<夜明けの王と紅月の鬼 六>
豪炎寺が帰った後も、鬼道はそれまでと同じように過ごしているように見えた。だが、初めて会った時より、少し変わった気がする。
数ヵ月という短期間で、彼の何が分かったのかと聞かれたら答に窮するが、書を読んだり、がむしゃらに武術の真似事――形にもなっていないが――で体を動かす不動を、鬼道は横で眺めている。質問すれば書に書かれていない歴史の詳細や裏話を教えてくれたり、暇潰しに武術を教えてくれることもあった。そんな中から、これが鬼道有人なのだと、漠然としながらも感じ取ることができた。
そんな不動に木刀(たち)を持たせ、鬼道は徐に剣術の稽古を始めた。
「武器とか使うんだ」
「昔は使ったこともあった」
こんな程度の武器では、武器にもならないと知っているから安易に持たせるのだろう、と不動は考える。
「取り敢えず、やってみろ」
最初は出鱈目だった剣捌きが、鬼道の受け返しによって学習し、磨きあげられていく。しばらく無言で、不動の掛け声だけが庭に響いていた。
「お前は飲み込みが早い。だが自惚れるな」
乾いた音が連続して鳴る。不動は胴めがけて打ち込むが、素人の力任せは余裕でかわされる。
「分かってる、よ!」
「ほら、そこだ。今のも自惚れの一部だぞ」
「ちぇっ……いちいち、」
ふと見ると、その整った顔はわずかだが笑っていて、妙な気分だった。
「――うるせぇんだよっ!」
「どうした、敵にのせられているようでは、負けるぞ。敗けは即ち、死だ」
構えたまま、じりじりと地面に大きな円を描くように動く。不動の眼の色が変わる。鬼道が刀を持ち換えた瞬間、不動は大きく胴へ打ち込んだ。かわされて、さらに斬り上げる。身を引いて避けた鬼道が、肩を狙って振り下ろす。それをかわしがてら、首筋を襲った。振り下ろした直後であれば隙が生まれると読んだのだが、それよりも鬼道が小手を狙ってきたのをかわさねばならず、不動は飛び退いて地面に手をついた。
「クソッ」
「先に何が起こるか、常に分析して推測しろ」
激しい攻撃を受け流す鬼道は息も切らさず、未だ余裕綽々に見える。
悔しさに、立ち上がりざま力任せに振り払う。
「感情に流されるな。自分の判断を信じろ」
「畜生……」
悪態をつき、一度間合いを取った。ふーっと息を吐き、集中する。射るような目は真剣その物である。小手を狙って打つがかわされ、しかしそれを予測していた不動は胴を狙って再び打ち込んだ。鬼道は身を捻って避けたが、不動には手応えがあった。体の平衡を崩して、鬼道は尻餅をつく。
「……よっしゃ!」
「やるじゃないか」
「参ったか」
手加減どころではないオニ相手にたまたま一本取ったからといって、得意気にふんぞり返る様が滑稽で、鬼道は思わず口元を緩ませる。
「ああ、参ったよ」
珍しい表情に驚きながらも、不動は鬼道を起こすのに手を差しのべる。
鬼道が握ったその手は、温かかった。
寝転がって武士の心得とやらを記した書を斜めに読んでいると、廊下の床がわずかに軋む音がした。前置きも断りもなく襖を開けられることはこの屋敷に来てから当然の事になっているが、入ってきたのは鬼道ではなかった。
「……」
佐久間は襖を閉めても、立ったまま黙って見下ろしている。彼相手には、ばつが悪いなど普段から思いもしなかったのだが、不動は仕方なく体を起こしあぐらを組んだ。佐久間は一呼吸置いて、やっと口を開く。
「俺は、屋敷のすべてが視える。迷惑をかける事を起こしたりすれば、お前が神の子だろうが何だろうが、この手で地獄へ送ってやる。よく覚えておけ」
一言ずつ噛み締め強調するかのように言う片目は確かに、鋭い眼光をもって見下ろしていて、黒い絹に覆われた目はそれよりもさらに恐怖を煽った。だが不動も何食わぬ顔で、やれやれとばかりに大袈裟なため息を吐いてやる。
「ああ、分かってンよ。言いたい事はそれだけか?」
「……」
佐久間は一瞬、誰も聞いていないのを確認したのだろうか、天井を仰ぐように目線を移動させてから、屈み込んだ。
「貴様は、此処に、居るべきでは、ない」
昨夜と同じ威圧的な低い声でそう告げると、佐久間は部屋を出ていった。不動は読書に戻る気もせず、畳に寝転がる。
佐久間の言う事はいつも過大だが、決して嘘ではなかった。
勝手口の前の芝生で、佐久間は身の丈よりも大きな狼に背を預けていた。
「大丈夫か」
「……ああ」
喋った茶色い狼は源田幸次郎という名で、佐久間と同じく鬼道を慕い、付き従っている。この屋敷の番犬とも言える。
「戦は無く、森の中は平和。何も問題ないじゃないか」
それでも眉間の皺を緩めない佐久間を見て、源田は小さく嘆息する。
ふと背中が浮き驚く間もなく抱き込まれ、人間の舌で首筋を舐められて、思考に没頭していた佐久間は声を上げて肩を跳ねさせた。真横での変化にすら気付かない程、深く没頭していたことに気付く。
「よせっ、まだ明るいだろう!」
真っ赤になる佐久間に優しく笑いながら、源田は狼の姿に戻った。
「お前は考えすぎるんだよ。鬼道さんの強さは、俺たちが一番知っている。だから大丈夫だ」
「うん……そうだな」
佐久間は悩みを吐き出すかのように溜め息をつき、その硬く長い毛を撫でながら蝉の合唱を聴く。確かにいくら考えても、答えは望まぬほうに纏まるばかりで、陰鬱だった。
***
温かく柔らかい毛皮の感触を覚えている。追いかけようと思った。だが、今まで良いように利用して甘えてきた自分には、引き留める資格などないと分かっている。それに、どうしても不動を置いて行く事ができなかった。
彼の存在は鬼道を揺さぶる。奴隷でもなければ、召使いでもない。最初は自分の身の危険を感じ、監視するためだった。それがどうして、面倒を見たり剣の稽古まで付き合ってやるようになったのか。これではまるで血縁のようではないか、と考えてハッとした。
「……愚かな」
家族など求めるつもりもなく独りは気楽で、力さえあれば全てのものが十分手に入った。だが、この胸の虚無感は拭えない。何百年という月日を生きて、その生に意義を見出せないでいる。
いつの間にか、美しかった庭の梅も枯れてしまった。枯れてしまっていたことよりも、今まで気付かなかったことのほうが衝撃を受けた。
真夜中、厠へ立った不動が部屋へ戻る途中、鬼道の部屋の襖が開いているのに気づいた。耳をそばだてたが、コオロギの鳴き声以外は衣擦れの音さえ聞こえない。そっと近づいて中を覗くと、横たわる鬼道と目が合った。
「……行くな」
黙って戻ろうとしたが、囁くような声で呼び止められ再び顔を出す。
「ここにいろ」
正直に言って不動に頼るつもりは毛頭なく、そんな自覚もなく、どちらかと言えば自然に出た台詞だった。十五とはいえ子供相手に夜を過ごすのは趣味に無い。孤独には慣れているし、どうということはない。
実際、言った後も特に考えず、気にもしなかった。
「……」
だが、不動は何も言わず去っていく。襖が閉まった瞬間、自分の伸ばした手を叩かれたような感覚に陥る。伸ばしてもいないはずの手を。目眩がしそうになって、寝返りを打って目を閉じた。何を期待したのだろう、所詮は子供だ。
思い出したように深呼吸すると、微かに足音が聞こえた。耳を澄ます間に襖が開き、ばさっと布団のようなものを畳に放り出すようにして置く音がした。後に、疲れたと言わんばかりの鼻息。
「んじゃ、もっと詰めてくれよ」
布団は乱暴にめくられたが、すぐにそっと掛け直された。
朝靄のなか、鬼道は浴衣のまま庭に立っていた。それを見ながら廊下を行く佐久間は、こんな曇った涼しい朝からそんな格好で何を考えているのか、と訝しむ。
理解が追いつかないことや及ばないことは今に始まったことではないが、最近の鬼道は理解しがたい行動が多い。出会った頃の、冷静で残酷な目をした鬼道有人からは想像もできない程だ。
溜め息をついて佐久間が襖を開けると、そこには布団が二組あり、片方で不動が眠っていた。混乱した頭を抱えとりあえず台所へ戻ったが、献立も考えることができない。
「佐久間、着替えるぞ」
振り向くと、鬼道が立っている。いつも通りの表情で、何でもないような声で呼ぶ。こんなことは過去に何度もあった。ずっと堪えてきた。いつも、何事も無かったかのように布団を整えてきた。だが、今回は少し意味が違うのが分かる。
「……布団が干せない」
佐久間は水を張った桶で芋を洗い始めた。自分と、源田と、訳のわからない居候の分。
「ふ、そうか……寝坊はいかんな。起こしてこよう」
鬼道は去っていく。
「……っ」
力を込めすぎて手が滑り、束子で引っ掻いてしまった。赤くなった手の向こうで、放り出された芋が桶の底へ沈むのを見る。
そんな声音を最後に聞いたのはいつだったか。懐かしい、少し笑いを含んだ優しい声が、いつまでも耳に残った。
夕陽が染める縁側で、柱にもたれ掛かるようにして両足を投げ出す姿は、普段と変わらない。糸よりも細い銅で出来ているかのような髪が夕陽に照らされて、えんじ色が淡く滲んでいる。
「鬼道さんの考えていることが分からない」
一歩進んで佐久間は、やはり自分の判断に後悔するかもしれないと同時に、自分にしかできない役であるとも思った。
「あいつは多少特殊だろうが、所詮は唯の人間だから、寿命がある。あと百年どころか、五十年もたない。分かっているんだろう?」
鬼道は何も言わず、聞いているのかさえわからない。
「それとも……本当にあいつのことを想ってやるなら、視野を広げてよく考えた方が良いんじゃないか? ここにいるのがあいつの為になると思うのか」
「うるさい」
鬼道は佐久間を見ずに言う。一瞬で佐久間の胸は収縮したが、歯を食い縛って堪えた。抑揚の無い喋り方は何かを隠している。それは答えではなかったが、答えでもあった。
「昔の貴方は、そんな風じゃなかった。……なぜ弱くなったんだ? あの小僧のせいか?」
「黙れ。弱くなんてなっていない。おれがどうしようと、お前には関係無い」
追い詰めるような言い方に、鬼道の語気が荒くなる。今までは誰に何を言われようと、少しも自信が揺らぐことはなかったのに。
「そう、確かに関係無い。でも、このままでは――」
「黙れと言ったのが、聞こえなかったか」
やっと佐久間を見た赤い眼は、憤りの裏に迷いと哀しみが揺らめいていた。
そうか。と、佐久間は思う。常に強さだけを持つひとなど、存在しないのだ。だからこそ、自分はずっと此処に居場所を作ろうとしていた。残酷な冷たい目よりも好きだった優しい声で、「佐久間」と呼ぶのをずっと待っていたのだ。
「俺はあいつが鬼道さんに負担をかけているのが許せない。狩りだって……俺がいなくなったら、どうするつもりなんだ」
相変わらず蝉が五月蝿い。聞こえないふりもできたはずだ。だが、鬼道の眼は一瞬にして温度が下がった。
「出て行くつもりか?」
予想外の言葉を聞き、思考が絡まる。否定しようと口を開く前に、目線を外した鬼道が付け足した。
「勝手にするがいいさ」
言葉を失って、佐久間は震える。其程までに、あの小僧が特別なんだろうか?絡まる思考の中で、言いたい台詞は山ほど脳味噌を駆け巡るのに、何一つ口に出せない。
何を言っても無駄だと、心のどこかで知っているからだった。叶う筈がないと知りながら、子供のように足掻いてきたのは自分だ。
「……ッ」
佐久間は思いきって背を向けた。ゆっくりと去っていく姿を見送りもせず、鬼道はわざと夕焼けを眺める。雲ばかりが赤く染まっていた。
荷仕度などは無い。夕陽が沈み暗闇に変わった森の入り口へ向かうと、人影があった。
「行こう」
佐久間は源田の胸に飛び込み、顔を埋める。源田は佐久間の少し傷んだ、きれいな碧みがかった銀髪を撫でてやりながら、呟くように尋ねた。
「本当にいいのか?」
「……ああ」
灯りの少ない大きな屋敷を見やり、そこの主に思いを馳せる。
結界は、豪炎寺が帰る時に解かれたままだった。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki