<5000ピースのジグソーパズル 8>







3016

日曜、不動はいつもよりややゆっくり歩く鬼道について行きながら、気付かれないように小さく息を吐いた。
ひとつの問題に直面していた。もし「彼は何だ」と誰かに問われたら、即答することができないのだ。
友達と言うには薄っぺらいし、どこか嘘臭い。ルームメイト兼チームメイト、元同級生……と言うのが一番適当なのだろうが、それでは長ったらしい上に物足りない。
(クソッ……どうしたいってんだよ)
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜると、振り返った鬼道に心配されてしまった。
「不動、そう言えば――大丈夫か?」
「ん、いや。何?」
言いかけた言葉の続きを促す。鬼道は不動についてまだ何か言いたげだったが、諦めたのか最初に言おうとした話へ戻った。
「パスタが食べたいんだが、どうだ?」
路上に車を停めて夕食の店を探していたことを思い出し、不動は頷く。
「ああ、いいよ」
二人で街へ来てみたはいいものの、これではただのデートと変わらない。最初からそのつもりだったなんて言えるはずもなく、不動は時間をかけてボンゴレ・ロッソを平らげた。
「さて、この後はどうする? 酒には丁度いい時間だ」
腕時計を見ながら鬼道が尋ねる。
「酒ったって、お前外じゃ飲まねえだろ?」
「ああ」
週末は電車やバスを使うのだが、運転するからという理由で行く先々で飲酒を断り、頑なにノンアルコールで通してきた姿をよく知っている不動は、いつもの返事にやれやれと口元を緩ませる。
「誰か近くにいんじゃね? 電話してみっか」
「そうだな」
フィディオの番号にかけると、やたら騒がしい中から陽気な声が聞こえた。
『ちょうど良かった! 今、電話しようと思ってたところだよ』
「今どこ?」
『いつものバールさ。二人ともおいでよ』
「分かった」
何も言っていないのに、一緒にいることが当たり前と思われているところが気に入らなかったが、ここでウロウロしていても時間が過ぎていくだけだ。
「何だって?」
電話を切った不動に、鬼道が尋ねる。
「いつものトコだって」
「そうか」
鬼道はどこかよそよそしい感じが否めない。その原因についてはヒントすら見つけられなかったが、不動もまた相手に違和感を与えていた。







見慣れたバルへ着くと、懐かしい顔があった。
「キドウ! フドウ! 久しぶり!」
「デモーニオ……!」
かつて影山の下で鬼道の全てをコピーし彼を超える為に強化され、代償として視力を失った少年は笑顔で二人を抱きしめた。
「元気そうだな」
「うん、おかげさまで! キドウとは半年ぶりかな? 二人ともフィディオと一緒のチームだって言うから、びっくりしたよ」
淡い灰茶色のドレッドヘアーを肩の下まで伸ばしメガネをかけた姿は、研究者でも反戦主義者でも音楽家と言っても通りそうだ。
休日のためか、バルは賑わっている。珍しいゲストのおかげで話題は尽きず、お互いの近況報告だけでも夜を使い切ってしまう。
アルコールも口にせず、デモーニオは話を続ける。
「ルシェが俺のことを支えてくれてる。感謝してもしきれないよ」
隣の市に住んでいるというデモーニオは、選手のメディカルケアを中心に活躍するアスレティックトレーナーをしていると言う。鬼道が至極真剣に尋ねた。
「なんだ、お前たち恋人なのか?」
「違う違う! まだ学生だよ。俺とルシェは、兄妹みたいなものさ。フィディオが大兄貴かな。今一緒に住んでるのは、その方が家賃が半分で済むから。卒業したらルシェは一人で歩いていくんだ」
不動と鬼道より先にデモーニオのことを知っているため、これまで殆ど黙っていたフィディオがここで口を挟んだ。
「二人も一緒に住んでるんだよね」
「ええっ、そうなのか?」
驚いたデモーニオが勢い良く尋ねる。横で鬼道が、話の暴走を止めようと身構えるのが分かった。
「いや、」
「えっ、もしかして恋人なの?」
「ちがうちがう」
やっぱりそう訊かれると思っていた不動は、顔の前で手を振り苦笑した。
「お前たちと同じ理由だ。チームメイトだし、便宜上一緒に住んでいるだけだ。友達なら普通だろう」
冷静に説明してくれた鬼道に、同意も含め礼代わりに目線をやった。
「へえ~」と未だ納得しきれず驚きに浸っているデモーニオは、無意識に復讐を果たした。
「仲良しとは思ってたけど、ここまでとはねぇ」
「驚くべきことに、全く同感だよ」
やけに真剣な面持ちのフィディオがテーブルに身を乗り出す。
「恋人になるのも時間の問題さ」
「ならねェよ」
オレはゲイじゃないと言いかけて口をつぐんだのは、そうとは言い切れない部分を自覚しているからだ。笑い声をあげたデモーニオは上機嫌らしかった。
「じゃあ、さぞかし見事な連携プレーを見せてくれるんだろうね」
期待に答えたのは鬼道だ。
「もちろんだ。決勝戦は絶対におれたちが出る。ルシェと見に来るといい」
「喜ぶよ!」
「言っておくけど、決定的な点を入れるのは僕だからね」
嫉妬とプライドと負けず嫌いから口を挟んだフィディオを肘で突いておいた。
時計を見ると、四時間も過ぎていたので引き上げることにした。
「また会おう」
「ルシェによろしく」
フィディオと別れ、車を停めた通りまで歩いていく間、鬼道は何も言わなかった。
(気にしてねェのか?)
車に乗り込み、やっと口を開いた。
「八年か。ルシェは大きくなっただろうな」
不動は鬼道の意図がよく分からず、軽い調子で「そうだな」とだけ口にした。考えれば考える程、分からなくなっていく。まるでなぞなぞみたいだ。
だが、なぞなぞには常に、馬鹿げていたとしても明確な答えがあった。






1494

練習試合のことで相談しようと不動を探したら、廊下で上村詩穂と喋っているのを見つけ、それが予想以上に楽しげで、つい見つからぬ様に曲がり角を戻ってしまった。
よく分からないが、心の中がモヤモヤとして気持ち悪い。少し、苦しいような気もする。義父が電話で仕事の話をしていて、合間に子供には分からない冗談を言って笑っているのを、横で聞いている時のような寂寥感に似ている。
笑って誤魔化せないなら、練習に集中しよう。だが思ったほど進歩は見られなかった。
練習を終えて帰ろうとした時、校門の脇に一人の女子生徒がいた。同学年で、隣のクラスの七瀬美紀だということはすぐに分かったが、それは単におれの記憶が優れていただけの話だ。
「鬼道くん」
彼女は独特のやや掠れたアルトボイスでおれのことを呼んだ。部活が終了した今、辺りは真っ暗だ。こんな時間まで待っているなんて余程の用事だろうと思い、おれは彼女を無視できなくなっていた。
「こんな時間までおれを待っていたのか」
「ええ。……少し、時間ある?」
そう言って連れてこられたのは、駅前の喫茶店。昔ながらの店構えは五十年変わらず商店街にひっそりとあって、静かな店内はゆっくり話をするのにもってこいだ。窓はあるが、今時流行りのカフェと違ってプライバシーもある程度確保されている。
とは言え、おれは誰かに見られたら何と言い訳をすればいいか考えながら座っていた。何の用かと思いきや先程から何も言わず、紅茶も冷めてきた。早く帰りたい一心で、おれは聞かなくていいことを聞いてしまった。
「七瀬、おれに話があるんじゃないのか?」
ぱっと顔を上げた彼女は縋るような視線を送ってきて、再び俯いてしまった。しばらくまたもじもじと続いたが、やがて鞄から手帳を取り出し、手帳から四つに畳んだ紙を取り出し、それをおれに両手で差し出した。
「これ、読んで」
七瀬水産の社長令嬢は、高級厚紙にラブレターをしたため、封筒にも入れずに手渡すのだろうか?
その疑問に答えるかのように、本人が付け加えた。
「今、読んでくれると……」
気が気でなかったが、とにかく今はこの紙を読まなければ家へ帰れない。クリーム色のシンプルだが装飾の施された洋風便箋には、きれいな万年筆の青い書体でこう書いてあった。
“鬼道くんへ
私は小学校の時から鬼道くんを応援してきました。この気持ちがそれ以上のものだと気付いたのは中学校に上がってからです。
鬼道くんにはたくさんのファンがいるから、私なんかが独り占めできないということはよく分かっています。
でも、もし、少しでも私に興味を持ってくれたら、どんな時でも、なんでもします。
私の全てをさしあげます。七瀬美紀”
ご丁寧に携帯番号も書いてある。読み終わっても暫く、まだ読んでいるふりをして頭の中を整理しようとしていた。
ちらと七瀬を見ると、頬を染めて不安げに俯いている。おれは素早く手紙を畳み、彼女のソーサーの下へ挟んで立ち上がった。
「鬼道くん、あの……」
名前を呼ばれ反射的に止まってしまったが、すぐに千円札をテーブルへ置いて喫茶店を出た。逃げるようにして出てきたのは、単に動揺していたからだ。
自慢じゃないが、ラブレターは始めてではない。それに、ミーハーな雷門中の女子たちは公式ファンクラブを作って堂々と声援を送っていたし、それ以前の帝国の中等部では若干の慎ましさが隠しているものの、さもおれが帝王ででもあるかのように崇める者が多数いた。
男子からの人気も自負しているし、自分の能力が稀有なものだということもある程度自覚している。ファンレターは世界中から数え切れないほどもらった。今更告白されたからといって、驚きはしない。ただ、タイミングが悪かった。
不動が女と付き合っているという事実が、想像以上におれを苦しめていた。彼に報復する手段を見つけ、おれは動揺したのだ。






4015

洗濯物を畳んでいると、白いバスタオルにクモがついているのを見つけた。
黒い目の上に白い眉毛のような模様のある小さな体で、彼らは巣を作らず歩きまわり、一瞬のうちにハエを捕食する。
オレはその小指の爪より小さい、タオルの上でじっとしている黒いクモを眺めていた。
子供の頃、親父が「これは善いやつだから、殺したりいじめたりしちゃダメだぞ。善いやつは、益虫と言うんだ。悪い害虫を食べてくれる」と偉そうに教えてく れたことを思い出した。昆虫博士になれるんじゃないかと思うほど沢山の虫を見つけては解説してもらったが、街中で見られる虫なんて図鑑のごく一部もいいと こだ。それでも父親は「これはカナブン」「これはハグロトンボ」などと淡々とだが根気よく、必ず答えてくれた。
得意気に捕まえて見せに行ったオレは、親父によく似ていたということだ。
そんなことをぼんやり思い出していたら、クモを見失った。






3017

風呂あがりにキッチンで水を飲んでいた鬼道が、呟くように言った。
「あ、クモ」
視線を辿ると、天井に黒い点があるのを見つけた。
「へぇ、こっちにもいるんだ」
不動は膝の上のパソコンで動画サイトを開き、"ハエトリグモ"で検索をかけた。
「鬼道クン」
「ん?」
寝室へ向かおうとした鬼道を手招きして、パソコン画面を指す。
「あいつらさぁ、小さいくせにすげー速さでハエとか取ンの」
ソファの背もたれに肘を預け、鬼道は「ほう」と動画に感想を漏らした。
「マミジロハエトリ、か」
「ほら、ここ。すげー速さだよな。見習いてぇよ」
「ハエトリグモは巣を作らず徘徊するんだったな」
「そうそう」
「お前みたいだな」
小さな笑みと共に呟いて、鬼道は行ってしまった。
ハエトリグモは大小あって、種類が色々と違う。
(オレだけじゃねーよ)
不動はノートパソコンを閉じて、風呂へ向かった。鬼道が何を望んでいるかさっきの台詞から分析して考えてみたが、バカバカしくなって途中でやめた。期待なんてするもんじゃない。






3022

土曜の夜、二人はチームメイトたちとパーティーへ行った。
パーティーと言っても、行きつけの店で開かれる打ち上げのようなものだ。しかし勝利を祈ったり仲間を労ったりするのではなく、兵士が戦場へ行く前に盃を交わしたように、国内リーグ戦が始まる前の景気づけである。
いつもは落ち着いた雰囲気の酒場も、今日はほぼ貸し切り状態で、しかし彼らの友人たちや兄妹、居合わせた一般人も混じって、ボリュームを上げたどんちゃん 騒ぎになっていた。こんなに浮かれていても、明後日には凛とした佇まいでピッチに立っているのだから、やはり彼らはプロなのだ。
(オレも気を抜かねーようにしないとな)
鬼道はどうしているかと思い探そうとした時、一人の女が不動の目の前に現れた。先程紹介を受けた、陽気なDFマルコの妹だ。
「どう、少しはこのチームや国に慣れた?」
「ああ、おかげさまで。皆に良くしてもらって、有り難いよ」
高校を卒業したら大学へは行かず、マッサージ師になりたいのだと言う。くすんだ緑の瞳が綺麗で、つい見とれてしまった。
「ねえ、ちょっと来て。素人だけど腕ならいいでしょ? マッサージさせて」
腹を抱えて大笑いしている兄をちらりと盗み見て、マルコの妹ソフィアは不動を連れて店の裏口から外へ出た。
ドアを閉めると、店内の重低音だけが響いている。気付くとソフィアの灰緑色の瞳が目の前にあった。
「マッサージ、して欲しい?」
答える前に唇が重ねられた。控えめに応えながら、これはマルコにどう顔向けしてよいのやらと考えるが、あまり意味はない。面倒だから知人には手を出さな かったのだが、ソフィアは可愛いしスタイルも良くて、なお悪いことに数ヶ月ご無沙汰だった。据え膳食わぬは男の恥、だが、何かがおかしい。久しぶりに触っ た豊満なバストは極上の柔らかさだったが、ちっとも興奮しなかった。
彼女の何がいけなかったのか、明確に答えることはできない。なぜなら彼女は悪くないからだ。不動はジッパーを上げながら、泣きそうになった。
「君のせいじゃない。君は充分に魅力的だ。きっとマルコがオレに呪いをかけたんだよ」
下手くそなイタリア語にソフィアは苦笑して、店の中へ戻っていった。
「くそっ……」
不動は壁に凭れ、しばらく夜の冷たい空気を吸った。原因も理由も分かっている。むしろ、今まで押し隠し続けてきたもう一人の自分に、いい加減にしろと反撃された気分だった。







不動を探したが見当たらないので、仕方なくカウンターに座った。煙草は吸わないが、慣れてしまったのだろうか、充満する煙は嫌いと言う程ではない。しかし喫煙者より周囲の方が体に悪影響を及ぼすと聞いていたので、長居はしたくなかった。
店主におかわりを勧められ、もう帰るからと断った時、裏口のドアから不動が現れた。
「何をしていたんだ?」
ただ何となく聞いただけだったが、不動は不機嫌に顔をしかめた。
「帰る。お前は?」
返事の代わりに席を立つ。深夜に向けてヒートアップしているどんちゃん騒ぎを横切る途中、フィディオに捕まったがなんとか逃れてきた。
タクシー乗り場まで歩いたが、不動は黙っていた。
「具合でも悪いのか?」
「ん? ううん」
運転手に住所を告げ、財布を用意する。
「そっちこそ、酔った?」
「いいや。あまり飲んでいない」
自分から尋ねたくせに、答えてやっても反応がない。窓の外を眺める不動は、それきり何も言わなかった。






1496

七瀬美紀を家に呼ぶのは簡単だった。義父が会食で遅くなる日を選び、メイドには説明の必要がない。万が一聞かれたら、勉強すると言えば済む。友達だってしょっちゅう来ているので、怪しまれることはない。
「お邪魔、します……」
さすがに大手企業の社長令嬢なので、屋敷に入った途端チョコレート工場の見学みたいに振る舞ったりはしない。
「おれの部屋は二階なんだ」
ゆっくりと部屋へ向かうと、彼女は静かについてきた。覚悟を決めているような空気が伝わってきて、背中を冷たいものが流れる。
「寛いでくれ」
ソファへ案内して、向かい合わせに腰掛ける。喫茶店と同じように彼女は少し俯いて、膝の上で拳を握り締め、テーブルを見つめていた。
メイドが紅茶とクッキーを乗せたトレイを置きに来た後は、ひたすら時計の音が響く。
「あの」
「あの……」
沈黙に耐え切れず、口を開いたタミングが重なってしまい、思考が乱れる。
「何だ?」
先に聞き返すと、彼女は一度口を閉じて目を泳がせてから、再び鬼道を見て言った。
「隣に、座っても良い……?」
鬼道と同じくらい、女子にしてはやや背の高い彼女が上目遣いで見つめていて、日本人らしい華奢で壊れそうな人形のような顔にドキリとした。
「ああ」
和服が似合いそうだが、胸の大きさは日本人的ではない。その巨乳が隣に座って、鬼道は鼓動が激しくなったのを自覚した。
(おれだって男だ。女性を圧倒的に容易くリードするのが男の役目だ)
生唾を呑み込み、鬼道はゴーグルを外した。彼女の肩をそっと掴み、ゆっくりと顔を近付け、目を閉じる。唇に柔らかい感触を得て、なぜ目を閉じたのに人は唇の正確な場所を知ることができるのだろうかと思った。
眩暈がする。ぼんやりしたつもりはないのだが、いつの間にか彼女はキスをせがむように唇を押し付け、鬼道の手を持ち上げて自分のはち切れんばかりの胸に当てていた。
箱入り娘の願望が押し付けられ、憧れの人に処女を捧げるという愚かしくも美しい青春の欲望がむき出しになり、鬼道はそれらを嫌悪すべきものとして処理した。
「すまない」
突き放した後、絶望した彼女がただ黙って逃げる道を選んでくれたのは幸いだった。かけるべき言葉が何一つ見つからない程、鬼道も動揺の極みにあったからだ。
(何が男だ。何が女だ。人間は人間じゃないか)
ある種の悔しさから涙が滲み、目を袖で拭う。すっと息を吸って、何事もなかったかのような部屋でひとり、冷めた紅茶を飲んだ。






4492

こんなことをするのはどうかしていると自分でも思ったが、この天才ゲームメーカーが考えに考えた末、他に良い方法が浮かばなかった。
電話して三十分で来訪ベルが鳴り、ドアを開けて彼女を中へ入れる。
「こんばんはー、アユミでぇす」
「こんばんは。どうぞ入ってくれ」
「はぁい。失礼しまぁす」
甘ったるい声で微笑むと、コートを脱ぐ。タイトな紫色のミニドレスは安物だが、その目からはプロ意識を感じた。ホームページを二十分睨んで選び抜いた慧眼に狂いはない。
「お客様お若いんですねーっ。さあ、どうしましょっか?」
簡素なベッドに腰掛け、首をかしげて足をゆらゆらと動かす。
「アユミ、何でもしちゃうよ」
鬼道は立ったままスラックスのポケットに手を突っ込んだ。
「アユミさん。怒らないで聞いて欲しい。今日あなたに来てもらったのには、理由があるんだ」
「何々~? アユミ、秘密とか大好き」
柔らかい表情で、接客のプロは珍妙な客を見上げる。
深呼吸を一つ、ゆっくりと行った。
「おれは同性愛者なんだ。しかし、近い将来、女性と結婚しなければいけない。そこで、プロの君に協力してもらいたい……」
さすがにこんな客は史上初だったのだろう、アユミはぽかんとしてしばらく固まり、そしてさらに口を開けた。
「はあ!?」
怒りは少しで、ほとんどは驚愕によって理解が追いついていないだけと読み取り、鬼道は少し安堵する。
「本当にすまない。だが、中学の時から――いや、もっと前だな、悩み続けていて……医者に、まずは行動してみろと言われた結果がこれだ。こんな方法しか、思いつかなかった」
アユミは数回、口を開いては閉じ、その度に言葉を失い、何度目かにやっと呟いた。
「あっきれた……マジメに?」
ベッドに倒れ、大の字になる。
「すまない。大マジメだ」
その隣に腰掛け、肩の力を抜いて座った。アユミは起き上がり隣に体を寄せて来たが、顔を覗き込んでいるだけだった。
「ちょっと待ってよ。無理しなくていいんじゃないの?」
見込み通り、頭の良い女性だ。こんな職業には勿体無い。
「いや、ダメなんだ。医者は治せないと言ったが、おれはちゃんとした女性と結婚して家を継がないといけない」
シャツのボタンを外し始めた鬼道の手を掴み、アユミは赤い目を見つめた。
「待って。おかしいよ、そんなの。何で"しなきゃいけない"なの? 望まない人生を行くと、ずっと幸せになれないんだよ」
その目が必死に訴えていて、つい心を許してしまった。
「幸せは自分で作り出すものだろう。望まない人生なんてない。全ては自分次第だ」
「じゃあ好きな人は? いないの? もっとすてきな道があるんでしょ? お金には困ってなさそうだし」
早々に、もう反論の余地はない。鬼道は沈黙によって答えていることに気付けない程、余裕を失くしていた。アユミは鬼道の肩をそっと撫でる。
「なぜ、分かる」
「だって、無理してるもん。好きな人がいるなら、その人と幸せになれる道を探さなきゃ」
「無いから、今、こうして……!」
叫びは恥の渦に呑み込まれていった。少し時間だけが過ぎ、アユミがまた口を開いた。
「ねえお兄さん、まず問題を整理しよーよ。お兄さんって、いつも一人で抱え込んで自己解決しようって思いつめちゃうタイプでしょ? こんなデリヘル嬢でもなんでもいいから、誰かに相談しなきゃダメだよ」
靴を脱いでベッドの上に座り直したアユミは、寛いだ様子を見せて安心感を持たせる。鬼道もスリッパを脱いで、彼女と向かい合うようにして座り直した。
アユミは促すように首を傾げ、鬼道のYシャツのボタンを一つ一つ閉めていく。
「さすがの観察力だな」
「何年もこんな仕事やってるだけですけどね」
皮肉っぽく得意気に言ってボタンを閉め終わったアユミは、小さく息を吐く。
「で? 何がいけないの? 好きな人が受け容れてくれないの?」
鬼道はすべて話すか彼女を帰すか、どちらかを選ばなくてはならなかったが、彼は既に、かすかにちらついた希望を逃したくないと必死になっていた。
「おれのことはよく知っているし、受け容れてくれている。呼べばいつだって来るし、大抵のことは話せる」
「じゃあ、あたしじゃなくてその彼氏呼びなさいよぉ~」
可愛く拗ねた風にからかわれ、乾いた笑いがこぼれた。
「カレがいるならいいじゃん。一個解決! おうちのことは分かんないけど、何とかならないの?」
「ならないんだ。だから困っている。父さんは認めてくれないと思うし、おれは家を継ぐことによって恩義を返さなければいけない」
「くれないと思う? まだ言ってないの?」
「いや、父さんもおれのことを知ってはいるんだが……事情が複雑で」
アユミはしばらく何かを考えているようだった。初対面なのにこんなに心を許して話している自分が別人のように思える。いや、初対面だからこそ気兼ねなく話せるということもあるのだろう。何にせよ、鬼道は彼女に感謝した。
「あのね。あたしのママはもう死んじゃったんだけど」
ぽつりと降りだした雨のように話し始める声は、甘さを残しつつ媚びていなくて心地いい。
「いつも言ってたんだ。後悔しないように生きなさいって。あたしは今こんな仕事してるけど、後悔したことなんてないんだよ。色んな人があたしっていう小さ な人間を通して幸せになるの。一時のまやかしだとか、偽りだってボロクソ言う奴がいるけど、あたしにはそうじゃないって分かる。だからこの仕事を続けてるの」
穏やかに話すアユミは、鬼道を見て微笑んだ。
「たまに、お兄さんみたいにヘンな人にも会えるしね」
苦笑を返す。
「やはりヘンだな。すまない」
鬼道は立ち上がって、財布から札を何枚か抜き出した。
「あっ、いいよぉ。何もしてないじゃん」
「呼び出したのだから、そういうわけにはいかない。交通費だ」
「メッチャ多いんですケド……。それとも、やっぱり一発ヤッてみるぅ?」
「それは……」
「あはは、困っちゃってかわいいーっ! 冗談冗談!」
けらけらと笑って、アユミは靴を履きコートを羽織った。
「じゃ、有難くいただきますね」
金を受け取ると、ベッドのサイドテーブルに置いてあるメモに、さらさらと書き残した。
「これ、あたしのプライベートなメアドだから。あたしが恋しくなったらいつでもメールちょうだい」
ピンヒールでスタスタと部屋を横切り、出口へ向かう彼女を追いかける。
ドアの前で振り返り、アユミは「あっそうだ」と忘れ物を思い出したかのように呟いて、鬼道の唇に軽くキスをした。
「ゴメンね、これも後悔しない生き方のお手本」
「どういう意味だ?」
「だってお兄さん、稀に見るイケメンじゃん。ゲイならって納得するけど、やっぱ勿体ないよ」
唇に付いたルージュを拭いながら笑顔で言われ、返答に困る。小さなショルダーバッグを肩にかけた彼女に、頷いて微笑んだ。
「ありがとう」
アユミも微笑み返し、ひらひらと手を振って出ていった。
「じゃあね」
ドアが閉まって、静かな部屋に再び一人になった。しかし脳は久しぶりに冴え渡っていた。彼女は混沌とした街を往く天使だったのかもしれない。






402

少年サッカー世界大会は全ての試合が終わり、閉会式によって幕を下ろした。選手たちは帰国前に一日自由時間が与えられた。
気が抜けてベッドでごろごろしている者もいれば、部屋に数人でこもってカードゲームや会話を楽しむ者、勝敗が関わらなくなったボールで無邪気に遊ぶ者、仲良しを連れ出してライオコット島を観光する者などがいた。
鬼道も例に漏れず、彼らと少しずつ関わり、疲れを思い出した時にはもう日が暮れていた。
「そういえば、不動はどうした? 見なかったな」
「んー、宿舎から出てどっかにいると思うけど……俺たちとズレて同じようなルート辿ってたんだったりして」
佐久間が顔を拭きながら言った。食堂に行くと、大人たちを含む全員が団欒していた。白いメッシュの入ったくせ毛のモヒカンを探すと、早くに席に着いたのだろう奥の壁際で、隣の飛鷹と向かいの壁山、風丸、ヒロトと何か話し、時々笑っている。佐久間と共に空いている席に座った。周りには円堂と豪炎寺、塔子、虎丸がいる。
「お、鬼道! 佐久間! どうだった?」
「楽しんで来たか?」
円堂と塔子の問いに、笑顔で答える。
「ああ」
「あの後、アメリカの二人とフィディオと一緒に、イルカを見に行ってきたよ」
「えーっそんなのあったんだ! 俺もイルカ見たかったなぁ」
目を輝かせる虎丸に佐久間が体験の感想をできるだけ具体的に話して聞かせる間、今度は鬼道が円堂に途中で別れてから後の話を聞く。
「あれから俺たち、綱海たちとヤマネコ島に行ったんだけど、ロココとテレスがジャングル案内してくれてさ、すごかったぜ~! 二人の会話が噛み合わなくて噛み合わなくて、いっちいちぶつかるのなんのって、すげーの!」
笑うところなのか、現場にいた面々が思い出し笑いに声をあげた。
「ロココ? よく一緒にいたな」
「え? なんで? アイツ面白いよ」
底無しの寛容さに通じない鬼道の懸念を読み取って、豪炎寺が微笑んだ。
「自尊心の高い奴だ、もう次のことしか考えていない。次に会うまでに最強チームになってみせると豪語していたから、相変わらず侮れないけどな」
「どんなチームだろうな! 今からワクワクするぜ!」
相変わらずの円堂の笑顔に驚き、豪炎寺と二人顔を見合わせる。見れば、虎丸たちも苦笑していた。可笑しくなって忍び笑いを漏らす。
世界の強豪を集めた最強のドリームチームについて円堂が語り始めたところで待ちに待った夕食が運ばれ、途端に食べ物のことで頭がいっぱいになったことがまた笑いを誘う。終始賑やかなテーブルに身を置きながら、二つ離れたテーブル静かなテーブルが気になって佐久間の後ろから覗いた。ゴーグルのおかげで、周りにはどこを見ているのか分かりにくい。
不動は壁山と風丸の漫才化してきつつあるやりとりに笑っていて、こちらほどではないが盛り上がっているようだ。どうして僅かな間でも一緒に過ごすよう計画しなかったのかと後悔して、考えるのをやめた。
塔子が先ほどのドリームチームについてDFが多すぎると言うのに対して、皆で議論が始まっていた。







まだ実感が湧かない。この島を出て帰国し、日常に戻った時にじわりと何かが襲って来そうで、嫌だなと思った。落ちる途中で引っ掛かってしまい、ぶら下がったまま手も届かずどうにもできない思いをどうするべきか、このままこの島を出てしまって良いのだろうかと考えながら、鬼道は談話室の畳に座り、開け放した窓から真夜中の海を眺めていた。
「なにしてんの」
静かな声は夢かと錯覚する。
「まだ起きていたのか」
「そりゃそっちだろ」
畳に足を擦る音が聴こえた。
(お前と一緒に写真を撮りたかったのに)
横に腰を下ろすのかと思いきや、さっさと行ってしまう。照れ臭いのは苦手らしいので、振り向かないでおく。
「不動」
足音がすぐに立ち止まった。
「ありがとう」
普段ならここで嫌味ったらしく皮肉を返してくるところだが、夜の静寂が見守っていたおかげか、迫り来る寂しさを実感していたせいか、返事のない闇へ振り向いた時、不動は月光の作る陰の中で幾分か素直に微笑んだ。
「感謝してるのはこっちだぜ」
その顔に見惚れたくなくて、眼下へ広がる海へ視線を戻す。
「なぜだ?」
「お前がいなきゃこんなとこ来ねえもん。めんどくさいことばっかだったけど、それなりに楽しかったからな」
もう一度振り向いた時には、既に廊下へ出ようとしていた。これからどうするのかとか、次の約束など、一切聞けなかったが、欲しかったものが手に入って、鬼道はゆっくりと顔を綻ばせた。
これで完璧になった。例え、こうして心を弾ませていることまでもが彼の策略で、まんまと思惑にのせられているとしても構わないと思うほどに。
悲哀が優しい響きを持って染み渡って行く。鬼道は胸を張って、海ではなく空を見上げた。トロフィーと同じ金色の月が輝いていた。






3019

水音が収まるのを待って、隣にいる不動が、呆れているがそれをあまり強調しないように言った。
「なァ、なんで苦手なモンわざわざ食うの」
鬼道は目を閉じて額を押さえ、肘を便器に乗せる。
「苦手というわけでは……」
「いっつもまずそーに食ってんじゃん。そういうの苦手って言うんだよ」
背中をさすり続けていた手を借りてゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かう。自力で平気そうだと見た不動が追い越して行き、コップに水を汲んで渡してくれた。
「おれに苦手なものはない」
酸で掠れた声で呟き、ダイニングに腰掛けて少しずつ水を飲む。不動は目線の先で、キッチンカウンターに手をつき寄りかかって立っていた。
「やめたほうがいいぜ、そういうの。現に体に入ってねェだろ。時間の無駄じゃん」
「だが……」
「だがもくそもねーよ。これで二度目だぜ? 牛がダメなら他の肉にすっから、そういうのちゃんと言えよ。作ってやってる奴のこと考えてねェんだろ」
きつい言葉ばかりだが、声音が優しいのですんなりと耳に入ってくる。眉を下げてやれやれといった風に両手を外側へ開き、不動は苦笑を残して行った。通り過ぎるついでに、外して持っていてくれたサングラスをテーブルへ置いて。
一緒に暮らしているせいなのかどうか、彼は細かいところをよく見ているなと思う。観察力が鋭いのは今に始まったことではないが、相手によって情報量が違うのかどうかは気になるところだ。
(仮に恋人同士だったとして。今キスしようとしたら、応えてくれるのだろうか)
コップが空になっても動かずにいると、不動がまた、リビングに戻ってきた。
「さっさと寝ちまえよ、病人」
脇を通り過ぎ、二人分のバッグから使ったタオルを取り出し、新しいタオルを入れる。荷物を整理している彼の横を通り過ぎる時、まだ掠れているがはっきりと発声して、部屋へ向かった。
「ありがとう」
ゴソゴソとしていたのが急にやんだので、手を止める程度には驚いたのかもしれない。
(おれが礼を言うのはそんなに珍しかったか?)
首を傾げやや心を傷めながら、パジャマに着替える。日頃から、もっと気持ちを言うべきかもしれない。
さしあたって忠告通り、さっさと寝ることにした。






4018

まだ小学生だった。搭乗ゲートの向こうにある大きな機体はそれほど気にならなかったものの、いざ中へ入ってシートに座った途端に体が震え始めた。
周りはゆったりとした座席に、身なりの良い婦人や、年収の高そうなビジネスマンが、イギリスまでの半日かかるフライトに向けて準備している。
体中から冷や汗が吹き出し、眩暈が吐き気を引き起こす。影山は優秀な教え子の異変に気付き、原因も察することができたが、彼は感情というものをとっくの昔に殺してしまっていた。
「お前は、鬼道有人だ。そうだろう?」
低い声が耳元で静かに轟く。
「はい」
ぎゅ、と膝の上で拳を握り、鬼道は必死に深呼吸した。
「意味は分かるな」
恐怖を抑圧によって潰す方法を習得したのはこの時だ。
「大丈夫です」
己すらも押し潰した、その下には思い出があった。







鬼道グループの出資する洋風の霊園には、議員や軍人、遺言書を残して死ぬような社長や会長が眠っている。遺灰をここへ埋葬したのは、義父の意向だ。葬式に呼ぶ血縁者を知らず、当時は彼を気にかける生徒たちや円堂の、ごく僅かな人数が彼の死を悼んだ。それから十年の間に、多くの人が通ったであろう石畳の細い道をゆっくりと歩く。
後ろから、さんざん車内で文句を言っていたため今は静かな不動がついてくる。十周忌だからと言って無理やり呼び出したのだが、文句を言いながら時間通り来てくれるところは変わらない。
立ち止まったところに立っている灰色の石には、ローマ字で名前が刻まれている。きれいに掃除されている段に白いバラを置き、手を体の前で組んだ。しばらくそのまま、優しい風に吹かれて立っていた。
(影山総帥。おれはあなたに、感謝しています。とても)
彼の最後の言葉が美しかった、それだけがせめてもの救いだった。
「お前、毎年来てんの?」
車に乗り込んだ時、不動が言った。
「おれにとって、もう一人の父親のような人だからな」
シートベルトを締め、動きたくないとゴネる体を動かして、エンジンをかけ走りだす。
(こいつがおれを気にかけてくれて、付き纏うのは、あの人がいなくても同じだったのだろうか)
運転に集中しようとする鬼道の横で、小さな溜息が聞こえる。
「ご苦労なこったね」
その声は呆れているふりをしていて、涙腺を震わせた。







つづく






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