<夜明けの王と紅月の鬼 五>
澄みきった緑豊かな広い森の中。その道なき道を、一人の少年が走っていた。
歳は十になるかならないか、深緑の着物に茶の袴を合わせ、木漏れ日に輝く銅の髪は高く結っている。目は赤い輝石のようにきらめき、まだ短い二本の角が、銀色に鈍く光っていた。
「師匠(せんせい)!」
洞窟にたどり着いた少年は、呼ばれて奥から現れた背の高い痩躯の男に、飛びつくかの如く駆け寄った。
「来てください! 凄いんです!」
言うなり、疲れも知らず再び走り出すその姿を見て苦笑しつつ、男は静かに後を追った。
森の奥深くにはややひらけた野原があり、そこにまるで幻のように一本の桜が立っていた。老いた桜は麗らかな春すらも、もう静かに時を過ごすのみだったのだが、少年は毎日声をかけ、唄を歌い、その太い幹の周りを舞い踊った。その力を受けて、再び老桜は花をつけたのだ。
「見てください!」
両手を広げた少年は得意気に、満開の歓喜に笑う。
「よくやったな、鬼道。これがオニの力だ」
男はほんのわずかに微笑んで、その頭に大きな手を載せた。
影山零治は当時最強のオニであり、鬼道の師だった。オニの集落からは少し離れた洞窟に住まい、他のオニたちは恐れて近寄らなかったが、鬼道は家族を守るためひたすら強くなりたいと頼み込んで、弟子と認めてもらった。鬼道は彼から戦い方、そして力の使い方を教わった。
「オニの力は無限大だ。我々こそが神であり、この森を守るための存在なのだ」
「師匠、精霊や霊魂と話せるのはオニだけなんでしょうか?」
「――鬼道、人間は森を荒らす。木を伐り土を掘り返す。そして、我々を忌む。……忘れるな」
その影山の顔がいつになく険しかったのを、覚えている。
彼に学ぶことは多く、そしてとても楽しかった。教え方は几帳面で厳しい。彼が集落から疎外されていようと厳しい言葉を受けようと一心に信じたのは、それが叱咤激励だと理解していたからである。そして確実に鬼道を鍛え、磨きあげた。教わったことを自分が吸収していくのが分かるからこそ、楽しかった。
「鬼道、下の名は、有人と言ったな」
「はい」
風が吹き、桜の花弁がひらりと舞うのが見えた。それを眺め、影山は呟くように言う。
「鬼道有人……お前なら、最強のオニになれるだろう」
なぜ自分は最強になれるのか嬉しい半面、困惑して質問もできずに、ただ影山の表情の読めない顔を見上げた。結局、教えてもらえずじまいになってしまった。
人間たちとは折り合いをつけ、互いにうまくやり過ごしてきたはずだった。だが、人は常に愚かな過ちを犯す。退治師を雇った人間たちに奇襲を受けて散り散りに逃げ出す仲間を見て、影山はひとり集落に残った。
「行け、鬼道。決して振り返るな」
彼をそうさせたのは仲間思いに目覚めたなどという美しい建前ではなく、逃げ出すような自分が許せないというだけであった。
「お前は力を蓄え、仇を討つのだ。私の最強の弟子、お前なら……」
父に連れられ、別れを告げに戻ることは叶わなかった。振り返った遠く、最後に見た師の姿は、首から上が飛んだ瞬間だ。美しかった長い灰色の髪が舞い、立派な角は折れ、そこらじゅうに鮮血が飛び散った。
影山の尊い犠牲のおかげで、仲間は半数が生き延びた。少しずつ退治され数は減っていき、数年後、鬼道は集落へ戻った。戦で家族も友達も失った。
だが、今や鬼道には家族も友達も必要なかった。少年は一人血の海に佇み、自分のすべてが変貌を遂げ、進化したのを感じていた。
「師匠、仇は討ちました。貴方が教え与えてくれたのは、この力だったのですね」
独りでに口角が持ち上がり、闇の中に己の手をかざす。月光にきらめくのは、鮮血の赤。それは略奪した勝利と、鉄の味がした。
どこかで灯りが倒れたのだろう、いつの間にか火に包まれた家々を眺め、鬼道は笑う。虚ろな達成感の裏にある深い悲哀を見て見ぬふりをしながら、燃え尽きて沈黙した集落を後にした。
これが、オニの力だ。破壊と獲得、万物を凌駕する強さ。人間、精霊、妖怪、すべてのものが鬼道を畏怖し、彼に服従した。
***
呼吸が苦しくて、暗闇の中で目を覚ました。隣の体温に身を寄せて、古い夢を見た後の憂鬱な気分を紛らせたかったが、どうも簡単にはいかないようだ。
知ってか知らずか、豪炎寺はその肩を抱き寄せる。
「……起きていたのか」
「寝顔を見てた」
悪戯っぽく囁く台詞に苦笑して、鬼道は再び目を閉じる。暑い夜なのに、体は震えていた。
朝目が覚めた時、隣に誰かが居るのは久しぶりだった。この狐とは慣れた付き合いだが、今までそんなことを気にしたことがあっただろうか。
「……ここに、居てくれないか」
呟いたそれはやけに弱々しく聞こえ、豪炎寺は一笑して鬼道の頬を撫でる。
「冗談が可愛くなったな」
本人すら知らない鬼道の心を知っているが故に、別れの接吻もないまま布団を出る。彼はそこまでお人好しにはなれなかった。
暑くて開け放したままの障子の間から庭を眺めるでもなく眺めていると、白い狐が横切った。すらりとした長身ではあるが鬼道よりも一回り頑丈そうな体つきで、白い尾は揺れることなく着物の隙間から荘厳に伸びている。
寝起きの怠さを振り切り、不動は着替えて庭へ降りた。昨夜は寝付きが悪く、結局夜が明けても意識は覚めていたため、寝起きというよりは寝不足で怠いのだろう。今だって熟睡できないうちに、ふと起きてしまったのだ。
気配を感じて、肩に触れる銀髪を紐で結い終えた豪炎寺がゆっくりと振り返る。
「……お前か、あきおと言うのは」
よく通る中低音は、音量が然程無くともはっきりと耳に届く。急いてはいないが慣れた手付きで、はだけた着物を整える襟から逞しい小麦色の肌が見え、腹ただしく目を逸らした。知ったように名前を口にされるのも、不動には嫌味になる。その態度が答えになり、豪炎寺はふっと自嘲気味に笑んだ。
「ずいぶん嫌われたものだな。安心しろ、もう帰る」
苦笑する顔も端正で歪まない。不動はその黒水晶のような瞳を睨み付ける。
「別に、遠慮するこたぁねえよ」
豪炎寺は少し驚いたようだった。そして、面白そうに言う。
「お前が思っている以上に、有人は――、俺は只の、飼い犬に過ぎんのさ」
ぱっと炎が燃え上がり、人間と同じくらい大きな白い狐に変化した豪炎寺は、尻尾をひと振り霞漂う森の中へ消えて行った。
振り返ると、鬼道が縁側に立ってこちらを見ている。昨夜の事といい、どうも釈然としない。不動はもう一度森を見やり、鬼道とは離れた縁側から屋敷の中に戻った。
豪炎寺は寺へ戻る道すがら、夜のことを思い返していた。求められるままに応えても、表面上は変わらないように見えても、明らかに今までとは違う。何かから逃避するための寄り処としてすがりついているような、そんな求め方だった。
この鬼道をここまで悩ませるとはどんな人物だろう、と思いながらそっと頭を撫でると、指先に硬い角が触った。
オニ、とは言っても、鬼道はただのオニではないと思う。最も気高く力を持っているが、それだけでもない。鬼道は出会った時からずっと、何にも興味を持たず、人を喰らってまで生きていく意味を見失ったまま、当てもなくさ迷っていた。
何百年前だったか、珍しく寺に客があった。ひどい土砂降りなのに何も持たず、ずぶ濡れのオニは静かに「雨宿りをさせてくれ」と頼んできた。断る理由も無く、二つ返事で泊めてやった。鬼道はまだ若くて鋭く、荒んでいて、傷だらけだった。
いくら美貌とはいえオニを誘惑するなど考えもせず、雨が止んだら消えてしまうだろうと思っていた。豪炎寺の方が鬼道の妖力に惑わされていたのかもしれない。それでも、雨音を聞きながらどちらからともなく重ねた体は熱く、見返りは少しも無いのに満たされるような感覚があり、幻想を抱かせて策略や金の為に何十人と床を共にしてきた豪炎寺に珍しく感慨を与えた。
今朝会った少年は、口と目付きは悪いが芯を持っていた。正直、驚いた。あんな人間の小僧相手に何をやっているのだろう、そう思いながら、鬼道にもう一歩踏み出して欲しいと願う自分もいる。オニだろうが何だろうが、同じように、幸福を感じる時を過ごしても良い筈だ。
豪炎寺は岩山の上で振り返り、霞の漂う谷間を見つめた。
そして、少し笑って山の向こうへ消えていった。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki