<夜明けの王と紅月の鬼 四>




 朝になっても、屋敷の主人は戻らない。
 佐久間ならどこにいるのか分かるのではと思ったが、一体何に腹を立てているのか、口を開くことはおろか目を合わすことすらしないので、不動はひたすら待っていることしかできなかった。彼が普段通りにしているのなら、然程問題があったわけではないのだろう。
 玄関に腰掛け、不思議なものだと思う。最初の頃はすぐに喰われると思い、生きる事を放棄しかけていた。だが、鬼道は喰うどころか奴隷にもせず、教育をし、寝る場所と食べ物を与えた。突然に居場所をもらって不動は戸惑ったが、よくよく考えれば結界の中の生活は軟禁と同じだ。
 しかし、不動はそれについて特に不満を感じなかった。それは単に都合が良いからというよりも、月を見上げてどこか自嘲気味に笑むような彼の姿がひどく情を煽ったからである。喰われるならそれでもいい。が、死を迎えるまで自分に課せられた使命があるのなら、やり遂げてやろう。それがこの奇妙で孤独なオニの遊び相手になることならば、それもいいだろう。そんな風に考えるようになった。




***




 寺の廊下に、柱から柱までを苛々と往復する少女がいた。歳は十八くらいに見えるが、狐の耳と尾が彼女の年齢を不詳にする。白い毛皮は光が当たると柔らかく光り、影になると淡桃色に見えた。肩に触れる濃い目の牡丹色の髪は二つに結い、紺に桜が散る膝上丈の振袖を深紅の帯でまとっていた。
 そこへ若い男が現れる。狐には珍しく漆黒の毛色で、灰色がかった紺の短髪、薄灰色の長着に濃紺の袴を着けている。
「アイツ! 今さら何なの? お兄ちゃんは都合の良い時だけ使えるような万屋(よろずや)じゃないんだからっ」
 黒狐を見るなり、少女は憤りを吐き出した。
「夕香さん、」
「落ち着けって言うんでしょ。分かってるわ」
「俺だって訳が分からないですよ。あのオニは? 夕香さん、知ってるんですか?」
 いい加減に歩き疲れたのか、夕香は開け放した部屋の真ん中に正座を崩して座る。真夏の午後、気温が上がりきった時間帯だが、寺を隠すような竹林から、涼しい風が程よく吹いている。
「そっか、虎丸くんが来る前だったよね」
 兄そっくりの黒い瞳が、記憶を遡るのに伴って上を向いた。
 虎丸は向かいに、踵を立てて正座する。常に不測の事態へ備えるためいつでも立ち上がれるようにそうするのは、彼の生来の癖である。
「いつだっけ、大分前よ。私が遠出してる時だったの。帰ったら、あの鬼道とかいうオニがいて。お兄ちゃんはなんか、悪い奴じゃないとか言って、やけに気にかけてるし」
 夕香は不機嫌に、足袋を脱ぎ捨てた。それをさりげなく虎丸が拾う。
「それから何度か見かけた。お兄ちゃんも、なんであんな怖いひとと付き合うんだろ。最近は来なくて、どっか行ったと思ってたのに」
「……恋人、なんですか? 豪炎寺さんの」
「まさか!」
 不安げに尋ねる虎丸に、飛びかからんばかりの勢いで夕香は答えた。
 直後、断言してはみたものの、その信憑性についてわずかな疑問が浮上し、項垂れる。隠された想いは、家族とは言えど容易には見破れないこともある。
 夕香は畳を動物のように手をついて移動し、虎丸の膝に頭を載せた。虎丸は立てていた踵を落とし、夕香の為に膝を平らにする。
「人間を食べるひとは、嫌い」
 ため息をついた夕香の耳をくすぐり、虎丸は微笑む。
「妬いてるんですか?」
 その手を払い除け、夕香は勢いよく起き上がった。
「そんなわけないでしょ、馬鹿っ」
 頬を赤らめたのは一瞬だけで、やはりすぐに影がさす。
 鬼道にはやや中性的な雰囲気を持つ飾り気のない本質的な美しさがあり、それは計り知れない妖力の所為だけではないのだろう、見る者を虜にする。嫉妬や羨望が無いといえば嘘になるが、夕香は誇り高き妖狐一族の姫らしく、年頃の娘のような素振りは見せない。
「昔から、オニに関わると厄が降りかかるって言うでしょ。だから……」
 兄を思うほど声が細くなった。蝉が鳴く竹林を遠目に眺める。
虎丸は夕香の手を取って、しっかりと握った。
「大丈夫。俺がついてます」
 根拠のない自信に潔ささえ感じて、逆に安堵をもたらす。夕香はくすっと笑んで、またしても手を振り払い立ち上がった。
「期待しないでおくわ」
虎丸は呆れたような微笑を浮かべ、腕を組んだ。




 この二人の態度は露骨という程でもなかったが、まとう空気や視線に敏感な鬼道にとっては、自分のことを良く思っていないらしいことは一目瞭然だった。
「世話になった」
 翌朝、食事を終えた豪炎寺たちの前に現れるなり鬼道は言った。豪炎寺はその手を取り、隣へ座るよう促す。虎丸がわずかに眉を寄せた。
「どうした。此処に居ても構わないぞ。なんなら、俺が有人の屋敷に行こうか?」
 鬼道は豪炎寺から離れて座り、首を横に振って俯いた。
「おれは……ここに居るべきではなさそうだ」
「そうですよ。これ以上豪炎寺さんに迷惑かけるのはやめてください」
 虎丸が口を挟む。
「おい、虎丸」
「いいんだ、その通りなんだから。おれは迷惑をかけている」
「分かっているなら何故、続けるんですか?」
「……」
 虎丸の言葉に、口を開くことができない。言い訳しか浮かばずに、鬼道は畳に視線を落とす。
「有人、すまないがちょっと外してくれ」
「あ、ああ」
 不服そうな虎丸と豪炎寺を残し、鬼道は廊下に出て適当に歩いた。
「あの」
 声をかけられて振り向けば、愛らしい姿の少女――夕香が立っている。だが、その眼に宿るのは僅かな嫉妬と羨望、恐怖、そして兄への愛情、一族の誇り。純粋で穢れのない魂に、気圧される感覚を味わう。嫉妬すら覚えた。
「お兄ちゃんは、誰のでもないですから」
 夕香は控えめに深呼吸した。
「……ああ、そうだな」
 まるで他人事のような言い方に、夕香は拳に力をこめる。口を開くか躊躇していると、豪炎寺が廊下を歩いてきた。後ろから虎丸が、何か諦めたような表情で現れる。
「行こうか」
 そう言って肩を抱き鬼道を連れて行こうとする豪炎寺に、鬼道も夕香も驚いた。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!」
 戸惑う鬼道の背を押しながら、豪炎寺は夕香を振り返り、声を出さずに言う。
(すぐ帰る)
 不安げに見送る夕香と虎丸を残し、豪炎寺と鬼道は寺を後にした。
「わざわざ……うちに来る事は無いんだぞ」
「なんだ、今更。佐久間は知っているし、うちよりは静かだろう」
 訳もなく気まずくなって、鬼道は話題を変える。
「妹は良い娘に育ったな。新顔は弟子か? 成長株だろう」
「ああ。あいつらだけが俺の自慢だ」
 太陽が傾き始め、豪炎寺の銀色の髪を朱に染める。
「――お前には、守るべき者がいるんだな」
 安堵と称賛を込めて贈った言葉に、返事は求めていなかった。豪炎寺はふっと笑い、夕陽を眺めて目を細める。
「逆だよ。俺が守られてる。支えられてるんだ」
 その横顔をもっと眺めていたかったが、豪炎寺は再び歩き始めて行ってしまった。心配させぬよう、距離をあけずに重い足を動かして後を追う。どうやって不動の説明をしようか、考えなければならなかった。




***




 鬼道がいなくなってから数日が経った。今夜は暑い。この屋敷に連れて来られた春頃とは違い、今はクビキリギスが鳴いている。
 不動は眠ろうと努力しつつ布団に横たわっていたが、微かな物音を聞いて忍び足で玄関の方へ向かった。廊下を誰かが歩いて行く。間違いない、鬼道だ。だが、もう一人、知らない男が一緒だった。
 彼らが入って行った部屋に近づいて、耳をそばだてる。予想した話し声などは一切無く、衣擦れとわずかな水音、乱れた息遣いが聞こえ、驚愕と緊張に動悸を感じながら襖の隙間から中を覗いた。
 薄闇に浮かび上がる鬼道の白い肌、それは人形のような無機質でありながら非常に艶かしく映る。その肌に銀髪の男が――よく見れば狐が、口づけをしその手で愛撫するのを見て、頭に血が上った。
 思わず襖にかけようとしたその手を、強く冷たい手で掴まれた。佐久間が険しい顔で掴んだ手首を引っ張り、できるだけ音を立てずに不動を部屋へ戻す。鬼道のものらしきわずかな嬌声が後ろで聞こえたが、聞こえないふりをした。
 布団へ投げ飛ばされるようにされ、不動は反射的に起き上がって文句を言いかける。
「勝手な邪魔をするな」
 低く囁くような声だったが、その言葉は突き刺さるような目線と共に不動を貫いた。彼の中に揺らめく強烈な思いが、問答無用だと言っている。虚栄心から、何か言おうと口を開く前に、佐久間は踵を返す。
 不動は急な脱力を感じた。十五にもなって、こんなところでオニに飼われ、同情したからといって、何だというのだ?
 身体中を灼熱の虫が這い回り、駆け巡った。
「くそ……っ」
 障子を開け、あぐらをかく。クビキリギスはまだ鳴き続けている。再び布団に入る気もせずに、暗闇を睨んでいた。下半身に手がのびたのは、半ば無意識だったかもしれない。畳が汚れ、裾で拭う。疲労が彼を包み込んだ。




 どこまでも甘い吐息と、全身から伝わる熱が存在を証明する。
「ふ……、っあ……」
 だがその奥には、隠そうとした心の欠片が垣間見えた。濡れた指を舐め、豪炎寺はゆっくりと熱い息を吐き、悪戯っぽく笑む。
「会わない間、どうしてた」
「どうもしないさ……」
「人間の小僧なんか飼って、どうもしなかったようには見えないぞ」
 僅かだが、鬼道の顔色が変わった。長い間、一番無防備な姿を見てきたからか、鉄面皮の小さな隙間に覗く微妙な変化に気付いてしまう。今まで殆ど無かった感情が動くのは喜ばしいことだ。
「言っただろう。――あれは、そういうのじゃない」
 それなら何だと問う前に、開いた唇がまるで吸い寄せられるかのように鬼道の舌に絡め取られ、言葉を忘れた。
 繋がっているのに、つながりはない。それは豪炎寺にとって今までもこれからも当たり前のことだったのだが、今になってそのことを少しだけ後悔した。鬼道はいつもよりやや高い声を濡らし、白くて長い足を絡ませる。腰が揺れるたびに近づく恍惚に、せめて今は、自分だけが与え得られる歓びに身も心も委ねようと思った。




続く







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©2011 Koibiya/Kasui Hiduki