないかという気が拭えない。だが、もう二度と会えないだろうと遠回しに言った照美の言葉が、刺さった針に毒が仕込まれていたかのように独りになった不動を少しずつ蝕む。食事、睡眠、呼吸をすることにさえ意義を見失い、不動は空虚の中で佇んだ。
客がいなくなって、普段の寝室へ行く。いつものように二枚の布団を敷きかけ、途中で気付いて手を止めた。畳み直した布団からは鬼道の匂いがして、まだ現実を受け止めきれない自分に夢じゃないかと問いかける。
不動はまず、自分が泣いていることを認めなければならなかった。次に、なぜ泣いているのかを認めなければならず、それは二重に彼を苦しめた。冷たい布団にしがみついて、震える体を抱え、今まで認めずに無視しようと押し退けてきた喪失感に打ちのめされる。悔しさよりも悲しみが増し、少年は生まれて初めて抑えることができないほど大粒の涙を流した。
「なんでだよ……。旦那……っ」
何をしたのかも覚えていないほど惰性に過ごした次の日の夜は、意図的に二枚の布団を敷いた。なぜこんなことをしたのだろう、とうとう気が触れたかとぼんやり考えているうちに、床の間に置いた角が目に入った。折れても尚、存在している銀色の輝きに、奪われる寸前に見た鬼道の表情を思い出す。真っ暗な絶望の中に取り残されたわけではない。彼は不動に、想いを残した。
眠れないまま重くなった目で、ふと、障子の向こうが白んでいるのを見た。生きる意味はまだ残っている。決意を抱いて起き上がった少年が見上げた空、朝焼けが冷たい空気を切り裂こうとしていた。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki