<夜明けの王と紅月の鬼 九>
***
何百年も前に逝った影山が、桜の幹に寄りかかって立っていた。
「師匠……!」
「鬼道、大きくなったな」
記憶と変わらない腕組みをした長身は、確かにそこに居るように感じる。これは夢だ、と知りながら、現実のように感動している自分がいた。
「仰せの通り復讐を果たしましたが、やはり、私は間違っていました。師匠が言いたかったのは、人間との共存……我々オニの、かつての、力を取り戻す、こと……」
気が焦って、言葉が上手くまとまらない。そんな鬼道の両肩を、影山は強く掴んだ。
「オニは決して、人間とは相容れない。その身をもって知っただろう? なぜ今更固執する。その力で仇を討った、お前は間違っていない。――完璧だ」
「せんせい……」
背後で、桜がざあっと散った。明るかったはずの周囲が一気に暗くなる。落ち着けと自分に言い聞かせたが、呼吸に負荷がかかるのをどうしようもない。
「共存? まさか、人間になりたいとでも言うのか? 餌に情を移せば身を滅ぼす。完璧ではなくなってしまう。そう教えたはずだ」
「そんな、……」
果たして、自分の記憶が正しいかどうかも、分からなくなった。目眩がして、息苦しい。混沌に落ちてゆくような感覚に陥る。
「オニは人を喰らう者であり、森羅万象の頂点だ。例え全てが滅びようとも、最後に残るのはただ一人、鬼道……お前だ。私の最高の弟子」
「ちがいます……違います!」
なぜ違うのだと、問われたら答えられる自信がない。漠然とした不安に呑まれ、叫び声をあげたかったが、息苦しくて目眩がする。
目が覚めた暗闇の中で、不動を毎晩呼ぶべきかどうかしばらく考えたが、結局それは賢明でないように思え、目を開けたまま天井を見つめていた。
***
翌日、霧雨の降る蒸し暑い朝だった。いつものように釣竿と籠を持ち、川へ向かう。後ろで鬼道の声がした。
「今日は釣れるといいな」
振り返ると、玄関に鬼道が立ってこちらを見ていた。彼なりに励ましてくれたのだろうか。不動が歩き出すのとほぼ同時に、入り口の戸を閉める。
――それとも。
嘘をついた後の不安感は簡単には消せない。
一匹釣り上げたあと、思い立ってもう二匹、余分に釣ってから川を渡った。蝉は静かで、川の水音と霧雨が際立つ。
断ることもできたはずなのに、真っ直ぐ冬花の家に来ていた。
「来てくれたんだね、明王くん」
家の裏のほうから現れた冬花に、力なくもがく二匹の魚を黙って差し出す。冬花は「気を遣わなくていいのに」と困ったように眉を寄せてから、花弁が開くように微笑んだ。
「ありがとう」
白状すると一瞬、見入ってしまった。今まで見た中で一番温かい笑顔だった。こんなものは望んでいないと自分に言い聞かせ、気の迷いを振り落とすかのように二、三度瞬きする。
「全く、これじゃお礼にならないね。さあ、入って」
言われるままに家へ上がると、奥の部屋に敷かれた布団に、三十過ぎ位の男が寝ていた。
「お父さん、明王くんが来てくれたの」
赤味がかった濃い藤色の髪と髭で彩られた、風貌は二枚目。あまり似てない父娘だなと思ったが、黙って微笑むとひろがる空気が同じだった。
冬花は父親に頷いて微笑みかけ、襖を閉めた。
「お父さんはお医者なの。夏風邪をこじらせてしまって。医者が病気になるなんて、おかしな話よね」
そう言って冬花は少し笑った。
「まぁ……風邪は病気っつーよりは、日頃溜まったモンが出ていくこと、とも言うけど」
「そういう考え方もあるわね」
感心して頷きながら、冬花は囲炉裏の前に座布団を敷いて、不動に示した。
「座ってて。いま用意するね」
ボロボロで古いが、質素ななりにも充実しているらしい畳は、幼い頃母が寝かして父が見守ってくれていた汚い畳にそっくりだ。
手際よく準備する冬花を見ながら、他人の作ったものを食べるのは久しぶりだと思い至った。ふと佐久間と源田を思い出して、もう関係ないと頭を振った。
「昨日は本当にありがとね。どうぞ召し上がれ」
「いただきます……」
どうということはない、雑穀でかさを増やした玄米に漬物、芋の煮物、青菜のお浸しが並んでいる。沁みるような味だった。
「そうそう、これ、うちの畑で採れたお芋なの。小さい畑だけど……どうしたの? 嫌いなものとかあった?」
「……旨い」
「そう? 良かった」
片付けは手伝った。よく見れば、粥を作った形跡がある。手拭いなどは何枚も干してあったし、きれいな水を汲んだ桶が三つも用意してあった。最初は身勝手な女だと思ったが全く逆の性格で、生真面目と巧みな気遣いを持ち合わせている。昨日の笑顔の裏には計り知れない不安と恐怖があったのだ。
「あの。……ご馳走様」
久遠医師は、横たわったままゆっくりと不動のほうへ顔を向けて、微笑んだ。
「いいんだ。こちらこそ、冬花を救ってくれてありがとう。困ったことがあったら、いつでも来なさい」
不動は小さく頷いて、そっと襖を閉めた。
外に出るとまだ午前だというのに真夏の日射しが遠慮なく照り付けていて、眩しい空を仰がなくても雨雲が消えたことは明らかだった。
「またね!」
別れ際、見送る冬花の笑顔が昨日と違うと分かった。しっかりと、目に焼き付ける。黙って背を向ける直前、片手をひらりと上げた自分もわずかに微笑んだことに、不動は気付いていなかった。
不動が玄関へ入ると、鬼道がいた。
「出かける」
佐久間がいなくなった今は自分で獲物を探さなくてはならず、条件に合う人間を見つけに遠くの村まで行くことを不動は知らない。
「行ってらっしゃい」
やや皮肉めいた台詞は無意識に出たものだったが、鬼道はその初めて聞いたその一言に、込められた思いを読み取った。
「行って……来ます」
驚きつつも、開き始めた心からあふれた、あたたかいものに包まれる感覚を味わう。肯定というものがどんなに重要な過程か、気の遠くなるような年月を生きてきて気付かなかった。
玄関ですれ違う。見慣れた戸の向こうに見える外のまぶしい世界が、初めて歓喜にあふれ、そして――一瞬で、美しい情景に亀裂が入った。
「誰と会った?」
振り向く不動からは、気のせいではない、いつもと違う臭いがする。傷んだ古い畳、薬、別の人間。
不動は怯えこそしないが、戸惑い、迷っている。
「答えろ。何処に行っていた!」
自分でも吃驚するほど、語気が強くなっていた。沈黙が訪れ、不動が足の重量を変えて生じた、床の軋むわずかな音がやけに大きく聞こえる。
「旦那には関係ないだろ」
それは事実だった。沸き上がる感情に、戸を閉める余裕も無く鬼道は足早に外へ出ていく。脇目もふらず、ひたすら歩いてふと立ち止まった。彼には、問い詰める必要はない。だから追いかける理由もない。鬼道は自嘲に声をたてて笑った。
丘の上から、すこし栄えている隣村が見える。狩りをする気も失せ、木陰に座り込んだ。崩壊を誤魔化しかき消すかのように、蝉たちがけたたましく鳴いている。感じるのは疲労と空虚。雨は止んだ筈なのに、頬が濡れた。
続く
©2011 Koibiya/Kasui Hiduki