<夜明けの王と紅月の鬼 二十八>
不動は鬱屈しなかった。それは矜持でもあり、揺るぎない信念でもあった。彼は二度と涙をこぼさなかった。代わりに酒を飲むようになり、それは彼の背伸びだった。しかし溺れるほどではなく、ひとり静かに、寒い時は囲炉裏で、暑い時は縁側で、何か考え込むような顔で猪口をもてあそんだ。彼は常に、鬼道のお気に入りの場所の、隣に座した。
心中に決意を秘めているとは知らず、そんな不動を佐久間も源田もそっとしておいた。源田は優しさからだが、佐久間のそれは憎悪も混ざっている。出会ったばかりの頃のような、子供じみた嫉妬とは違う。
「いつまでもしみったれた面してんじゃねぇよ」
「なんだと……っ」
殴り合い、庭を転げ回る二人を、源田は黙って見守っていた。彼の分の拳も佐久間が担い、その手を痛める。
「お前さえ居なければ、こんなことには……!」
体格も力も及ばず圧された不動は地面に倒され、その胸ぐらを掴んで佐久間は叫ぶ。涙を堪えて声が消えていく。
彼らの、行き場の無い憤怒と悲壮を、鎮めるかのごとくに、静寂を連れて雪が降ってきた。佐久間は鼻を鳴らして、投げ捨てるように手を放し、頭を冷やしにだろう、庭を出て行った。源田が地面に転がったままの不動を助け起こす。
「寂しいのは、みんな一緒だ。そうだろ」
不動の顔にはねた泥を拭って、源田は言う。その言葉に納得しきれない不動はその手を払いのけ、血の混じった唾を吐く。
「知らねぇよ……」
源田の肩を、慰めか支えか一瞬掴み、立ち上がって屋根の下へ向かう。溜め息は白く、降り積もる雪はさらに屋敷を凍えさせた。
***
一年毎に、森は荘厳で神秘に満ちた美しさを取り戻していった。気晴らしに歩き回って、隅々まで観察したりしているうちに、何故か精霊たちに懐かれてしまった。不動が自分から彼らに干渉することは無かったが、精霊たちはそれも知っていて彼の周囲を好き勝手に飛び回り、歌いかけてはその傷をそっと撫でていくのだった。
例の場所へは時々向かった。おぞましい形の木も鬼道の姿も何一つ変わらず、もしかするとこのオニは最初からここに、こんなふうに存在していて、逆に今までの日々が自分の見た夢だったのではないかと錯覚しそうになるほどだった。
今はどこにいるのやら、二人の陽気なマオニのおかげで小さな原は一面に緑の芝で覆われ、四季折々の草花が咲き乱れ、小鳥や時には鹿や兎などの動物が通り過ぎる。どこよりも美しい場所で眠る彼を想って、不動は笛を吹いた。
久遠冬花と再会したのは、真っ直ぐに前を睨み続ける不動が憤慨と狂気に満ちた悲愴から片足を出し、何者も寄せ付けない程の冷気が落ち着いた頃だった。彼女は立派に成長していて、人の良さそうな婿を迎え家業を継いで、既に子を二人もうけていた。
いつだったか歩いているうち気紛れを起こし、ごく久しぶりに川へ来た時、三つくらいの子供が岸辺にいて、危ないからと念のため引き留めたのが彼女の長男だったのである。
「明王くん! 久しぶり」
乳飲み子を抱いた冬花は素朴な美しさと相変わらずの爛漫さに溢れていて、少し心が洗われるような感覚がした。
何の説明もなく急にいなくなったことを、彼女は蒸し返さなかった。道也も相変わらずで、老眼鏡をかけ、ほんの少しそれと分からぬ程度に皺と白髪が増えただけだった。
そんな家族の様子を見ていて、妙な感慨に浸る。話の流れも手伝って、冬花の息子の教師を申し出ていた。
そこから少しずつ噂が広まり、聞きつけた人々に頼まれ、程なくして村中の――とは言っても数人の、子供たちを教えるようになった。決して深く干渉せず、子供だからと言って容赦なく厳格に、読み書きや簡単な剣術を教えながら思い出を振り返り、自分が師の立場になって初めて分かることが沢山あることに気付いた。一つ一つ鬼道が残したものを拾っていくような感覚に、運命の妙技を知る。
こんな風に暮らすのはどちらかと言えば苦手で、実際、距離を取っていても子供たちは無邪気に、彼の奥底の人間性を見抜いて近寄ってくる。それを仏頂面で適当にあしらいながら、面倒を選んだことを訝しむ自分に頷いて見せた。
途中で投げ出し、建設的な行動をせずうちひしがれたまま憐れな日々を送るのは、愚者のすることだ。そうして働くうち、一段ずつ階段を踏みしめるようにして、自分というものを見いだして行く気がした。
***
漆黒の闇に包まれ、鬼道は静かに目を閉じていた。辺りが暗いのではない。光の存在しない真の闇であり、それは無だった。空間とも呼べないそこで、貫かれた胸の奥から響くように、声は聞こえた。
「鬼道。何をしている? 早くこちらへ来い。そこでじっとしているより、有意義に過ごせるぞ。何でも、お前の望む物をやろう」
何度も繰り返される台詞に、鬼道は穏やかに首を振り続けた。ゼェゼェと掠れたすきま風のような、嘆息のようなものが聞こえる。
「なぜだ? お前は、誰よりも賢い筈だ。そこに居ても、何にもならないことくらい分かっているだろう」
「――待っているのです」
「何をだ? くだらぬ……なぜ、愚かな真似をする」
何も見えず何も感じない空間で、鬼道は胸を張って影山と対峙した。
「時が満ちるのを、待っているのです」
影山が疑問符を浮かべる。鬼道は迷わず先を続けた。
「機を逸すれば己を滅する。貴方の教えです、師匠。あと少しだけ待ってもらえませんか。そして、見ていてください」
「来るか来ないか分からぬ者を、阿呆のようにそこで待っていると言うのか」
頷いてふと、いとしい姿を思い出し、鬼道は微笑む。
「あいつも待っているだろうから、戻らなければなりません。最後に、あと少しだけ」
優しい呟きに答える声はなく、辺りは再び沈黙に包まれる。内側で灯り続ける光に、闇が少しだけ困惑に揺らいだ。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki